残響
空は血のごとく赤かった。
火山帯を覆っていた硫黄の霧が裂け、業火の中から陽が射し込む。その暴虐なる輝きの中心で、永き眠りから巨大な影が目を覚ます。
翠竜王ヴァル=ザハール。
数千年を生きる地上最後の炎竜。
その心臓は大地の鼓動とひとつに響き、咆哮は山々を震わせ、火口に眠るマグマを噴き上げさせた。
竜王を囲むように、エルフの軍勢が陣を敷いている。精霊の森に生きる彼らが炎の領界に足を踏み入れるのは、歴史上初めてのことだった。
それでも兵士たちの瞳に怯えはない。女王レティアが竜王の傍らに毅然と立っているからだ。
「歪みが……見える」
レティアが翡翠の瞳でその断層を捉え、指し示す。兵士たちがざわめく。そこには、異質な世界を覗き込む亀裂が浮かんでいた。
画像や映像が揺らめくその向こうから、純粋な黒がゆっくりと歩み出てくる。
───死を司る神、タナトス。
女魔アグラトという従者を伴い、彼は討伐の使命を帯びて遣わされた。その圧倒的な死の魔力の前に、世界そのものが道を譲り、退いていく。
『死に至らしめよ、ストラト=ヴァリウス』
タナトスが静かに右手を掲げた瞬間、誰もが世界から色彩が失われていく錯覚に囚われた。
竜王が天を衝く咆哮を放つ。その音にレティアの胸が震える。火山帯全域が共鳴し、煮えたぎるマグマが奔流となって噴き上がった。
エルフたちは、それに呼応して一斉に詠唱を開始する。
「結界展開、《緑冠》ッ!!」
古木の根が絡み合い、生命力に満ちた文様が空に浮かび上がる。
灼熱の炎の中に、一時の安寧をもたらす緑の光が芽吹いたが、タナトスの放つ死の呪言は、結界の魔力を正面から打ち砕くのではない。根幹を蝕み、内部から崩壊させる。
緑冠の光は抗う間もなく、枯れ葉のように散っていった。
それでも、エルフたちの決死の抵抗は、決して無駄ではなかった。
呪言が緑冠を打ち砕いたその一瞬の遅延が、タナトスの力をほんの僅かに鈍らせたのである。
竜王は止まらない。否、止まることなどできない。大地を粉砕し、天空へと舞い上がる。
巨大な尾が薙ぎ払われるたび、空気が灼熱の衝撃波と化し、次元の膜を歪ませた。
「神殺しの報い、受けてみよ!!!」
怒りと悲しみに満ちた叫びとともに、竜の巨爪がタナトスへ迫る。
だが、届かない。
タナトスの姿が蜃気楼のように揺らめき、一瞬にして空間の外へと消える。
そして次の瞬間、彼は竜の背に立っていた。
「そなたの咆哮は、実に美しい」
その言葉と同時に、竜の鱗が砂の粒となって崩れ落ちていく。
「くっ……!!」
レティアが渾身の力を込めて矢を放つ。
聖なる緑光を纏った矢は確かにタナトスの胸を捉えた。だが、貫いたはずの矢の方が存在を失い、崩壊して消えた。
竜王は、最後の力を振り絞り、巨大な翼を広げ、タナトスを包み込もうとする。
火と風と大地、そして長きに渡りこの世界を見守ってきた竜としての誇り。全てを一体化させた渾身の最終咆哮であった。
「グオォォォォ!!!」
世界が死によって塗り潰され、存在の輪郭すら奪われていく。
音が、消えた。炎も、風も、そして人々の声も。
残されたのは、タナトスの手に握られた、心臓のような光球だけ。
「座標確保、竜王ヴァル=ザハール。火の領界、観測終了、記録完了」
タナトスの足元で、エルフの女王レティアが膝をつく。目の前に広がるのは、絶望的な灰の世界。竜の雄姿も、森の民の希望も、何一つ残っていない。
彼女は笑った。乾いた、しかし、僅かな希望を宿した笑みであった。
「……神が去った世界にも、まだ……命の残響はあるわ」
タナトスは無言でそれを見下ろす。表情は変わらない。だが、その視線は、灰の中で微かに光を放つ翡翠の羽根と、それに希望を見出すレティアに釘付けになっていた。
死を司る彼にとって、それは理解を超えた光景だったのかもしれない。
アグラトは灰の中で膝を折るタナトスを見上げ、その横顔を永遠に目に焼き付ける。
「タナトス様、意外ですか?」
隣でアグラトが静かに問う。
「祈りは意味を持たない」タナトスはただ短く返した。
「うーん……まぁ、そうですね!」
灰の中で光る羽根を見つめ、アグラトは微笑む。
タナトスは無表情のまま、お付きのアグラトへ命令を下した。
「次の座標へ向かう。北の領界、"覚醒人類の都市"だ。既に終わらせているかもしれんが」
そして、独り言のように呟く。
(いずれ、この世界すべてに、死の静寂が訪れる)
空が再び歪み、黒い影たちは塵の彼方へと消えていく。
残されたのは、風も吹かない、静寂に支配された大地。
その灰の中で、ひとひらの翡翠が、まだ息づいていた。
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