表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/98

残響

 空は血のごとく赤かった。

 火山帯を覆っていた硫黄の霧が裂け、業火の中から陽が射し込む。その暴虐なる輝きの中心で、永き眠りから巨大な影が目を覚ます。


 翠竜王ヴァル=ザハール。


 数千年を生きる地上最後の炎竜。

 その心臓は大地の鼓動とひとつに響き、咆哮は山々を震わせ、火口に眠るマグマを噴き上げさせた。


 竜王を囲むように、エルフの軍勢が陣を敷いている。精霊の森に生きる彼らが炎の領界に足を踏み入れるのは、歴史上初めてのことだった。

 それでも兵士たちの瞳に怯えはない。女王レティアが竜王の傍らに毅然と立っているからだ。


「歪みが……見える」


 レティアが翡翠の瞳でその断層を捉え、指し示す。兵士たちがざわめく。そこには、異質な世界を覗き込む亀裂が浮かんでいた。

 画像や映像が揺らめくその向こうから、純粋な黒がゆっくりと歩み出てくる。


 ───死を司る神、タナトス。

 女魔アグラトという従者を伴い、彼は討伐の使命を帯びて遣わされた。その圧倒的な死の魔力の前に、世界そのものが道を譲り、退いていく。


『死に至らしめよ、ストラト=ヴァリウス』


 タナトスが静かに右手を掲げた瞬間、誰もが世界から色彩が失われていく錯覚に囚われた。


 竜王が天を衝く咆哮を放つ。その音にレティアの胸が震える。火山帯全域が共鳴し、煮えたぎるマグマが奔流となって噴き上がった。


 エルフたちは、それに呼応して一斉に詠唱を開始する。


「結界展開、《緑冠ヴェルデ・ケイド》ッ!!」


 古木の根が絡み合い、生命力に満ちた文様が空に浮かび上がる。

 灼熱の炎の中に、一時の安寧をもたらす緑の光が芽吹いたが、タナトスの放つ死の呪言は、結界の魔力を正面から打ち砕くのではない。根幹を蝕み、内部から崩壊させる。

 緑冠の光は抗う間もなく、枯れ葉のように散っていった。


 それでも、エルフたちの決死の抵抗は、決して無駄ではなかった。

 呪言が緑冠を打ち砕いたその一瞬の遅延が、タナトスの力をほんの僅かに鈍らせたのである。


 竜王は止まらない。否、止まることなどできない。大地を粉砕し、天空へと舞い上がる。


 巨大な尾が薙ぎ払われるたび、空気が灼熱の衝撃波と化し、次元の膜を歪ませた。


「神殺しの報い、受けてみよ!!!」


 怒りと悲しみに満ちた叫びとともに、竜の巨爪がタナトスへ迫る。


 だが、届かない。


 タナトスの姿が蜃気楼のように揺らめき、一瞬にして空間の外へと消える。

 そして次の瞬間、彼は竜の背に立っていた。


「そなたの咆哮は、実に美しい」


 その言葉と同時に、竜の鱗が砂の粒となって崩れ落ちていく。


「くっ……!!」


 レティアが渾身の力を込めて矢を放つ。

 聖なる緑光を纏った矢は確かにタナトスの胸を捉えた。だが、貫いたはずの矢の方が存在を失い、崩壊して消えた。


 竜王は、最後の力を振り絞り、巨大な翼を広げ、タナトスを包み込もうとする。

 火と風と大地、そして長きに渡りこの世界を見守ってきた竜としての誇り。全てを一体化させた渾身の最終咆哮であった。


「グオォォォォ!!!」


 世界が死によって塗り潰され、存在の輪郭すら奪われていく。


 音が、消えた。炎も、風も、そして人々の声も。

 残されたのは、タナトスの手に握られた、心臓のような光球だけ。


「座標確保、竜王ヴァル=ザハール。火の領界、観測終了、記録完了」


 タナトスの足元で、エルフの女王レティアが膝をつく。目の前に広がるのは、絶望的な灰の世界。竜の雄姿も、森の民の希望も、何一つ残っていない。

 彼女は笑った。乾いた、しかし、僅かな希望を宿した笑みであった。


「……神が去った世界にも、まだ……命の残響はあるわ」


 タナトスは無言でそれを見下ろす。表情は変わらない。だが、その視線は、灰の中で微かに光を放つ翡翠の羽根と、それに希望を見出すレティアに釘付けになっていた。

 死を司る彼にとって、それは理解を超えた光景だったのかもしれない。


 アグラトは灰の中で膝を折るタナトスを見上げ、その横顔を永遠に目に焼き付ける。


「タナトス様、意外ですか?」

 隣でアグラトが静かに問う。


「祈りは意味を持たない」タナトスはただ短く返した。

「うーん……まぁ、そうですね!」

 灰の中で光る羽根を見つめ、アグラトは微笑む。


 タナトスは無表情のまま、お付きのアグラトへ命令を下した。


「次の座標へ向かう。北の領界、"覚醒人類の都市"だ。既に終わらせているかもしれんが」

 そして、独り言のように呟く。


(いずれ、この世界すべてに、死の静寂が訪れる)


 空が再び歪み、黒い影たちは塵の彼方へと消えていく。


 残されたのは、風も吹かない、静寂に支配された大地。

 その灰の中で、ひとひらの翡翠が、まだ息づいていた。


お読みいただきありがとうございました。

↓↓ブクマ、星評価ぜひお願いします。励みになります

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ