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観測者

 冷たい蛍光灯の下、静かな研究室で、ライナスがリセットの「承認ログ」を解析して立ち上がる。

 その瞳は星々のように冷たく輝き、ガワだけは人間の形をしている。


 少し離れた席では、ミシェルがパソコンに向かい黙々と作業を続けていた。

 紙コップのコーヒーを一口飲み、肘をついて両目を押さえながらため息をつく。

 何かに迷っているのか、それとも単なる疲労か、彼女の指先は動きを止めていた。


「……ミシェル、どうした?」

 ライナスはミシェルの席まで歩み寄り、立ったまま問いかける。

「何を恐れている? 箱庭のリセットか、それとも自らの死をか」


 ミシェルは黙してライナスを見つめた。


「あるいは、"同じ選択を繰り返す世界"を、か?」

 ライナスは疲れきったミシェルの頬を、掬うように指先で触れた。


「君の"慈悲"は、あまりに人間的だ。だがそれはシステムを壊す。システムが造った理想を、腐らせる」


「あなたは、守りたいのね。でも、私は……」

「守りたい? 違うよ」

 ライナスは首を傾げ、囁いた。


「俺は観たいんだ。君が、何度目で絶望するかを」


 その声は祈りのように穏やかだった。しかし、聞く者の心を切り裂くほどに冷たい。


「……私はあなたの望む答えじゃないほうを選ぶわ。何度でも」

 ミシェルは頬に触れるライナスの手をゆっくり払い除けた。


 部屋は温度を失い、静寂が降りる。エアコンのブーンという音が、昔の夏休みの夜を思い出させる。


「そうかい」

 ライナスは寂しげに笑い、それ以上何も語らなかった。

 それは痛みとも愉悦ともつかぬ、断末魔に似た微笑であった。



 ◆

 万魔殿から命からがら逃げ延びたセーラたちは、オルドの地下室に身を寄せていた。

 室内には焦げた金属と血の匂いが微かに残り、誰もが無言で椅子に腰を下ろしている。


「……天界に侵攻した悪魔王たち、今どの辺まで行ってるか」

 オルドが箱庭アプリで確認し、顔をしかめた。

「半分……いや、もう中層に入った。時間がない」


「負けると分かっていても行く。天界の人々を助けに」

 セーラの声は震えていたが、その瞳には恐怖を受け入れてなお前に進もうとする、静かな覚悟が宿っていた。


「天界の上に"神界"がある」

 オルドが詳しい説明を始める。

 ノートパソコンの画面に、魔導の地図が浮かび上がった。そこには神界への通路、《ヘルメスの階梯》と呼ばれる古代の転移門が示されていた。


「ここを通れば、神界外郭"聖樹の根"に出られる。……守りは万魔級だ。いかに奴らでも、すぐには侵攻できまい」


「わたし達も行こう。戦いはまだ、終わっていない」

 セーラの声に、皆の視線が集まる。


「またあの臭い奴の居るところに行くのか……」

 泣き顔になるカイ。

 オルドはデスクの引き出しから鼻栓セットを取り出し、全員に配った。


「行くのは吝かではないが。セーラ、君の翼……少し焦げてるぞ」

 ふとジュリアンが気になって指差す。


「ほんとだ……」

 セーラは初めて気づいた。

 右の翼の先端が黒く染まり、じわりと煙を上げていた。


「これ……」

「ハデスの呪いの残滓か」

 オルドが答える。その目には、期待にも似た色が宿っていた。


「だが、今のセーラならその魔属性をコントロールできるはずだ。前にも同じことがあった。あの時は自我を失ったが、もう、お前はあの頃のお前じゃない」

 懐かしむようにオルドが言った。


「天魔両属性を操れ。ルシフェルのように」

「わたしに……そんなこと、できるのかな」

「魔属性が全身を支配しようとしたら、意思の力で止めるのだ。翼一枚で充分だろう、そこに魔を宿せ」


 セーラの焦げた翼が、一瞬だけ淡く光を放った。

 黒と白の羽根が風に散る。その光景はまるで天魔再誕の宣告に見えた。


 霧が薄れていく夜明けの中、六人は神界へと歩き出した。その先に何が待つのか、誰にも分からない。

 朝焼けの風が草原を渡り、冷たい露が彼らの足元を濡らしていった。


お読みいただきありがとうございました。

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