11
獣化すれば正気を失うのだとレックスは言った。
また、バケモノになる。争いを好まず、静かに暮らすことを望む彼がまた戦いに駆り出され、自分の意思とは関係無しに人間を殺して喰うバケモノになってしまう。
「――エド?」
貴族の男が、射貫くような目でエドを睨み付けた。
蛇に睨まれた蛙みたいにエドは動けなくなって、抱えていた紙袋をボトッと地面に落っことした。バラバラッと野菜や惣菜、パンが転げたが、拾う余裕など微塵もなかった。
辺境伯だ。
父のアトリエで肖像画を見たことがあった。初老で痩せぎすの、全てを支配しようとする獣のような目と、威圧感。父の描いた絵のままの、冷徹な男――
「女は抱けぬクセに、若い男を飼い慣らしたか」
辺境伯はフンッと鼻で笑って、「殺せ」と顎で兵士達に指図した。
兵士の一人が剣を抜き、エドに刃を向けた。兵士は兜の下から感情の消えたような目でエドを見下ろしている。
「エ……ド…………!!!!!!!!」
レックスの唸り声にハッとして、エドは咄嗟に両手を挙げ、ブンブンと首を横に振った。一歩一歩、慎重に後退りながら、バクバクと高鳴っていく心臓の音を聞いていた。
「や、やめてください……。レックスを戦わせないで。彼は平和主義で、とても優しい。お願いです。レックスを戦争の道具にしないでください……!!」
「黙れ」
エドの足が止まる。
辺境伯はフンと鼻を鳴らして、みるみる顔を歪ませた。
「我が辺境伯領守りの要、獣人レックスに戦わせるなだと……? 笑わせるな。アルヒテレスの戦争は、所有するバケモノの強さで決まる。レックスの獰猛さは何物にも代えがたい。平和主義……? そうだ、平和のために戦わせている。滅びゆく哀れな種族を、私は上手く利用してやっているのだ」
「だ、だからってこんなところに閉じ込めて、無理矢理獣化させるなんて」
「獰猛なバケモノには檻が必要だ。レックスにはアルヒテレス随一の解放的な繁殖施設を用意した。女も都度供給した。不満はあるまい? もっとも、孕ませる前に喰い殺してしまうようだったがな」
……エドの全身の毛がブワッと逆立った。
この辺境伯という男は、レックスをバケモノだと、家畜と同等の生き物だとしか認識していない。
レックスは諦めたのだ。話の通じない相手に何を言っても意味がないと。敵兵を一網打尽に出来る力を持っていながらも辺境伯に逆らわなかったのは、彼が自分よりも後ろにある市民の無事を願ったからだ。それを辺境伯は利用した。
「……間違ってる」
エドは高く掲げていた手を徐々に握って、拳を震わせた。
「こんなの間違ってる。あなたは間違ってる! この世界も、何もかも……!!!!!!!!」
叫び声を上げながら、エドは兵士に体当たりした。突然の挙動に兵士は驚き、剣を落としかけた。
「ダメだあっ……エド……ッ!!」
朦朧としていく意識の中、兵士二人に抑え込まれ身動きの取れないレックスの、悲痛な叫び。
「耳を貸すなレックス。――始末しろ!!」
「ああぁあぁああぁああああぁ――――――――ッ!!!!!!!!」
――一気に、獣化が進んだ。
獰猛な獣人へと姿を変えたレックスは誰にも止められなかった。両脇の兵士をいっぺんに吹き飛ばし、彼はそのまま辺境伯の眼前まで迫った。
目を見開く辺境伯、何かを喋ろうとしたその口が声を発する間もなく、レックスは右手でその頭を捻り潰した。血飛沫が舞った。頭の吹っ飛んだ辺境伯の身体がバタッと地面に崩れ落ちた。
「うわあああ……ッ!!」
兵士達は挙って悲鳴を上げた。レックスは逃げようとする兵士をむんずと掴まえ、片っ端から首をへし折った。二人バタバタと倒れるのを見もせずに、今度はエドに剣を向ける兵士目掛けて大きく撥ね、瞬時に移動する。兵士が背後の獣人に気付く。半分振り向く。レックスが鎧ごとその胸を貫いた時には既に――兵士の持つ剣がエドの身体を斬り付けていた。
「レックス……」
鮮血を浴びた。エドの血だった。
殺した兵士を地面に叩きつけ、レックスはエドを抱き上げた。虚ろな目、傷が深い。ドバドバと流れる血が鼻腔をくすぐる。鼻息が荒くなる、よだれが垂れる。視界が潤み、ボタボタと大粒の涙が零れ落ちていく。鋭い爪がエドを傷付けないように、レックスは優しくエドを抱いていた。それが――エドにも伝わっていた。
「ごめんなさい……無理です、逃げるなんて」
息も絶え絶えに、エドは言った。
震えた手を伸ばし、すっかり狼男に成り果てたレックスの頬に触れる。柔らかい毛の中にすっぽり指が埋まると、エドは安心したようにニッコリと微笑んだ。
「あなたの金色の目が好きなんです。……ああ、良かった。いつもと同じ目の色だ」
エドはそう言って、静かに目を閉じた。
*
辺境伯アーノルド・ヴァン・ウェザレルの訃報と獣人レックスの逃亡が発表された翌日、アーノルドの嫡男ロバートへの爵位継承が行われた。新たに辺境伯となったロバートは隣国リッツエルとの和平交渉を望み、リッツエル王もこれを了承した。
戦争を回避したことでロバートは市民の支持を得、新たな時代の新たな辺境伯の誕生だとアルヒテレス中で話題になった。
*
平穏を取り戻した町を、薄汚れた格好の男が一人、荷物を抱えて歩いている。キョロキョロとあちこちを回り、道行く人に尋ねながら、彼はどうにか目的の家へと辿り着いた。
「これは……その、エドが遺したものです。私には価値が分からないが、大切に使っていた。とても熱心な、素晴らしい絵描きだった」
エドの鞄と絵の道具、それからスケッチブックを両脇に抱えた彼は、ボサボサ頭の髭面で清潔感がなく、太い銀の首輪をしていた。目を合わせたがらない不審な男だと使用人は警告したが、トーマス・ジャン・ハウエルは不思議と彼を、良い人だと感じていた。
「ご迷惑をお掛けしたようですね。写生旅行に行くなどと飛び出して、そのまま帰ってこなかった。で、エドはどこに」
「ここから少し行った山の中の、古城に。確かどこかに地図が……書いてあるので、探してください。たくさん花を植えた。私には、それしか出来なかった」
金色の目が潤むのを見て、トーマスは何かを察した。そうして渡されたスケッチブックをパラパラ捲って、目を見張った。
大きく頭を下げて立ち去ろうとする男を、トーマスは引き留めた。
「あの……! 絵を、描いてみませんか。絵は誰にでも描けます。紙と道具があれば、誰でも。そうして、出来るならば私に、エドの最期がどんなだったか、教えていただきたいのです……!!」
男はボロボロと泣き崩れ、こくりと深く頭を下げた。
*
アルヒテレスの戦争からバケモノが排除されたのは、それから二十年後――
バケモノと呼ばれる存在が居たことを人々が忘れ去るまでには、更に百年以上の時間を要した。
<終わり>
最後までお読み頂きありがとうございました。
ご感想、評価★★★★★など頂けると泣いて喜びます。




