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アルヒテレスの戦争は、所有するバケモノの強さで決まると言っても過言ではない。領主や貴族は自ら飼い慣らした亜人・獣人らに先陣を切らせ、その圧倒的なまでの力で敵を一掃する。
とりわけウェザレル辺境伯領の獣人レックスはその巨体と残忍さで知られていた。全身毛むくじゃらで獰猛な狼頭の獣人を前に、大抵の敵兵達は恐れをなして逃げ惑うが、レックスは容赦なく追い掛け回しては一人残らず仕留めてしまうらしいのだ。
特に満月の夜にはその凶暴さが頂点に達し、敵も味方も見境無しに襲い狂うというのだから手に負えない。獣人レックスの出撃は死を意味する――それは大陸中の常識になりつつあった。
「今日も良い働きだったな、レックス。あとで存分に褒美をやろう」
アーノルド・ヴァン・ウェザレル辺境伯は、隣国リッツエルからの侵入を企てた傭兵団をほぼ一人で殲滅した獣人に、ニタリと笑みを向けた。
丸みを帯びた月が空の高いところに浮かんでいて、森中に散乱する死体を闇夜に浮かび上がらせている。そこら中に漂う血の臭いに息を荒くし唸り声を上げながらも、レックスはアーノルドが腕を擦るのを拒みもしないで虚空を睨み付けていた。
「流石は閣下。獣人を見事に手懐けてらっしゃる」
「駆り出される度に褒美をくださるのだ、獣人も閣下に感謝しているのだろう」
アーノルドの部下達は口々に彼を賞賛した。
獣人はガルガルと喉を鳴らし、闇夜に目を爛々と光らせた。その首には、太い銀の首輪が嵌められていた。
*
ドンッという衝撃と共に、スケッチブックが宙を舞う。大通りの石畳に叩きつけられる直前に掴み取り、エドはふぅと胸を撫で下ろした。
「ご、ごめんなさい」
ぶつかった女は青い顔をして、今来た道とエドの顔をしきりに覗っている。
荷馬車や人に踏まれずに済んで良かったと、エドはズボンの埃を払ってスケッチブックを抱え直した。
「大丈夫です。お気になさらず」
ふと見ると、女は異常なくらい、全身ガタガタと震えている。
年の頃は二十過ぎ。エドより少し年下の、顔立ちの綺麗な女だった。手はざらざらで、頬も少し痩けている。服だけは上等で、妙に違和感がある。
「し、死にたくない。私まだ、死にたくないんです」
エドは事情を察して、人目に付かないところまで彼女を引っ張っていった。背の高い壁に挟まれた薄暗い路地まで来ると、彼女の震えはようやく収まったように見えた。
「追われてるの? それとも、逃げてきた?」
言葉を選びながらエドが尋ねると、彼女は震えた声で「ば、バケモノが」と答える。
「じゅ、獣人のところに行くって知ってたら、私……」
わあっと声を上げる女の服は、よく見るとあちこち薄汚れている。まるで森の中を抜けてきたみたいに、草が擦れたような染みや木の枝に引っ掛けたような跡がある。
「良い仕事があると……お金になると言われて。古城に食べ物を届ける仕事だと聞いていたんです。違う、違った。死にたくないんです……!」
彼女は世話係として雇われたらしい。
誰の世話をするのかは教えて貰えず、食べ物を届けること、食事や日常の世話をするのが主な仕事であると言われて、森の奥の古城へと案内された。前金をたんまり渡され、服まで新調して貰ったこともあって、仕事内容には何の疑いも持たなかったそうだ。
城には大男が居た。全身毛むくじゃらの狼男。それが獣人レックスだと分かった時にはもう遅かった。案内役の男は既に姿を消していて、彼女だけが取り残された。
震える彼女を見つけるなり、獣人は目を爛々と光らせ、唸り声を上げた。
パンや肉、野菜の入った籠を放り投げると、彼女は悲鳴を上げてその場から一目散に逃げ出した。それから無我夢中で森を抜け――大通りでエドとぶつかったらしかった。
「貰うものは貰ってしまったのに、逃げたと知られたら、私……」
「――多分、逃げても大丈夫ですよ、お嬢さん」
「エッ……?!」
「案内役の男も、あなたを古城に連れて行くところまでが仕事だった。具体的な指示もせずに居なくなったのなら、恐らくその後はどうなろうと、彼の知ったことではなかったのでしょう。ですが念のため、貰った金でどこか遠くに逃げた方がいいでしょうね」
信じられないとばかりに目を丸くする女に、エドはにんまりと微笑んだ。
「大丈夫。これも縁です。僕が行って、上手く偽装しておきます。で……、どこにあったんですか? その古城は」
鞄から鉛筆を取り出し、スケッチブックの白いページを開く。強ばった顔で古城の場所を教える彼女とは裏腹に、エドの口元はどこか緩んでいた。




