90 マカロンの難しさ
バレンタインが終わった次の日。
店の空気は少しそわそわしていた。
ホワイトデー限定のマカロンを求めて、県外からも客が来る日が近いからだ。
「マナ」
松永がエプロンの紐をぎゅっと締めながら言った。
「俺……今日からホワイトデー用のマカロン仕込むから。多分、まったく話さなくなると思う」
「話さない……?」
「途中で中断すると全部ロスになる。
あと、接客……今日任せていいか?」
「わかりました!」
松永さん曰く、マカロンは本当に難しいらしい。
普段から仕込み中は無口な彼だけど、
――マカロンの仕込みの時だけは、本当にこちらを一切見ない。
それくらい、生地の状態、メレンゲの見極め、混ぜ方……
全てに職人の勘が必要なのだと前に教えてくれた。
(……かっこいいな)
そう思った自分に気付いて、胸が少し熱くなる。
松永はマナが見ていることに気づかず、
ただ真剣な目つきで生地をすくい、見極める。
───
夕方。
「……今日の分の仕込み終わった……」
ぼそっと小さく呟き、長く息を吐く松永。
「お疲れ様です。コーヒーどうぞ」
「ありがとう」
紙コップを受け取り、ひと口飲む。
緩んだ肩を見ると、どれだけ集中していたのかよくわかる。
「マカロンって……本当に難しいんですね」
「難しいな。メレンゲの状態、マカロナージュ、焼き加減……
ひとつでもズレたら全部失敗だ」
「松永さん、ずっと真剣で……なんか、すごかったです」
「そりゃあ……これだけはごまかせないからな。
通年でやるのは無理だ。だからホワイトデー限定なんだ」
ふっと、口元だけで笑う松永。
その笑顔は以前より柔らかくて、マナの心臓が跳ねる。
「私でも……いつか作れるようになれますか?」
「……あと二年くらいかな」
「二年……?」
「見極める目が育つまで、それくらいかかる」
松永はいたずらっぽく、ほんの少しだけ眉を上げた。
「でも……出来るようになるよ、マナなら」
その一言に、胸の奥がじんわり温かくなる。
(松永さんにそう言われると……なんでも頑張れる気がする)
「さてと……店の片付けしたら、マジパンの確認とシュガークラフトの練習するか」
「はいっ!お願いします」
マジパンは、仕事終わりにコツコツ練習して、
少しずつ目標の時間内に収まるようになってきた。
けれど、シュガークラフトはまだ難しく、
表面が乾燥して、ひび割れてしまうことも多い。
「松永さん……マカロンの仕込みで、疲れてないですか?」
「クリスマス期間に比べたら、楽だろ」
ふっと笑う松永。
「確かに……」
マナも、つられて笑った。
「頑張ります!」
店内には、焼きあがったマカロンの甘い香りが、まだ残っていた。
パティシエコンクール東京大会まで、
あと一ヶ月。
それは、
マナにとっても、松永にとっても、
まだ誰も知らない転機への、静かなカウントダウンだった。
続く




