89 テンパリング
二月に入り、厨房はすっかりバレンタインの空気に染まっていた。
甘く濃いチョコレートの香りが広がる中、松永は大理石の台に向かい、ステンレスのパレットを二本使って丁寧にテンパリングをしている。
動きに無駄はなく、流れるようで——思わず見惚れてしまうほど美しい。
その背中を、マナは手を止めたまま見つめていた。
(……かっこいい)
松永はパレットに少量のチョコをすくい、下唇にそっと触れさせる。
「……二十七度くらいか」
温度計に頼るマナとは違い、松永は感覚だけで微妙な温度を読み取る。
温かいチョコのボウルに冷えたチョコを戻し、ゆっくりと混ぜていくと、表面が次第になめらかに艶を帯びていった。
もう一度、下唇で確認する。
「三十度……。よし」
「マナ、お待たせ」
差し出されたボウルを受け取り、顔を上げたその瞬間——
(……あ)
松永の下唇に、ほんの少しだけチョコがついている。
本人はまったく気づかず、いつも通り真剣な表情のまま。
その不意打ちのような光景に、マナは思わず小さく笑ってしまった。
そっと一歩近づき、少し顔を傾けてのぞき込むように言う。
「松永さん、唇……チョコついてますよ」
その一瞬——
松永の肩が、ぴくりと跳ねた。
「……っ」
驚いたように目を見開き、マナを凝視する。
ほんの一瞬だけ、その視線が揺れる。
(え……照れてる?)
松永はすぐに視線を落とし、慌てて口元を拭いながら、
「……すまない」
いつもより少し低い声。
よく見ると、耳のあたりがかすかに赤い。
(やっぱり……照れてるんだ)
「驚かせてしまって、ごめんなさい」
「いや……大丈夫だ」
普段と同じように返したはずなのに、どこかぎこちない。
マナは作業に戻ったものの、胸の奥の鼓動はなかなか落ち着かなかった。
テンパリングしたチョコを絞りながらも、
(さっきの……気のせいじゃなかったよね?)
ちらりと松永を見る。
彼はいつも通り黙々と作業をしている——はずなのに。
(……あんな顔、するんだ)
胸の奥が、ぽっと温かくなる。
マナは自分でも気づかないうちに、口元を緩めていた。
──
松永の自宅。
夜の部屋は静かで、コーヒーの苦い香りだけが残っている。
マグを両手で包み、ひと口飲む。
(……顔、近かったな)
不意だった。
あの距離、あの声、あの目。
下唇のチョコを指摘されただけだというのに、
心臓のほうが先に反応してしまった。
(不意打ちで……思わず照れてしまった……)
自分でも情けないと思う。
けれど、マナの驚いたような表情が、頭から離れない。
(バレてないよな……)
続く




