88 火災報知器
1月中旬。
コンクールの練習と日々の仕込は並行してしていく。
そんなある日。
「……あ、変わってきた」
仕込み中の厨房。
マナは、小鍋にかけた砂糖がきつね色に変わり始め泡が変わたのを見て、
焦るように生クリームを手に取った。
(温度けっこう高くなってる……急いで入れないと)
一瞬の判断で、生クリームを慌てて投入する。
ドボッ!!
(あっ……やば!全部入れちゃった)
——バチッ!ブクブク!!
鈍い音とともに、鍋の中から白煙がぶわっと立ちのぼった。
「えっ、うそっ!」
木べらで慌てて混ぜるも、煙は増える一方。
《ピィイイイイーーー! 火事です! 火事です!》
突然、火災報知器が叫び出す。
洗い物をしていた松永が、肩をビクッと跳ね上げた。
「ま、松永さんっ!!」
「あっ……くそ、スイッチ切り忘れた!」
煙の充満するコンロを見て、松永が顔をしかめる。
「す、すみません!キャラメル、……クリーム一気に入れたら!」
「火!止めろ、まず!」
「はいっ!」
マナがコンロを止め、松永は脚立に飛び乗って報知器をリセットする。
「……よし、止まった!煙、あと5分で外出さないとまた鳴るぞ!」
「窓!換気します!」
ドタバタとふたりで煙と格闘すること数分。
ようやく室内が落ち着いたころには、
かすかにくすぶる匂いと、マナの小さく縮こまった背中だけが残っていた。
「……ごめんなさい……」
マナがうつむいたまま、キャラメルソースまみれのコンロ台、小鍋をじっと見つめる。
「次から、生クリームは少しずつな」
松永はふっと笑った
「お客さんいなくて……よかったですね」
「これ、満席だったら地獄だったな」
「ほんとに……反省します……」
「キャラメルは一番事故りやすい。温度高いし、煙がすぐ出る」
そう言いながら、松永は冷蔵庫からボトルを取り出す。
「……アイスコーヒー。今暑いだろ、少し休憩しよう」
「……ありがとうございます」
マナがグラスを受け取って、そっと一口飲む。
「俺もな、失敗はいろいろやらかしてきた。落ち込まなくていい」
「えっ……松永さんも?」
「あるよ。仕込んだプリン全部落としたり、発注ミスしたり……笑えないのもあった」
松永は軽く笑って、アイスコーヒーに口をつけた。
「でも、今日のこれも……いつか笑えるよ」
「……そう、ですかね?」
「そうだよ。ひとつずつ積み重ねていけば、いつかミスしない側になれる」
「……はい」
「少しは元気、戻ったか?」
マナはアイスコーヒーを持ったまま、コクンとうなずいた。
「……はい、すごく」
「じゃあ……掃除するか」
「はいっ。鍋とコンロ……責任持って磨きます」
「よろしく」
キッチンにまだかすかに香るキャラメルのにおいと、
なんてことない失敗が、少しだけあたたかい一日になっていた。
続く




