87 東京本大会へ向けて
仕事終わり、松永はコーヒーを飲みながら、コンクールの概要を確認していた。
「マナ、最終確認だ」
松永は、手元のメモに視線を落としながら言う。
「この桃のケーキ、制限時間は三時間。
ムースとゼリーが固まらないと土台が崩れる。だから最初の仕込みが勝負だ」
マナは息を呑んで頷く。
「若桃の甘露煮の生地を先にオーブンへ。その間にムースの計量、ゼリーの仕込み……」
「それと、洗い物」
「……洗い物?」
「片付けながら進めるのも評価対象だ。作業台を汚したままにしない。衛生管理は重要だからだ」
それはいつも松永が言っていること。だけど、改めて言われると背筋が伸びる。
「生地を冷凍ストッカーに入れたら、すぐムースの仕込み。固めている間に、ゼリーの準備。
……薔薇型の桃を作りながら、ゼリー液を流し込む——ここまでで一時間だ」
松永の声は落ち着いているけど、内容は容赦ない。
「次、飴の細工。俺が教えた流し飴だな。固まるのを待つ間にマジパンで人形を作る。葉っぱはシュガークラフト……パーツづくりに一時間十分」
マナはごくりと唾を飲む。
「最後に組み立て。ここで三十分」
松永はメモを閉じ、マナを見る。
「合計で二時間四十分。残り二十分は予備の時間として必ず確保しろ」
「会場の機材、温度、空気……全部違う。何かしらトラブルが起きると思って動くんだ」
マナは震える手でタイムスケジュールを紙に書いていく。
──すると松永が、少しだけ声を落とした。
「……マナ。もう一つ確認したいことがある」
「え?」
「マナは、この大会で何を目指す?」
突然の問いに、マナはペンを止めた。
「書類審査を通っただけで立派だ」
「正直……この作品をそのまま作っても、入賞は難しいと思う」
「……え」
胸が痛む。でも松永は優しい目で続けた。
「アイデア、テーマ性、フードロスの観点……そこは高く評価されるはずだ。ただ、上の細工部分は学生レベルのまま。完成度で勝負するには、もう一つ武器が必要だ」
息が詰まった。
「……武器?」
「マナのアイシングだ」
心臓が跳ねた。
「マナには描く力がある。それを入れて、表現を広げなきゃ勝てない」
「……」
松永は、逃げ道も与えてくれる。
「東京会場に参加することが目標なら、このままでいい。でも……入賞、優勝を狙うなら、もっと時間が必要になる」
マナは視線を落とし、深く息を吸った。
──本当は、ずっと決めていたこと。
「……優勝して……フランスに行ってみたいです」
松永の瞳が、一瞬だけ柔らかく揺れた。
(やっぱりな……)
「時間は厳しいぞ。練習量も増える。バレンタインの仕込みも被る。……それでもやるか?」
「……やります」
迷いはなかった。
松永は短く息を吐き、口元で笑った。
「わかった。なら、俺は全力でマナを応援する」
その言葉に、胸がじんわりと熱くなる。
(マナの、夢を追うその目が……本当に綺麗だ)
(……そんな君が、好きだ)
(今は……指導者として、優勝に導くことが俺の役目だ)
続く




