82 クリスマスのケーキ屋さん
お店に着き、マナは着替え室で身支度を整えた。
松永はいつもより少し多めにコーヒーに淹れて、二人分のコップを準備していた。
12月23日9時。
このお店のオーナーである近田の奥さんが、大きなエコバッグを抱えてやってきた。
「松永くーん、久しぶり! 一年ぶりね」
「瀬川さんね? はじめまして、オーナー近田の嫁です」
「お久しぶりです。二日間、よろしくお願いします」
「ふふ、任せといて! ショーケースの補充も私がやるから、二人はケーキに集中して。適度に休むのも忘れずにね」
「ありがとうございます」
エコバッグから次々と物が出てくる。
「簡単に食べられるおにぎり、サンドイッチ、栄養ドリンクにゼリー、コーヒーもあるわよ」
「わぁ……ありがとうございます、助かります」
「私にはケーキは作れないからサポートしかできないけど、その分全力で支えるわ。必要なものがあったら遠慮なく言ってね」
近田もエプロンをつけながら笑う。
「ありがとう。お店の方は任せます」
「任せなさーい!」
マナと松永は、プチガトー(※小さいケーキ)の仕上げに取りかかる。
昨夜のうちに予約分のホールケーキ、そして23日夕方までのプチガトーは既に作り終えていた。
今からは、23日夕方からの追加分を手早く仕上げていく。
いつもは黙々と作業を進める松永が、珍しく声をかける。
「マナ、ショートケーキ80個からいこう」
「はい!」
寝不足が続くとミスが起きやすい。
二人は確認し合いながら、テンポよく手を動かしていく。
その間も、近田はテキパキと店と厨房を行き来していた。
開店前にもかかわらず、外からはお客さんたちのざわめきが聞こえる。
「よし、私は私の責務を全うするわよ! 開店しまーす!」
カランカラン──と扉が開き、
「わぁ……美味しそう!」という声が店内に響く。
いよいよ、クリスマス二日間の営業が始まった。
──
店内は、絶え間なく人であふれていた。
近田は百貨店での接客経験を活かし、
素早い包装と丁寧な声かけで、見事なさばきを見せている。
その横で、厨房ではマナが静かにモンブランの絞りに集中していた。
淡く甘い栗の香り、
絞り袋から細く流れるクリームの軌跡——
ふと、視線を感じて顔を上げる。
ガラス越しに、小さな女の子がキラキラした瞳でこちらを見ていた。
「わぁ……パティシエのお姉さん、かっこいい!」
(えっ……私?)
目が合った瞬間、女の子はぱっと笑って、元気よく手を振ってくる。
マナは驚きながらも、そっと微笑み、静かに手を振り返した。
「お姉さん、手振ってくれた!やったー!」
その声に、母親が少しだけ頭を下げるのが見えて、マナも軽く会釈を返す。
「ママー、私、パティシエになりたーい!」
その一言に、マナの心が静かに揺れる。
(……私も、あんな風に言ってたな)
幼い頃、ショーケースの向こうでケーキを作っていた人たちに、
ただただ憧れていた——。
(今の私は、あの子にとっての憧れになれてるのかな)
そうだったら、嬉しい。
胸の奥にじんわりとあたたかさが広がり、
マナはそっと表情を引き締めて、再び絞りに集中した。
きっと今日、ケーキを手にする誰かの心にも、小さな幸せが届きますように。
──
12月23日15時。
「さすがに……疲れた」
「疲れましたね……」
厨房の奥、冷凍庫の前。
人目の届かないスペースに折りたたみ椅子を出し、二人は並んで腰を下ろしていた。
手には、コンビニで買ってきたサンドイッチとおにぎり。
店の奥からは、近田の声と楽しそうな客の声が聞こえてくる。
扉の開閉音が、絶え間なく続いていた。
「お客さん……嬉しそうでしたね」
「そうだな。……やっぱり、クリスマスにケーキがあるって特別だよな」
そう言って、松永はちらりとマナの顔を見た。
数秒の間のあと、ふと眉をしかめる。
「……マナ。こめかみに、クリームついてるぞ」
「えっ……?さっき泡立てたとき、少し飛んだかも」
マナが指を伸ばそうとしたとき、松永がためらいがちに声をかける。
「……俺が、取っていいか?」
その一言に、マナの動きが止まる。
(松永さん近い……)
不意に心臓が跳ねた。いつもより、声が少し低く聞こえた気がする。
「……おねがいします……」
無意識に、まぶたを閉じていた。
マナの長いまつ毛を見て
松永はふと前日のマナの寝言を思い出す。
『マツ…ナガさん……好きです』
「……」
(いや……仕事中だ。忘れろ)
そっと、松永の指先が触れる。
一瞬だけ、やわらかく温かな感触。
その温度が、頬にまでじわりと広がっていく。
「……取れた」
松永は、何事もなかったようにペーパーで指をぬぐう。
けれど、マナは顔を上げられなかった。
鼓動のリズムが、さっきよりずっと速くなっている。
「……俺、先に戻る。マナはもう少し休んで」
椅子から立ち上がる松永の背中が、少しだけ遠くに感じた。
マナはその背中を見送りながら、小さく息を吐く。
店内ではまだ、楽しげな笑い声とベルの音が響いている。
けれど、マナの胸の奥には、
その音とは別の、静かであたたかな想いが、じんわりと広がっていた。
続く




