77話 初めての賄い
厨房は、昼間の慌ただしさが嘘のように静まり返っていた。
仕込みを終えると、時計はすでに十九時を過ぎている。
片づけはまだ残っていたが、すぐには終わりそうにない。
「……今日は遅くなったな」
松永が時計を見て、肩を回しながら小さく息をついた。
「はい。思った以上に時間がかかりましたね」
松永は冷蔵庫を開き、食材を眺めた。
「軽くつまめるもの、作ろうか。腹に響かない程度に」
「……いいんですか?」
返事をしながら、胸の奥が熱くなる。
「まあ、俺も食いたいしな」
ぶっきらぼうな声色なのに、優しさが隠せていない。
手際よくフライパンを動かす横顔に、マナの視線は吸い寄せられていた。
(松永さん料理も作れるんだ……)
香ばしい匂いとともに、小さめのクロックムッシュが焼き上がる。
「はい、どうぞ」
帽子を外した松永が椅子に腰かける。
目が合った瞬間、どちらともなく小さく笑った。
「……いただきます」
同時に声が重なり、二人して照れくさそうに視線をそらす。
マナは両手でパンを持ち、一口かじる。
「んっ……美味しいです!」
思わず笑顔になる。
「はは……良かった」
松永の笑みが柔らかくて、胸の奥がきゅっとなる。
「松永さん、料理も得意なんですか?」
「得意じゃないけど、一通りはやる。……マナは?」
「私は……あまり得意じゃないです。友達には『パティシエだから料理もできるでしょ』ってよく言われるんですけど」
松永がふっと笑う。
「そういう誤解、あるよな。料理と菓子作り全然違うのにな」
「お菓子って——卵、砂糖、小麦粉、牛乳とかを計量していって、いろんな種類のものが作れるのって、なんか魔法みたいですよね」
(やっぱり……ご飯食べている時の松永さんはいつもより柔らかい感じがする……)
「魔法、か……」
松永は少しだけ目を細めて、マナを見た。
その視線に、マナの心臓が跳ねる。
沈黙が落ちても、不思議と居心地がいい。
やがて松永が軽く咳払いして立ち上がる。
「……ごちそうさま。さてと、残り片づけるか」
「はい。ごちそうさまでした」
二人で片づけを終え、タブレットに仕込みの数を入力する。
明日からはプチガトーの準備が始まる。
「お疲れ様でした」
店を出ると、夜の空気は冷たく、頬に刺さるようだった。
マフラーを巻きながら車へと向かう。
(冷たいのに……さっきの厨房の温もりが、まだ残ってる)
それが仕事の熱気なのか、松永の近くにいたせいなのか。
答えは胸の奥で分かっていた。
続く




