65 好きじゃない人と付き合えますか?
休み明けの朝。
厨房の窓際には秋の風が吹き込んでいる。
「おはようございます」
マナの声は、いつもより半音だけ控えめだった。
その微かな違いに気づいたのは、松永だけだった。
「……おはよ」
「……」
身支度を終えたマナは、いつもよりゆっくりとケーキの仕上げに取りかかる。
その視線は、どこか遠くを見ているようだった。
(……なんか、ぼーっとしてるな)
ケーキをカットしながら、松永はさりげなくマナの方へ目をやる。
そして、ごく自然に声をかけた。
「……なにか、あったか?」
マナはびくっと肩を揺らし、慌てて首を振った。
「い、いえっ。なんでもないですっ」
頬がふわっと紅く染まる。
(あー……こりゃ、休みに告られたな)
(あの幼なじみ……顔立ちも整ってたし、まっすぐな感じだったし)
聞きたい。けど、聞けるわけがない。
顔には出さずケーキを仕上げながら、松永の胸の内は妙にざわついていた。
───
仕事終わり。
静かになった厨房に、マナの声が落ち着いたトーンで響いた。
「……松永さん、少しお時間ありますか?」
「ん? どうかした?」
マナはなかなか目を合わせず、両手の指をもじもじとからめていた。
まるで呼吸を整えるようにして、言葉を絞り出す。
「……“好きじゃない人”と、付き合えると思いますか?」
「……っはっ!?」
松永はちょうど口に運ぼうとしていたコーヒーで盛大にむせた。
マナは驚いて慌てる。
「えっ、大丈夫ですか⁉︎ ごめんなさいっ」
「……だ、大丈夫、大丈夫……」
咳き込みながら、慌ててカップをテーブルに置いた。
(……びっくりさせんなよ。なんだその質問は……)
ひと呼吸おいて、松永はできるだけ淡々とした声で答えた。
「……好きじゃない人? 付き合おうと思っても、厳しいんじゃないか」
「……やっぱり、そうですよね」
マナの口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。
だがそれは安堵の笑みではなく、何かを静かに確認したような、そんな表情だった。
「……優しくて、頼りになって、いっぱい助けてもらって……
だから“断るのが申し訳ない”って気持ちがあって……」
「……ああ、それはわかる」
「でも、それって“好き”とは違うんですよね」
松永は、ただうなずいた。
けれど心の奥では、ずっと言葉にならないざわめきが渦を巻いていた。
───
その夜。
自宅でコーヒーを飲みながら、松永は同じ言葉を繰り返していた。
『好きじゃない人と付き合えますか?』
あの様子だと、まだ返事していないのか。
それとも……。
俺が気にすることじゃない──
そう思っても、なぜか頭の中が静まらない。
(……筋トレでもするか)
ため息をひとつついて、松永はゆっくり立ち上がった。
続く




