63 動揺する松永
「こんにちは」
ドアベルが軽やかに鳴り、作業着姿の青年が入ってきた。
松永はすぐに思い出す。数日前、マナの隣に立っていたあの——
「……マナちゃんの幼なじみ、だったね」
「はい。航です」
「マナは今、昼休憩に出てるよ」
「……なら、ちょうど良かったです」
その言い回しに、松永の手がほんのわずかに止まった。
(……ちょうど良かった?)
航はショーケースまで歩み寄り、まっすぐに視線を向けてくる。
「俺、マナのことは3歳の頃から知ってます。
昔から不器用だけど、誰よりまじめで……
家の農家の手伝いも、休みの日に文句一つ言わずしてて」
松永は言葉を挟まず、ただ静かに耳を傾ける。
「風呂も一緒に入ったことあります。初めてキスしたのも、マナが6歳の頃。
ふざけて、でしたけど……俺にとっては、ずっと特別な子でした」
「……それを伝えに来たの?」
ショーケースの上を拭く松永の手は止まらないが、その声は少し硬かった。
「……いえ。違います」
航はわずかに眉をひそめ、声を落とす。
「……皆に優しくしてるだけなら、やめてほしいです。
あの子は、そういうの、真っ直ぐに受け止めるから。
“特別なつもりじゃなくても、特別”って……思い込んでしまうんです」
その言葉に、松永の指がほんの一瞬止まる。
(……思い込んでしまう?)
航の表情が少し険しくなる。声には焦りと苛立ちがにじんでいた。
「それに……バツイチ、なんですよね」
その一言に、松永の視線がふと上がる。
「……そうだよ」
「前の奥さんとも……この店で会ってるって、マナから聞きました」
松永の眉がわずかに動いた。
航の言葉は、明らかに探るようで、そして確かめるようだった。
「……マナを、傷つけないでください」
その一言には、張り詰めたものがあった。
松永は一瞬目を伏せ、それからまっすぐに航を見返す。
「……そんなつもりは、ないよ」
「俺、マナに告白するつもりです。
もう、見てるだけじゃ……いられないんで」
「……そうか」
松永の返事は静かだった。
だが、その声から感情を読み取るのは難しかった。
「お仕事中にすみませんでした」
航は軽く頭を下げて、静かに店を出ていった。
「カラン……」
ドアベルの音がやけに長く、あとを引いた。
──
厨房へ戻り、計量を再開する。
「小麦……250g」
(……なんで、あの年下の男が俺の離婚の事や葵のことまで知ってる?)
(……マナが話したのか? 俺のことを?)
「バター……」
(なんで……? 何を、どこまで……)
(いや、それより——あいつ、告白するって……)
「アーモンドパウダー……」
(“ただの幼なじみ”って、言ってたのにな)
(けど……告白されたら、気持ちが動くかもしれない……)
「ベーキングパウダー……」
(顔立ちも整ってるし、言葉にも真っ直ぐな強さがあった……)
「ドライフルーツ150……ん?」
手元を見て、思わず言葉が漏れる。
……計量していたのは、予定していたパウンドショコラではなく、
隣のレシピのパウンドフリュイだった。
(……何やってんだ、俺)
普段なら絶対にしないミス。
それが、よりによって今——。
(……動揺、してるのか)
年下の、マナの幼なじみに。
ただ真っ直ぐに、あの子を好きだと言い切ったその言葉に。
嫉妬じゃない、焦りでもない——
ただ、ざわつく。
——そのとき。
「ただいま戻りました」
マナの声が、厨房の奥へふんわりと差し込んでくる。
「……おかえり」
「……あれ? 今日って、パウンドフリュイの仕込み、ありましたっけ?」
「……いや。思いつきで……」
マナは首を傾げながらも、黙ってエプロンを結びはじめる。
「そういえば、お客さん……来てました?」
「……あぁ。君の幼なじみの、航くんが寄ってた」
「えっ……航が?」
「マナがいないって言ったら、すぐ帰ったよ」
「……そうなんですね」
マナの表情を見ようとして、松永は視線をそらす。
見たくなかった。何かを確認してしまいそうで——
言葉は続かなかった。
二人の間に、ほんの少し、静かな距離が落ちていた。
続く




