62 私、その人の事が好きなんだ
剪定ばさみの刃をタオルでぬぐいながら、
航は栗の枝を見上げていた。
葉を落とした枝は、秋の空に向かって静かに伸びている。
足音が、枯れ葉に埋もれた地面を踏んで近づいた。
「航、今日もありがとう。剪定」
「ん。全然、平気」
彼は振り向き、ふっと笑った。
「……それ、麦茶?」
「うん。どうぞ」
マナが差し出したコップを、航は手袋を外して受け取った。
「ありがと」
ひと口飲んで、のどを鳴らす。
ふたりは、畑の片隅に積んだコンテナに並んで腰を下ろした。
しんと静まる果樹園に、時おり風の音が通り抜ける。
栗の枝が、わずかに揺れた。
「勝さん、腰の具合どう?」
「なんとか。家の中なら動けるから大丈夫」
「……でも、ごめんね。栗の木の剪定頼んじゃって」
「いいよ。うちは今、夏野菜も終わって暇だし」
「本当に助かった」
マナは、航に手を合わせて微笑んだ。
その笑顔に、航は目を細める。
「……マナが元気そうでよかった」
「え?」
「今年の春、お前……笑ってなかったから」
マナは一瞬、返す言葉に迷って黙った。
「東京から戻ってきた時。顔色悪かったし、目が死んでた」
「……そんなに、だった?」
「俺、何回も様子見に行こうと思ってたんだ。けど……出荷と手伝いで手が回らなくて。……悪かった」
「ううん。私の方こそ。誰かと話す余裕なかったから」
マナは、少し俯いて答えた。
航は手にしたコップの氷を、じっと見つめていた。
しばらく沈黙が落ちる。
「でも最近、楽しそうだなって思ってた」
「……そうかな?」
「うん。表情が、戻った」
マナは空を仰ぎ、柔らかく笑った。
「今の店がすごく居心地いいの」
「……あのケーキ屋?」
マナはこくりとうなずく。
「一緒に働いてる人がいて……あの人が、すごく真面目で優しいの」
(やっぱり、あの男か)
「仕込み中はあまり喋らないけど、厨房のこともお客さんのことも、全部ちゃんと見てて」
「……その人の声とか、気遣いがあると……すごく安心する」
マナの口元が、少し緩む。
「……私、その人のこと、好きなんだ」
その言葉に、航はコップを持つ手を静かに下ろした。
秋の風が吹いて、剪定した枝がカサリと揺れた。
「……あの人、年上だろ? いくつなの?」
「松永さん、32だよ。バツイチ。彼女はいないって言ってた」
「バツ……」
航の眉がわずかに動いた。
「……前の奥さんとは、もう連絡とってないの?」
「この前、一回来たけど……その時だけかな。すごく綺麗な人だった」
「……それって、まだ繋がってんじゃねぇの?」
「え……そうかな?」
「そもそも、前の奥さんと普通に顔合わせてんのに、一緒に働いてるやつに優しくしてるとか……中途半端すぎるだろ」
マナは言葉に詰まる。
「……俺、そういうのが一番キライなんだよ。
別れたって言っても、まだズルズルしてんのって……」
航はそう言いながら、自分の言葉に火がついているのを感じていた。
喉の奥に、熱い何かがこみ上げてくる。
「……なんか、ごめん。つい」
「ううん」
マナの声は、少しだけ弱かった。
「……じゃあ、俺、道具積んで帰るわ」
航は立ち上がり、黙って剪定ばさみをトラックの荷台にしまう。
その背中は、何かを飲み込むように、わずかに揺れていた。
そして誰にも聞こえないような声で、ぽつりと呟いた。
「……そっか。好き、か」
乾いた秋の空に、その声はまっすぐに吸い込まれていった。
続く




