55 小さな変化
女性が店を出ると、厨房には再びいつもと変わらぬ空気が戻る
カップを片づけながら
「松永さん……すごく綺麗な方でしたね」
ドキドキしながら話す
「………実は元奥さんだ」
(あぁ……やっぱりな……)
「元気そうで良かった」
と独り言のように話す
「そうですか…」
マナは気の利いた言葉が思いつかず、そのまま仕込みを進めた
―――
仕事が終わり、ホットコーヒーを飲みながら
「松永さん…」
「何だ」
「元奥さんとは……どんな感じだったんですか?」
その言葉に、カップを取ろうしていた松永の手が一瞬だけ止まる
「……普通の夫婦だったよ」
静かな答え
「昔、名古屋の店で皿盛りデザートを任されていて、その時の常連で向こうから連絡先を渡され、そのまま2年付き合ってから結婚したんだが…」
「マナちゃんが想像してるような幸せな結婚生活ではなかった」
コーヒーをゆっくり飲み
松永は目線を落とす
「結婚したら俺が変わると思ったんだろうな…」
マナは、思わず松永の表情を覗き込む
「俺は仕事ばかりしてた」
「彼女は家庭を大事にしたかった」
「俺は彼女を選べず、パティシエの仕事を辞める事が出来なかった……冷たい人間なんだろうな…」
「松永さん」
「ん?」
「松永さんの過去はあまりよく知らないですけど、私が知ってる松永さんはすごく優しい人ですよ」
「えっ…」
「言葉は少ないかもしれないけど…さりげなく私が使う道具とか取ってくれるし、私が怪我した時、病院まで抱えて運んでくれたり…」
「いや…それ普通だろ」
「そうですかね……今まで松永さんが優しくしてくれた事とか話しましょうか?」
マナはニヤリと笑う
「いや、やめてくれ 照れるから」
笑いながら
「冗談です」
松永をまっすぐみつめる
「松永さんは冷たい人間なんかじゃないです それが言いたかっただけです」
松永の表情は緩み 短く息をはいた
「離婚の経緯、話したら、『奥さんより仕事選ぶなんて最低ですね……男として終わってます』とか言われるかと思ったわ」ははと笑う
「そんな事絶対言わないですよ!私」
頬を膨らませる
「すまない…」松永は笑う
マナは笑顔に戻り
「……話せて良かったですね」
「まあな」
松永は短く答えながら、カップを手に取る
けれど、その指先がほんのわずかに揺れていた
(俺は、ずっと踏み込めなかった)
仕事と恋愛の両立ができなかった過去
選べなかった後悔
そして、もう誰かを大切にする資格はないのかもしれない——そんな思い
『松永さんは、冷たい人間なんかじゃないですよ』
ふとした時に、まっすぐそう言い切るマナ
その言葉は、どこか温かくて、迷いをほどいていくようだった
松永はふっと息をつき、手元のカップを置く
(俺は……まだ、過去を完全に振り切れてはいない)
けれど
少しずつ、歩みを進めてもいいのかもしれない
「……まあ、クリスマスが終わったら、一緒に飯でも行くか」
「えっ……?」
マナは目を瞬かせた。
「……いいんですか?」
「でもあれか…年明け書類審査通過したらコンクールの練習になるからやっぱり無理か…」
「えー!!」
マナが落胆する
「クリスマス前に行くか」
「お願いします」
マナは目を輝かせていた
松永は、ふっと口元をひそめるように笑った
どこか久しぶりに、そんな余裕のある笑い方をした気がした——
窓の外では雨が激しく降り続いていた
けれど、不思議と今日はその音が心地よく感じる
いつもなら、どこか沈んでしまう雨の日。
でも今は、少しだけ温かさがあった
次回へ続く




