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52 決別の夜

松永が深夜の厨房の片付けを終え、店の鍵を閉める頃には、すでに日付が変わっていた


家に戻ると、リビングの照明がついている

テーブルの上には冷めたままの夕食


あおいはソファに座ったまま、スマホを見つめていた


「……ただいま」


葵は顔を上げず、低く呟く


「遅かったわね」


「仕込みが手間取ったんだ 明日のオーダーが多くて——」


「本当に仕事?」


その言葉に、松永は足を止める

「……どういう意味だ?」


葵はスマホを握りしめたまま、視線を落としたまま言う


「こんな時間まで帰ってこないのが続くと……

信じていいのか分からなくなる」


「何を疑ってる?」


「浮気してるんじゃないかって……考えたこと、ある」


松永は息を詰まらせた

「そんなことあるわけないだろ」


「でも、証拠はないでしょ?私には何も分からない」

「証拠って……俺は仕事をしてるだけだ」


「そう…」


あおい…この前だってさとしの飲みでも、女と疑って何回も電話して最終的には『飲みの相手と電話代われ』って……」 


「最近、度が過ぎるぞ」


「あなたが…信じさせてくれないからよ」 

「……夜だって最近、私からしか…しないじゃない…」


沈黙が続く



葵はようやく、松永の方へ顔を向けた。


「……仕事と私、どっちが大事なの?」


その一言が、まるでテーブルに置かれた冷めたコーヒーのように、

ひんやりと、静かに空気を冷やしていく。


松永はすぐに答えられなかった。


何かが喉元まで来て、それでも、言葉にならなかった。


「……そんな質問、意味があるのか」


静かに返す声も、どこか疲れていた。


「私にはあるの」

「もう少し、普通の仕事に転職してくれない? そうしたら、私の心も穏やかかもしれないのに…」




ふたりの間に、沈黙が降りた。


松永は長く息を吐くと、

視線を葵から逸らさずに言葉を紡いだ。


「……パティシエの仕事は、俺の人生だ。

でも、お前が大事じゃないなんて……一度だって思ったことはない」


葵は、少しだけ視線を伏せる。

「……言ってくれなきゃ、わからないのに」


その声は、糸を引くように細く、どこか壊れかけていた。


「……ただ、待ってるだけの毎日に、もう耐えられないの……私、どんどん嫌な女になっていく……」



しばらくの静けさのあと、葵はふと名前を呼んだ。


「……ねぇ、大樹たいき


目が合う。


「私たち……もう、終わりにしよう?」


その瞳は、涙を含んで揺れていた。


けれど、笑った。

どこかあきらめにも似たやさしさで、口元だけがふわっと綻ぶ。


「このままだと、きっと……お互い、不幸になっちゃうから」



松永の目がわずかに揺れる。


言い返そうとして、言葉を探して——


けれど、なにも言えずに、口を閉じた。


彼女の言葉は正しくて、

だけどそれでも、何かを掴み損ねたような苦しさが残っていた。



窓の外では、雨が音を立てずに降り続けていた。



次回へ続く

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