50 葵との出会い
『大樹誕生日おめでとう。久しぶり。今度お店行っていい?』
「………酒でも飲むか」
スマホの通知が鳴った夜。
松永はグラスのワインを揺らしながら、その短いメッセージを見つめていた。
――葵。
2歳年上の、元・妻。
胸の奥に静かに波が立つ。
あの夏の日の記憶が、ふとよみがえった。
───
当時23歳。夏限定の皿盛りデザートを、初めて任せられた夏だった。
冷たいグラスの底に、自家製のフレーク。
そこへ桃のソルベ、ムースを重ね、
仕上げにカウンターで新鮮な白桃をカットして仕上げる。
客席から見える位置で手を動かしながらも、
視線を感じていた。
カウンター越し、金曜の夕方に毎週現れる女性。
正面から目が合ったことはなかった。
なのに、何度も目が泳いでいた。
その日も――
「お待たせしました。桃のパフェです」
手元に集中し、声だけで提供した瞬間。
「ねぇ、お兄さん」
不意に呼びかけられて、松永は初めてその女性と目を合わせた。
いたずらっぽく微笑むその人に、不思議と息を飲んだ。
「今、いくつ?」
(……綺麗な人だな)
ふと、素直にそう思ってしまった。
葵は、化粧品会社の商品開発部で働いていると言っていた。
「金曜は早上がりなの。ここのパフェが、週に一度のご褒美なのよ」
と軽やかに笑っていた。
桃がマンゴーに変わり、やがて巨峰になる頃には、
松永は毎週金曜の午後が待ち遠しくなっていた。
───
9月最後の金曜。
季節のパフェの提供が、今日で終了する。
「今年最後の夏のデザートです」
巨峰を飾った皿を差し出すと、葵は少しだけ寂しそうに目を細めた。
「そっか……ここのパフェ、夏限定だったわよね。
残念だけど……楽しかったわ、お兄さんと話せて」
「……ありがとうございます」
パフェを食べ終えたあと、伝票と一緒に渡されたのは、小さく折りたたまれた紙切れ。
「これ、よかったら……」
「えっ」
小さな文字で書かれていたのは、電話番号。
「もし嫌だったら、捨てていいから。
……また会えたら、うれしいわ」
そう言って、いたずらっぽく笑って手を振った背中が、
なぜか記憶に長く残った。
───
それから何度か、店の外で会った。
そして、自然と付き合うことになった。
付き合って2年が経った頃。
「ねえ、最近全然会えないじゃない!」
「……今、百貨店に卸す限定のケーキの仕込みが立て込んでて……人手足りなくて」
「だったらさ……一緒に暮らさない? お互いの家、遠いし」
「……えっ」
「ねぇ……大樹。私たち、籍入れない?」
「……少し、考えさせてほしい」
葵は笑っていたが、その表情はどこか焦っていた。
「私、もう27なんだから。……遊びなら、これ以上振り回さないでよ。責任、取って」
(葵と付き合いはじめたときから、どこかで焦りは感じていた。
でも、遊びじゃない。……確かに彼女のことは、好きだった)
───
後日。親友の聡に相談した。
「……結婚したところで、労働環境は変わらないだろ」
「そうなんだけど……葵が、27で……」
「大樹、お前この仕事辞めるつもりないだろ?
だったら“結婚したらなんとかなる”って思ってたら、うまくいかなくなるぞ」
「……もし子どもできたら、転職も考えるとは思ってたけど……」
「それ、本音か?」
「……2年付き合わせたのは俺だからな」
「……そっか。大樹が決めるなら、俺は応援するよ。頑張れ」
───
その1ヶ月後、婚姻届を提出した。
ふたりで住み始めた。
――うまくいくと思っていた。
その時は、本当に。
次回へ続く




