36 踏み込めない距離
土曜日
穏やかな午後の空気が流れていた。
松永は接客をしていた。
若い女性のお客さんが、会計後
少し戸惑いながら口を開く。
「……あの、すみません」
「はい?」
「もしよかったら、お兄さんの連絡先……教えてもらえませんか?」
松永は一瞬だけ驚いたが、すぐに穏やかに微笑む。
「申し訳ないですが、仕事中なので、そういうのはご遠慮いただいてます」
女性は「あっ……すみません!」と照れながら去っていった
(大人の対応…)
マナはコソッと隠れてその様子を見ていた。
───
仕事終わり
マナはアイスコーヒーを飲みながら、ふふっと笑う。
「今日のお客さん、綺麗な人でしたね!」
松永は軽くため息をつく。
「……接客してると、たまにある」
「モテモテですね」
マナは軽く茶化すように言う
けれど、その言葉に乗ることなく、松永はコーヒーをひと口飲んだ。
「……しばらくは恋愛は良いかな…」
「え?」
その言い方が、ふと気になった。
いつもの淡々とした調子ではなく、どこか重みがある。
「ああ、いや、なんでもない」
(……松永さん、バツイチのこと気にしてるのかな)
「……普通のOLさんとかはパティシエの労働環境、知らないからな」
「え?」
「朝早くから夜遅くまで働いて、仕込みして、片付けして……気づいたら日付が変わってることもある、しかも土日仕事で休みも合わない…」
「そっか……確かに、恋愛する時間なんてなさそうですね」
松永は、苦笑しながらカップを持ち上げる。
「それもあるけど……俺はバツイチだからな」
マナは一瞬、言葉を詰まらせた
松永は続ける
「そもそも、恋愛する資格があるのかどうかって考える。一度失敗してるのに、また誰かと向き合うのが正しいのかどうか……。それに、俺はそこまで連絡マメなタイプじゃないからな」
(……私なら、そんなことで気にしたりしないのに)
その言葉が喉まで出かけて、マナは飲み込む。
簡単に言ってしまえば、軽く聞こえてしまう
松永の中には、まだ消えない思いがあるのかもしれない。
それでも、マナは軽い口調を保った。
「でも、あんな綺麗な人に言われたら、ちょっとくらい心が揺れたんじゃないですか?」
苦笑しながら
「……ないな」
言葉はあっさりしている
マナは、それ以上は踏み込まなかった。
(そっか……まだ恋愛に踏み出す気分じゃないんだろうな。そういえば前の奥さんと1年くらいで離婚したって話してた……すれ違いだったのかな)
アイスコーヒーの氷が、グラスの中で静かに揺れる
「そろそろ帰るか」
「はーい」
松永は、コーヒーを飲み干し、シンクにグラスを置いた。
次回へ続く




