30 松永の師匠
フランスでの修業も半年が過ぎ、
厨房内のフランス語はほとんど理解できるようになり、仕事もだいぶスムーズにこなせるようになった。
簡単な仕込みは任されるようになり、
最初の1ヶ月はよく叱られていたシェフも、
今ではもう叱ることはなくなっていた。
松永の成長を認め、見守るようになった——。
同級生の桂がパリまで遊びに来た時は「友人と思い出を作りなさい」と3日間休みをくれた。
休日は同い年のピエールと街へ出かけ、 有名な道具屋で60代の店員に勧められ、貴重な月給でパレット2本を購入した。
ピエールは優しく、過去の歴代のレシピをコピーして渡し、筆記体で読みづらい文字も、丁寧に説明してくれた。
代わりに松永は、日本語を教えながら漫画のセリフを解説し、馬鹿な話をしては、2人でよく笑い合った。
───
松永の20歳の誕生日には、スタッフ全員が祝い、プレゼントされたのは、フランス伝統菓子の焼型。
その場にいた誰もが、松永の成長を祝福してくれた。
月日はあっという間に流れ、1年間のビザも残り2週間になった。
昼休憩の後、シェフが松永を呼ぶ。
「たいき、散歩しないか」
お店近くの公園をゆっくり歩く。
ピクニックをする家族や、昼寝をしている人たち。
穏やかな時間が流れる。
ベンチに腰をかける。
「たいきは11か月間ずっと頑張ってきたね」
「たいき、パティシエにとって1番大事な事はなんだと思う?」
「うーん、技術…、知識…?忍耐とかですか?」
「惜しいねーSAMURAIみたいだねー」
ハハハと笑う
「答えはとてもシンプルだよ。目の前のお客さんを喜ばせるように、ずっと尽くす事さ」
「たいき、レシピはなぜ時代に合わせて変わっていくと思う?」
「目の前のお客さんが求め、歴代のパティシエ達が改良して、目の前のお客さんを喜ばせたくて新しいケーキを作り、そしてまた新しいケーキが出来て少しずつ変化していったのさ」
あまりピンと来ない松永
「うーん…」
「君にはまだ早いかな……フランスの伝統菓子は素晴らしいけど、日本のお客さんがそれを求めるとは限らない、日本は湿度もあるし、米を食べる文化もあってフランス人程、糖質を摂らなくても平気だからね。目の前のお客さんが喜ばないなら意味がないよ」
「たいき、ここでのレシピや技術はあくまで参考程度だ。目の前のお客さんを喜ばせるように自分なりに少しずつ変化していけば良い。私は全ての弟子達に、この事を伝える事が役割だと思ってるよ」
「後ね……君は自分が不器用だと言っていたが
君は恵まれているよ」
「なんでですか?」目を細める
「不器用なら、自分が苦労した分、後輩が
悩んでいる時に教える事が出来る 君は人を育てる才能があるよ 今は1番下っ端だがね」
ハハハと笑う
「器用な人は出来ない人が理解出来ないから人を育てるのにかなり苦労する。世の中にはいろんな才能があるのさ」
「たいき、君は後輩に優しく手を差し出せる人間になりなさい。そして優しい職人になりなさい」
「はっはい…」
「また君が大人になったらここに遊びにおいで」
「はい」
とうとう
松永が日本に帰る日が来た。
借りた部屋を片づけ、シェフの奥さんとハグをした。
そしてお店に顔を出すと
ピエールは号泣し、スタッフ全員とハグをした
シェフが空港まで送ってくれる事になり、シェフがスーツケースを車に積んだ。
ピエールが泣きながらハグをした。
「たいき 楽しかったよ……ここ継げるように頑張る…」
「ピエールありがとう」
「たいき、行くか」
車が出発し、後ろから店を眺める。
スタッフが道路まで出て大きく手を振っていた。
店はだんだんと遠くなり、見えなくなった。
目頭が熱くなった。
「たいき、C'est la vie」
「えっ」
「『これが人生さ』
私達フランス人がよく使う言葉……」
「きっとこれから生きていくといろんな事があるだろう。どうする事も出来ない時があるだろう。そんなに時、開き直って『これが人生さ』って使うんだ」
「ふふ、映画の主人公みたいでかっこいいだろ」
「はっ…はい」
空港に到着した
別れの時間が近づいた
「シェフ……本当にありがとうございました。自分はシェフが話してくれた優しい職人とかなれるかわかりません」
シェフの目をまっすぐ見る
「でも……あなたから学んだ事は絶対忘れません」
シェフは力強く頷く
「良いね。またお店に遊びに来なさい。たいき、また会えるの楽しみにしているよ」
ハグをする。シェフは強く抱きしめる。
「C'est la vie……仕方ないけどやっぱり弟子との別れは淋しいね」
松永はグッと涙をこらえる
松永は国際線のゲートをくぐり、手荷物検査を受ける。
シェフは松永をずっとみている
奥に進む前に後ろを見ると
シェフが気付き、手を大きく振った。
松永は泣きながら手を振る…。
(ありがとうございます…シェフ)
松永は前に進んだ
───
フランスでの修業を終えた松永は、名古屋の個人店で働き、 本格的に技術を磨いていった。
後輩ができると、育成担当を任されるようになり、 8年間の勤務を経て、現場のすべてを任されるまでに成長した。
そしてある日——
現在の店の物件を知った松永は、28歳の時に独立を決意、新たな一歩を踏み出した
───
アイスコーヒーは、すっかり少なくなっていた。
松永の話に、マナは目を輝かせながらじっと聞き入っていた。
「すごく優しいシェフだったんですね」
「そうだな……」
マナはふっと笑いながら言う
「なんか……松永さんみたいです」
松永は少し驚き、目を丸くした。
「えっ……俺が?」
マナは頷く
「仕事中は真剣で口数少なめなのに、小休憩や仕事終わりはいつも優しいじゃないですか」
「そ……そうなのか……」
松永は、自分でも気づいていなかったことに戸惑う。
(でも、少しでもシェフに近づけたなら……それでいい)
マナは、ゆっくりと微笑んだ
「シェフは、松永さんの原点なんですね……きっと」
「……ありがとう。マナちゃんに話せてよかった」
そう言って、松永は優しく微笑んだ
静かな店内に、アイスコーヒーの残りが揺れていた——
次回へ続く




