28 松永の学生時代
9月に入ったが、まだ夏の空気が残っている
蝉の鳴き声が途切れず鳴り響く
厨房では掃除を終え、いつもより少し早くアイスコーヒーを飲んでいた
マナはふと
前から聞きたかった事を聞いた
「松永さんってどこで修業してきたんですか?」
「俺?フランスと名古屋の個人店」
マナはコーヒーを飲みかけ、グラスを下に戻した
「松永さんフランスで修業したんですか?凄いですね」
「凄いのか?ワーキングホリデーで1年だけだぞ」
「本場フランスで修業、凄いですよー」
「そうか?技術そんなに日本と変わらんぞ」
「フランスの修業の話、詳しく聞きたいです」
「話すと長いぞ…」
そう言いながら、新しくコーヒーを注ぐ
そして、静かに話し始めた
―――――
松永が大阪の専門学校に通っていた、19才の秋
落ち葉が歩道を埋め尽くし、風が吹くたびにイチョウの黄色い葉が舞い上がる。
足元に積もる葉を踏みしめながら、松永はゆっくりと歩いていた。
先ほど、担任との進路相談を終えたばかりだった。
大手企業のパティスリーか、個人店——
将来の選択肢を考えながら、ふと足を止める。
いや……俺は、一度フランスで修業したい。
一度社会人になるとなかなか行けない、
家庭を持ったら尚更……。
(どうすれば、フランスで働けるか……)
調べるうちに、ワーキングホリデービザの存在を知る。
大阪で説明会が開かれると知り、迷わず参加した。
「今フランスは失業率が政治問題になっていて労働ビザが取れにくいので、大使館に提出する作文はフランス文化が好きで旅をしたいとかの方が良いです……。
要するにフランスでお金は落とすけど、あまり働かず日本にすぐ帰るみたいな方が、現在審査が通りやすいです」
(働くためのビザなのに働く意欲を書くと落とされる?複雑だな…)
ワーキングホリデービザに関する書類を集め、
専門学校を卒業後、すぐに行けるよう、書類を準備した
そして、東京のフランス大使館でワーキングホリデービザの申請を行う——
―――
授業は淡々とこなしながらも、心の中では焦りがあった。
同じ班の桂は、とにかく器用だった。何を作らせても、クラスで一番綺麗に仕上げる。それでいて傲らず、探究心が強い。
隣で不器用な自分が、妙に情けなく感じた。
授業が終われば、寮の近くのケーキ屋で寮の門限ギリギリまでバイトする 1年かけて資金を貯めてきた。
「大樹、今年の4月から正社員なってよ」
オーナーパティシエの田中に言われた
「もし……ビザが落ちたらお願いします」
「そっかぁ…もうすぐ結果が来るのか…どちらでも応援するよ」
「ありがとうございます」
数日後、大使館から分厚い封筒が届く
「……まさか……」
期待と不安の入り混じる中、封を開ける 。
——ワーキングホリデービザ、取得決定!
松永は胸の奥で静かにガッツポーズをした。
だが、すぐに現実的な問題が浮かぶ
「そういえば……どこで修行したら良いんだ…パリかな…」
田中に相談すると
「俺の知り合いにフランス人の旦那と結婚してパリで住んでるやつがいるから、仕事ないか聞いてやろうか?」
「ありがとうございます」
数日後
「大樹、パティスリーの仕事が2つあったんだが……」
しかし、田中の表情は微妙だった。
「1つ目は現場経験なくても大丈夫、給料も良い、家賃も交通費も出る…」
「すごいですね」
「しかし、日本人オーナーで、日本人のスタッフしかいない、しかもどちらかというと、日本の洋菓子が主体で現地にいる日本人向けのケーキ屋だ」
「あっ……」
「もうひとつだが……」
田中は少し困ったように言った
「フランスの伝統菓子を多く扱う店で創業100年以上で、フランス人スタッフしかいない…シェフは昔ながらの職人で頑固で厳しく、出来れば現場経験がある方が良いらしいが、本人のやる気があれば専門学校卒業生でも良いらしい……」
「おぉ」
「…………しかし……
給料が………500ユーロだ、月フルで働いて…」
「500ユーロ?」
田中は頭をかきながら、電卓で
「今のユーロが130円くらいか……」
気まずそうに電卓を見せる
「えっ…6万5千ですか…月で」
田中は気まずそうだった
「ひどいよな……低賃金でもパティシエの技術学びに来ると思ってやがる……やっぱり断る…」
「俺、やります」
「えっ…月6万5千だぞ、パリの家賃だけでなくなるぞ」
「フランスで学べるもの学びたいです」
「大樹…」
「きっと金銭面では苦労するでしょう。でも将来なんとか稼ぎます…」
田中は深くため息をついて
「………わかった紹介してもらえるよう手続きする……後、明日からお前の時給あげてやる。
残り2ヶ月しかないが、頑張って資金貯めてからフランス行きなさい」
「ありがとうございます」
───
専門学校卒業の日
「まっちゃん、フランス行くのか!」
桂が連絡先を交換しながら笑う
「フランス遊びに行くわ!まっちゃんまたね」
クラスの皆は地元に帰っていった
大阪最後の日、学生寮を退去した
田中にお礼を言いにお店に顔を出す
「田中さんお世話になりました」
「1年間バイトお疲れ様、これやるよ」
最新の電子辞書を渡された
「これならポケット入れてフランス語分からなかったらすぐ聞けば良い。大樹頑張れよ。
後、もっと大人を頼れよ。もし帰国後、就職先無かったらここにおいで」
「ありがとうございます」
松永は深々と頭を下げた
――――――
松永は名古屋の実家に帰った
「ただいま」
もちろん、誰もいない…
(……静かだな)
部屋の換気をする
自分の部屋に入りベットに横になる
大きくため息をついた
――――
フランス出発の朝
仏壇に手を合わせる
優しい顔で笑っている母と父の写真をみる
「母さん、父さん……俺…行ってくるわ」
スーツケースを持ち、玄関を開く
強い風が舞い、桜の花びらがふわりと舞う——
(――いってらっしゃい)
(――気をつけてな)
「えっ……」
後ろを振り向く
誰もいない……
懐かしい2人の声が
聞こえた……気がした……
松永は一度目を閉じ、
ゆっくり目を開けて微笑んだ
「ありがとう……母さん、父さん…送り出してくれて」
ふいに涙がこぼれた
あたたかいものが頬を伝って流れていく
自分でも驚くほど止まらなかった
しばらく動けず立ち尽くしたあと
深く息を吸い、目元をぬぐう
扉を閉め鍵をかけた
もう一度だけ空を仰いだ
「行ってきます」
すこし笑い、ゆっくりと歩き出した
そしてフランスに旅立った
次回へ続く




