22 マナのうつ状態
松永は、マナと出会った時の会話を思い出す。
「……1ヶ月近く、家で休んで家の手伝いをしてたとか、そんな感じでしたね」
「そっかぁ……」
勝はふと空を見上げ、ゆっくりと語り始めた。
「マナが雅ホテルを辞めて帰ってきた時は……もう痩せて、顔は疲れ果てていてな。目の下にはクマができて、腕はやけどだらけ、指は傷だらけだった。何も言わず、無表情のまま……」
勝の声は低く、静かだった。
しかし、その言葉の端々に込み上げる怒りが滲んでいる。
「帰ってきてから一週間は、ろくに寝れなかったみたいで、朝方まで起きてた。ちょっとしたことですぐ泣いてな」
ため息をつく。
「学費出してくれたのにごめん。パティシエ辞めてごめん。大学行かなくてごめん。」
「毎日毎日……俺と里美に謝ろうとするんだよ。 こっちはそんなこと、一言も言ってないのにな」
勝は、電子タバコをゆっくり吸い、静かに煙を吐く。
「今思えば、あれは……うつ状態だったと思う。東京の有名ホテルだか、三ツ星だか、なんだか知らねぇが、大切な娘をあんな状態にしやがって…… ホテルに殴り込みに行こうかと思ったよ」
松永は、その言葉に一瞬息を詰まらせた。
そして、あの日のことを思い出す。
マナと初めて出会った日のことを──
───
仕込みの最中、粉を量っていた松永の耳に、
カラカラと店のベルが鳴る音が届いた。
計量を止めて店に出ると、
ショーケースの前に立っていたのは、見慣れない若い女性だった。
20代前半、小柄で肌は白く、長い黒髪。
ぱっちりとした目が、じっとケーキを見つめている。
(新しいお客さんだな……)
「いらっしゃいませ」
いつも通り、静かに声をかける。
彼女は、ショーケースの中に残った最後のショートケーキを、
何かを確かめるように、じっと見つめていた。
笑ってはいるけれど、口元の笑みには、ほんの少し影があるように見えた。
そう見えただけかもしれない。
でもなぜか、気になった。
初めて会った人なのに、どこか放っておけないような。
特別な理由があるわけじゃない。
ただ、視線が自然とその女性に向いてしまっていた。
自分でも、どうしてなのかはわからなかった。
いつも通りコーヒーとイートイン用にケーキを用意する
女性からの視線を感じる
(厨房の設備見てる……同じパティシエか……その割には……元気ないな)
「ごゆっくりお過ごし下さい」
(元気なって欲しいな)
(さてと……計量の続きするか)
卵を割り終わり、ふと女性の方を見ると
ケーキを食べながらボロボロと涙をこぼしていた。
(……泣いている?)
(いや……そっとしておくか)
一度レシピ本に視線を戻すが、心が落ち着かない。
(……なんか、あったんだな……)
「どうした?君、大丈夫か?」
気づけば、自分の口が動いていた
────
マナがケーキを食べながら、ボロボロと泣き出していた姿。
その涙の意味を、ようやく理解した気がした。
「マナは、2週間休んだら今度は異常にテンションが高くなってな。家の手伝いを無理やりやるようになった」
勝は腕を組み、続ける。
「やらなくていい、休んでいいんだ、って言っても『大丈夫、大丈夫、大丈夫!』って、聞かねぇ」
その言葉に松永はわずかに眉を寄せた。
「このままじゃ、またボロボロになるって思ったよ。無理やりでも精神科に連れて行こうと覚悟した時にな……」
勝は、少し間を置く
「里美がな、ふと思い出したらしくて……『マナ、去年の桃が、おばあちゃんの冷凍庫に保管してるんだけど、何か作ってくれない?』って話したんだ」
松永は黙って聞いていた
「そしたら、ジャムとかパイを作るって言い出してな。それから、マナは少しずつ落ち着いて……昔買ったケーキのレシピ本を出して、考え込んでた。その様子が、すごく楽しそうでな。その頃からようやくまともに寝れるようになったらしい」
勝の声は、少しだけ柔らかくなる。
「里美のやつ、嬉しかったんだろうな。マナの作った桃のパイやらジャムを、近所の農家さんたちにたくさん配ってたよ」
「思ったよ……この子は、あんなにボロボロになっても、ケーキ作りが本当に好きなんだなって」
松永は、小さく息を整えた。
マナのひたむきな姿が、勝の言葉から滲み出てくる
───
「そしたら今度は、急にまたケーキ屋で働くって言い出してな。心配したよ」
勝はそう言いながら、ふっと息を吐く。
「けど、あなたのところで働き始めたら、活き活きしだしてな……毎日、とても楽しそうに見えたよ。ありがとな……松永さん」
初めて、勝が微笑んだ
「いえ……自分は何も……」
「親として、見守ることしかできねぇからな」
勝は腕を伸ばして、大きく伸びをする
「さてと……松永さん、この桃、全部持って帰ってくれ」
コンテナには、白鳳の桃が20個ほど入っていた。
「えっ……こんなにたくさん……ありがとうございます」
「これからも、マナのことを頼むよ」
勝は笑う
───
「お父さーん、まだ終わらないの?こっちの梱包全部終わったよー!」
遠くからマナの声がする。
「あれ?二人とも、なんか笑ってない?」
「……あぁ、ちょっとな」
松永は視線を外し、軽く笑った。
軽トラに桃を積み込みながら、マナに向かって小さく手を振る。
「またお店で」
マナは笑顔で頷く。
松永が車を走らせると、後ろで里美が言った
「本当に、いい人で良かったね……」
マナは頷く。
その様子を、勝は静かに見守っていた
腕を組んだまま——しかし、確かに、微笑んでいた。
次回へ続く




