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71.突き進んできた見習い騎士の場合(乙女ゲーム版マルクス/後)

 まだ、たいした距離は走っていないはずだ。

 しかし道なき道を馬で駆けていれば、目印が無く視界の悪い山の中では、距離も標高も感覚が狂ってしまう。

 今走っているのがどの辺りなのかすら、すでに自信が持てなくなっていた。


 付かず離れずの距離に、山中で迷わせるのが目的ではないのかと思い始めた頃、そうして馬を走らせていた賊の男がとある開けた場所に出た途端、呆気なく馬を止めたのが見えた。

 それが逃走を諦めたからなのか、それとも、目的の場所に着いたからだったのか、オレ様に分かるはずもない。


 相手が止まってくれたことでやっと追いつけると安堵したオレ様は、こちらに馬ごと振り返った男と正面から目が合うと同時に、その目を見てしまったことを後悔した。

 背筋をゾッと、悪寒が駆け上がっていく。

 思わず強く手綱を引き、男がいる開けた空間より幾分か手前の、木々に覆われた場所で馬の足を止めてしまう。


 ただじっと、凪いだ湖面のような目が、フードの中からこちらを見ていた。

 本能的に走った怖気に、オレ様がすぐには動けないでいる中、そんなオレ様を不気味なほどじっと見たままの男は軽い身のこなしで馬から降りる。

 それから、まだ気を失ったままらしい馬上のペトルチアを片手で掴むと、まるで荷物にする様に彼女を地面へと引き落とした。


 ドサッと。

 そんな鈍い音に、現実感が沸かない。

 男の関心が攫ったはずのペトルチアに無いのはその様子から明らかで、彼女を扱うぞんざいな動作は、まるで今ここに介在する全ての感情を消して行われているかのように淡々としていた。

 止まらぬ寒気に、オレ様は指一本動かせない。


 男のことも、その仲間だろう連中も、男の目的も、その何もかもが分からない。

 けれど、それより何よりも、目が合った視線から、男の視線そのものに、オレ様の本能はけたたましい警笛を鳴らしていた。


 目の前の、普通であれば大した脅威にはならないはずの瘦せぎすの男が、いかに危険な存在であるかを本能と直感が強烈に訴えかけてくる。

 目の前の静かな男は、ただ無理やり抑え込まれているだけの破裂寸前の何かであるのだと、そう知らせてくる。


 マグマが、その灼熱で一面を焼き尽くす寸前まで、泥濘のふりをして緩やかに地を這い流れているように。沸騰し、弾け飛ぶ寸前の、ほんのひと時静かに振る舞っているだけの、底知れない何か。


 怖ろしいと、思った。

 男から向けられる視線に込められた、得体の知れない悪意が、指一本動かせないほどに、オレ様を圧倒していた。


 ただこちらを見、じっと待っていた男が口を開く。

 静かに抑えた声で。


「何故かと、そう聞いたか」

 

 開かれた場所から投げ込まれる声が、木々で遮られた空間にやたらと響く。

 あと一歩、馬を進めれば男と同じ開けた場所へ行けるというのに、その一歩がひどく遠く、踏み出し難い。


「何故かと、お前がそれを問うのか。マルクス・ミラー」


 名を呼ばれ、ギクリ、と、思わず肩が上下した。

 先ほどまで聞こえていた葉擦れの音も耳に入らないほど、今は静かなはずの男の声だけが注ぎ込まれるように直接オレ様に届く。


 名指しされただけで、喉元に刃先を突き付けられたように背筋が凍る。

 なぜオレ様の名を、などと、狙って襲われたのは分かっていたというのに、今さらな言葉が実感を伴って頭の中を回った。


 次々と流れ出る汗が風に当たり冷えていき、頭の回転だけはやたらと鈍くて要領を得ない。

 ドクドクと耳元で流れる血流の音がどんどん大きくなるのを聞きながら、頭が膨張する様に膨らむ感覚に気が遠くなり始めた。


 やがて明滅し始めた視界に平衡感覚も怪しくなってきて、なんとか馬から降りはしたものの、地面に着いた足は情けなく震えてしまっていた。

 それが、生きてきて十六年間、騎士の訓練でも、あの保険医と()り合った時ですらも感じたことのないほどの、ただひたすらに強烈に向けられた殺気のせいだったのだと、気が付いたのはずっと後になってからのことだ。


「俺を、俺たちを知らずにいるのか。マルクス・ミラー」

 

 視界に入っている男の立つ場所は、山の中にしては不自然に広く開かれた場所だった。

 平らに(なら)された地面には砂利が敷き詰められており、明らかに人の手で整備されていることが分かる。


 オレ様が冷静であったなら、そこが山の中腹にある古い関所跡だと分かったはずだ。

 しかし、それだけの思考がまとまるより先に、吹き抜けた一陣の風が、オレ様を置いてこの場の状況を進めてしまう。


 風に煽られた男のフードは激しくはためき、外れ、男の顔が(あらわ)になった。

 現れたのはやはり、見慣れぬ褐色の肌。


 男はこの国の民らしくない、異国風の彫り深い顔立ちをしている。

 元は整っていたのだろうと分かるその顔は、今は左半分が溶けたように醜く焼け爛れ原型を留めていなかった。

 

 顔にも、その傷にも、覚えはない。

 知らない男のはずだ。


「この顔を、知らずにいるのか。マルクス・ミラー!」

「っ!」


 突如、男が上げたひどく荒げた声に、反射的に身を縮めた。

 クソッ、情けない、ペトルチアを助けなければ、そう思うのに、今まで生きてきて一度も向けられたことのない明確で強い殺意の刃に、体と心が怯み、付いてこない。


「お前ら騎士が……ッ! お前ら騎士のせいで……ッ! 俺たちが……ッ!!」


 強く激しい慟哭が、溜め込まれ抑えつけられていた感情の奔流が、オレ様だけを目掛けて放たれる。


()()()()()()()()()の、孫であるお前が! 知らずに済むはずがない……ッッ!!」

「っ!?」


 知っているはずの言語が、すぐには理解できない。

 意味が分かるはずの言葉の羅列が、全く意味の分からないものとしてオレ様へ届く。


 孫? 殺した? 誰を? 男の、妹を? 誰が? 俺が孫の、騎士? 騎士が殺した? いつ? 誰? 一体何を? 殺した? 殺した? 誰が?


 巡りの悪い頭を、ひたすら疑問符が追い回る。

 理解できてしまいそうな言葉の意味を、理解、したくない。


「テメエが殺した赤ん坊を! 知らないはずがねえ!! テメエら騎士どもが焼き払った、この土地を知らないはずがねえ!! テメエが付けたこの傷を! テメエが! 俺から奪った全てを! 知らないはずがねえ!! そうだろうが!? 違うか、グレン!!!」

「!!」


 声を荒げ激しく責め立てる男の、殺意の矛先が、突如その切っ先を変える。

 向いた先は、オレ様の後方。


 今来たその道を、オレ様たちを追っていたのは。


「────忘れるはずがないさ。アーマッド」

「婆、さん……」


 馬を歩かせ姿を現したのは、慣れない運動のせいか、その言葉の重みによるものか、普段よりさらに小さく見える、婆さん。

 婆さんはゆっくりと馬を降りると、手綱を離し、捕まる場所のないままヨボヨボと、頼りない足取りでオレ様の横を通り、追い越していく。

 婆さんはそのまま、ゆっくりと、しかし足取りを止めることなく一歩、また一歩と、そのまま木々に守られたこちら側から、アーマッドという男のいる開けたあちら側へその足を───。


「っ待て! 婆さん! 何考えてる!?」

「………」


 思わず、婆さんの腕を掴んでいた。

 力無く垂れていた婆さんの腕は掴んだ一瞬空を切ったかと思うほどに細く弱々しくて、その感触だけでオレ様の心臓はドクンと一層嫌な音を立てる。


 続いて速くなっていく鼓動が頭に血が巡らせるのを感じて、逃げたくなった。

 一瞬で、この場の状況を理解しそうになる。ハアハアと、今さら荒くなる自身の呼気を耳元に聞きながら、これ以上考えたくない、気付きたくない、理解したくない。


 拒絶するオレ様の気持ちなど関係なく、情報が流れ込むように思考を辿り、点と点を繋ぎ、昔から無駄に鋭い直感力が、強制的にオレ様を理解させ(わからせ)る。


 婆さんと、婆さんがアーマッドと呼んだ男に何があったのか。

 かつて騎士団長の任にすら就いていた婆さんが、今どうしてここまで己を追い込み、弱くしてしまったのか。


 きっとその理由の一端が()()にあるだろうことにも思い当たってしまい、オレ様は、縋るような目を婆さんに向けた。

 今婆さんが何をしようとしているのか、それも理解した(わかった)から。


「やめろ、婆さん……!」

「いつか……、いつかこんな日が来るだろうと、思っていたさ……。ずっと、目を逸らしてきた……。胸を張って生きる事なんて、マルクス、あんたの手本のようになんて、決して振舞えるわけがなかった……」

「何が……何で……」

「償わなきゃならない罪だったんだ」


 オレ様の手を振り払おうとする婆さんの弱々しい腕を、反対の手でも掴んで、必死で引き止める。

 オレ様は、いつの間にか嫌々と駄々をこねる子どものように頭を振って婆さんを見ていた。


 婆さんは、久しぶりに見るような強い光を放つ目でオレ様を見返して、「いけないよ」と、ただ一言そう言った。

 あの男のところへ行かせちゃいけない、それだけは分かるのに、線を引かれたように、木々に守られた空間から、男のいる開けた場所(あちら)へ、体がそれ以上進もうとしなかった。


 オレ様は、本物の殺意を前に、怖気づいてしまっていたんだ。

 どんどんと呼吸が浅く、速くなっていき、意識はだんだんと白んで希薄になっていく。


 気を失ってしまえば楽になると誰かが囁く声がした気がして、それでいいはずがないと、消えそうな意識を必死に引き戻した。

 現実味のない視界の中でオレ様と婆さん二人。

 けれど、そんなオレ様たちすら置き去りに再び状況は動き出す。


 それまでずっとこちらを見ていたアーマッドが、動く。


「グレン、思い違いをしてねえか」


 ゆっくりとした動作だ。

 まるで、何気なく落としたものを拾うような、そんな動作。


「テメエが差し出すのは、お前自身の命じゃねえ」

「………!」


 ハッと、婆さんが息を飲んだのが分かった。

 見開かれたその目の視線の先を追えば、そこにはアーマッドと、アーマッドによって抱え上げられ、その首にナイフを突き付けられるペトルチアの姿があった。


「『あの男』から聞いたんだ、全部な。あの時あいつらを、貴族連中と天秤にかけて、見捨てやがったんだってことも……」

「そ、んな、ことは……」


 掴んだままの婆さんの細い腕から温度が無くなり、ガクガクと震え始める。

 壊れたようにギシギシと体を軋ませ、力を失っていく婆さんに、アーマッドは言葉を止めなかった。


「違わねえはずだ。なあ、選べよグレン。元は騎士団長だったっつう、大層なテメエの正義でよう」


 アーマッドの持つ、不気味な静けさと、苛烈な激情が、目の前で融合していく。

 塗りつぶしたように影の落ちた顔はここからでは表情が読み取れず、アーマッドが今笑っているのか、哀しんでいるのかも分からない。

 

「この平民の女を見殺しにするか、孫の命を差し出すか。テメエが選ぶんだ、グレン。俺の妹や、仲間たちを殺した、あの時のように。俺は忘れねえぞ、この傷の痛みも、テメエの振りかざした、クソみてぇな騎士の正義ってやつも! なあグレン! 今ここで! 孫と、平民の女の命を! 選別してみせろやッ!!」


 膝から崩れ落ちた婆さんを見て、オレ様の意識はそこで一度途切れた。


 オレ様の信じ積み上げてきた正義(それ)が、壊され、砕け散る音がした。



乙女ゲームでは、アーマッドはマルクス攻略時の敵キャラで、『騎士』に強い敵意を持って現れます。

それは、過去の妹の死に関係していて────




次話からは、現在のマルクス(8)視点で、前章からの裏話を色々とお送りする予定!

またハッピーな現世にもどります!( ;∀;)

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