70.突き進んできた見習い騎士の場合(乙女ゲーム版マルクス/前)
正義とは何か。
正義とは、強さだ。
そう信じて、十六年間生きてきた。
騎士団長である父の背を追って、生きてきた。
国の誰より強い騎士である父に憧れ、父のような騎士になるために走り続けてきた人生だ。
強さを追い求めるオレ様に付いて来れなかった周囲はだんだんとオレ様から離れていき、いつしか独りになっていた。
それでもいい。
ずっとそう思っていた。
────アイツに会うまで。
『ありがとうございましたっ、マルクス・ミラー先輩』
助けたのは気まぐれだ。
一つ下、入学してきたばかりの第一学年の女で、庶民で目立つピンク髪をしている他にも、入学してきてすぐアレコレと事故を起こしては悪目立ちし、貴族連中から目をつけられていた。
騎士になるためには学園の卒業が必須で、かといって授業は礼儀だ数字だとつまらないものばかり。
いつものように鍛錬でもするかと思い向かった屋上で、そんな庶民の女、ミシェル・ペトルチアがいじめを受けている場面に遭遇した。
低位貴族の子女の何人かが一人を囲む光景。
戦力差は明らかで、囲まれているペトルチアも戦えるようには見えない。
目障りだ。
ただ単純にそう思って、手っ取り早く終わらせるため、手を上げようとしていた男の一人をオレ様はぶん殴った。
後にそいつらが背びれ尾ひれを付けて話を広めたせいで、オレ様が一方的に悪かったような噂が立ったし、教師からも説教を食らった。
だからってそんなことは関係ない。
そんなのはもういつものことで、今更訂正する必要性も感じず、訓練に割く時間が減って勿体ないと思いながら聞き流していただけだった。
問題は、そのあとだ。
いじめを受けていたペトルチア本人が、小さい体をさらに小さく畳みながら、わざわざ一学年上のオレ様の教室までやって来た。
『ありがとうございましたっ、マルクス・ミラー先輩』
礼なんていらないと、そう突っぱねようとした。
だが、ペトルチアが続けて言った意外な言葉に、面食らってオレ様も止まる。
『でも、暴力はいけません。あなたは、関係がなかったではありませんか。それなのに突然殴りかかるなんて』
ハァ?
納得いかねえ。
なんで助けてやったのに、文句を言われなきゃならないんだ。
驚きのあとに苛立ちが来て、オレ様は馬鹿馬鹿しいと、すぐその場を離れようと決め────。
『聞いてますかセンパイ?』
……───聞いているのマルクス?
ふと、ペトルチアの言葉が、いつかどこかで聞いた誰かのそれとダブって聞こえた。
オレ様の様子に気づかないペトルチアは、なおも言い募る。
『事情も確かめずに一方的に暴力を振るったら、センパイがワルモノになっちゃうんですよ?』
……───訓練だって言ったって、一方的にばかりしているとお友達に嫌われちゃうわよ?
いつか聞いた、誰かのそれと、同じ言葉。
『センパイが心配なんです』
……───マルクスを心配して言っているのよ。
心配そうに下がった眉に、じっと視線をそらさず切実そうに訴えてくる姿。
それらに、懐かしい面影を見た。
ずっと昔に失った、“母ちゃん”の面影を。
オレ様がまだ十歳にもならない頃、父と喧嘩したきり家を出て行ってしまった、母ちゃん。
オレ様がずっと小さい頃は、誰よりも父やオレ様のことを愛してくれていた人。
母ちゃんが出て行ったのは、オレ様が父のような騎士を目指して鍛錬漬けの毎日を過ごし始めた頃だったと思う。
その頃は父も騎士団長になってからそう月日が経っておらず、忙しくなっていく仕事に家族の時間は減っていき、それまで仲の良かった家族がどんどんとバラバラになっていった。
オレ様はまだ六歳か七歳かという頃で、そんなオレ様はそんな状況も母ちゃんからの説教が多いなとか、そんな風にしか思っていなかった。
正直、詳しい内容も覚えていない。
今思えば、母ちゃんは心配して言ってたんだろって分かるが、鍛錬に目覚めたばかりだったオレ様にはそれが煩わしくて、母ちゃんの言葉を突っぱねる気持ちばかりが強かった。
『騎士様になるんですよね?』
……───騎士になるのでしょう?
語尾の上がる話し方。母ちゃんに似た心配げな眼差し。
ペトルチアを見ていて、あの頃の母ちゃんの話し方はそうだったと思い出す。
彼女になら、母ちゃんの気持ちが分かるのだろうか。
出ていく前、母ちゃんは家でほとんど話をしなくなってた。
言葉数が少ないなって違和感はあったのに、きっと今だけのことだろうって軽く考えていて、気が付いたら母ちゃんは出て行ったきり帰ってこなくて。
今でも父のことはずっと自慢で目標のままだけど、父は母ちゃんが出ていった頃から、半ば自棄のようになっているのか極端に仕事ばかりをするようになって、今も騎士団で寝泊まりすることのほうが多く、家族というには遠い存在だ。
ペトルチアには、分かるのだろうか。
元の家族が、あの頃の日常が、本当に戻ってくるのか。
オレ様がちゃんと“父ちゃん”のような騎士になれたなら、そのとき“母ちゃん”はちゃんと、戻ってきてくれるのか………。
じっと、オレ様が見ていたのをどう取ったのか、ペトルチアは胸元でぎゅっと拳を握ると、意を決したように訴えかけ始める。
『センパイには、憧れられる騎士様になってほしいんです! だから……』
『チッ、小煩え』
親身になろうとするその様子に、何だかこそばゆくなって、むずむずして、聞いていられなくなった。
癖になっている舌打ちを零せば、一瞬たじろいだペトルチアだったけれど、それでもまだ言葉を止めない。
『だ、だから! 力にものを言わせるのは最終手段なんですからね! まずは対話を試みてですね! 私だってあの時、本気を出せば戦えたんですからねっ!』
何だそれ。
口で『シュッシュッ』なんて言いながら両手で作った小さな握りこぶしを振るうペトルチアに、一瞬で気が抜ける。
それから遅れて、いつものそれとは違う馬鹿馬鹿しさに、胸につかえていた強張りの端っこが、ほんの少しだけ解れたのを感じる。
『………』
『なんですかその目は!? 私、結構な勇気を出して話をですね! 聞いてますか!?』
『……わあったよ』
わざとジトっとした目で見てやれば、強面のオレ様相手に毅然と立ち向かっていたはずのペトルチアは、ここでやっと狼狽えた顔をした。
ヘナチョコすぎるパンチも、強気な言葉とは裏腹に微かに震えた声も。
オレ様の周囲から無くなって久しい色々を持っている、ただの庶民の、一つ下の女。
ずっと誰かに問いかけたくて、問う相手もいなかった、問いに答えをもらえるのだろうか。
“本当にこれで合ってるの。”
小さかったあの頃零れ落ちて行った、たくさんの、身近だった言葉と温度が蘇る。
それを、大人になった今のオレ様は、もう蔑ろにできない。
───それからというもの、ペトルチアは何かと理由をつけては一つ上の学年の教室まで度々やってきた。
頻繁に訪ねてくるものだから、オレ様も授業をサボることが減って、その分教室にいる時間が増える。
『センパイ! また喧嘩したんですか!?』
『ケンカじゃねえ、鉄拳制裁だ』
『どう違うんですかそれ、っもう!』
ペトルチアの用件はほとんどが説教や小言混じりのものだったが、そんな時間も不思議と悪くはなかった。
それどころか、偶然見かけたペトルチアにオレ様からちょっかいをかけに行くことさえあるのだから、今までなら考えられないことだろう。
人と関わる必要なんてないと思っていた。
独りでいいと、騎士になれさえすれば正しいのだと、そう思っていた。
ペトルチアと接することが増えるほど、人の感情や情緒に鈍いオレ様でもそれに気付き、考えることが増えていく。
人を傷つけない事。
正しさとは。
それから、オレ様がペトルチアに対して抱いている、この感情の名前───。
+ + +
「そいつを離せ!! クソッ! 何者だ貴様ァッ!!」
馬上から必死に伸ばした手は、あと一歩が届かない。
風になびく長いピンクの髪は、辛うじて指先を掠めただけで、急速にその距離を離していった。
前方を走る馬には、全身をローブで包み目深にフードを被った賊が一人。
馬に乗り慣れているのか、人一人を抱えているというのに、馬を駆けさせるその速度は速い。
(クソッ、慣れてやがる!)
無理に手を伸ばしたせいで崩れてしまった体勢を、握った手綱を力づくで引き寄せることで立て直した。
そこからやや荒い動きで馬の腹へ足で合図を送ると、馬は小さく不満の声を上げてから、さすがは元騎士だった婆さん家の馬というべきか、すぐに前の馬に追いつかんと駆け始めてくれた。
開いてしまった距離はおよそ五十。
途中、賊が事前に仕掛けていたらしき罠に足を取られそうになるのを間一髪で避けながら、オレ様はなんとか食らいついていった。
いくらか走ったところで一緒だった婆さんはどうしているかと思い後方を確認すると、婆さんはもうずっと後ろにいて、なんとかオレ様たちを見失わないよう馬を走らせ追いかけてくるのがやっとのようだった。
仕方のないことだろう。
オレ様の婆さんは昔は騎士団長をしていたくらい覇気のある人だったはずだが、数年ぶりに会った婆さんはずっと前からもう無気力状態で別荘に引きこもっているらしく、鍛錬どころかろくな運動もしている様子がなかった。
母ちゃんがいた頃には決まって毎年暑い季節に家族三人で訪れて、溌溂とした性格だった婆さんのことも『ばっちゃん』なんて呼んで慕っていたのが今では嘘みたいだ。
俺は首を振って古い記憶を振り払うと、再び前を向き、賊へと追いすがらんと必死で馬を急かす。
今やっと手に入れかけた幸せを、大切な相手を、こんなところで奪われることだけは許せなかった。
「チッ、木が邪魔だ……!」
「ブルルッ」
馬に差はないはずなのに、前を行く賊が操る馬は障害物など無いように軽快に山道を走っていく。
ペトルチアを連れて訪れた久しぶりの別荘地で、人が変わったように老け込んでいた婆さんを見てショックを受けたオレ様に、婆さんを連れて外へ出かけようと提案したのはペトルチアだ。
その提案を受けて、幼い頃に遊んだ山へ遠乗りに出掛けるのを決めたまではよかったのだが、道中で山賊騒ぎに気を取られた隙に、賊のリーダー格らしき男に馬に乗っていたペトルチアを馬ごと攫われた。
避暑地としてこの季節には人の多いこの町も、郊外に出てしまえば人もまばらだ。
ペトルチアや婆さんの気分転換になるかと選んだ、町から離れた山地が裏目に出た。
周囲に人影などあるはずもなく、おそらくやつらの陽動だったのだろう山賊騒ぎで、護衛を撒かれた挙げ句ペトルチアを攫われてしまった。
オレ様の前を、山の木々の合間を縦横無尽に馬で駆ける賊はこの土地に相当詳しいらしく、普段王都で暮らすオレ様よりも圧倒的に地の利がある。
攫われる際に気を失ったペトルチアは、賊のリーダー格らしき男に荷物のように抱えられたまま、やつの馬の上だ。
相手はペトルチアを抱えて二人乗り、追いつけない相手ではない、はずなのだ。
しかし、オレ様は馬に乗る訓練をあまりしてきておらず、正直に言えば乗馬が苦手で、騎士になるために必要と分かってはいても乗馬関連の授業にこれまで参加せずにいた。
オレ様の操る馬の進みは焦れったいほどに鈍く、もう少し乗馬の技術を磨いていればと思うが、今さらどうこう言っても遅い。
「クッソ! 何故だ! 何故オレ様たちを狙う!」
「…………何故、だと?」
オレ様が苛立ち紛れに上げた叫びに、前を行く賊は声だけでひどく静かに応えた。
静かで、それでいてこちらを明確に非難する声には、はっきりとした敵意と憎悪が滲んでいる。
用意されていた罠からも、騒ぎを起こした連中がいたことからも、この襲撃と拉致が計画的で組織的な犯行で、故意にオレ様たちを狙って起こされたものだというのははっきりしていた。
しかし、オレ様には、この男からそれだけ敵視されるだけの心当たりがないのだ。
ペトルチアを攫ったリーダー格らしき男は、体を覆うローブと目深に被ったフードのせいで顔も見えず、声の様子と体格から恐らく二十代前半の男だろうとしか読み取れなかった。
もしやこれまで起こしてきた喧嘩や諍いの相手の恨みによるものかかとも思ったが、しかし、そうではないことはやがて分かった。
馬を駆けるうち、風に煽られた男のローブから覗いたのは、この国では見慣れぬ褐色肌。
少なくとも相手が、オレ様が見知った誰かではないと分かり、ペトルチア拉致の直接的な原因がオレ様でなかったことに安堵してしまった自分が、一番情けなかった。
“母ちゃん”だけはずっと“母ちゃん”呼びのまま……
そして、邂逅する
もう一話だけ、乙女ゲーム世界線のマルクス視点が続きます。





