61.大天使ステラちゃん、そして牢屋にて
「牢屋だねえ」
「牢屋だな」
私とアーマッドは今、牢屋にいる。
私たちが山の中に入り直した頃、空はすっかり暗くなっちゃうような時間だった。
それからさらに時間が経っているから、今はお外は真っ暗で、暑い季節とはいえ空気がひんやりしてる。
私は、私とアーマッドが牢屋に入ることになった時のことを思い出した。
マルクスの別荘をこっそり抜け出した私とアーマッドは、その足でアーマッドのいた山へと戻って来た。
それから、アーマッドが案内してくれるのについて昼間とは違う道をえっちらおっちら登っていき、山を半分は登ったあたりでやっと、焚火の明かりがちらほらと見える、サーカスの一団が仮の拠点にしている場所にたどり着いたんだ。
その場所は木が切り開かれて、地面が平に均されていた。
日が落ちた山は暗くて、だけど点々と焚かれた火の明かりのおかげでなんとなく周囲を伺うことが出来た。
人もいるみたいで、気配みたいなものを感じる。
大きな家が何軒も入ってしまうだろうほどに広い開けたそこは細かい砂利が敷き詰められていて、アーマッドが古い関所の跡なんだって教えてくれた。
そうしてゆっくりその場所へ足を踏み入れた私たちは、すぐ、松明の明かりを持って夜の見回りに出てきたサーカスの一団の若い男の人と鉢合わせたの。
アーマッドとも顔見知りだったらしいその人は私たちに気付くと、「よう、アーマッド! こっちだこっち!」って、まるで親しい相手をお家にお招きするみたいに手を振って、自然な流れで今いる牢屋の中に案内してくれた。
そう、牢屋。
頑丈そうな木の棒が縦のしましまにあっちとこっちを区切ってるここは悪い人なんかを捕まえちゃう檻で、風化した関所の地下に残っていた古い牢屋だ。
男の人が去っていった先を見ながら、私は隣に立つアーマッドに聞いてみた。
「さっきの人、アーマッドのお知り合いだったみたい」
「あ? ……まあ、ここへはしょっちゅう出入りしてたんでな」
「どんな人?」
「………さっきのやつはナイフ投げが得意だ。それから、聞き役に徹するのにやたらと慣れてやがるから、気がつきゃ俺ばっかが喋ってるなんてことも多かった。それと一団の中に姉がいたはずだ」
「そうなんだ」
私は複雑そうな表情で話すアーマッドのお顔を見ながら、アーマッドはきっとさっきの男の人とも仲が良かったのねって想像する。
アーマッドはマルクスの別荘でのお話し合いのとき、サーカスの人たちが豹変したって言ってた。
そんな人たちじゃないと思ってたって。
別荘でアーマッドがお話してくれていた内容は難しい内容もあって、私には全部は分からなかった。
けれど、サーカスの人たちが変わっちゃったって言ってたアーマッドはすごくそのことがショックだったように見えたから、私はきっとそれまでの彼らはアーマッドにとって仲良しのお友達だったんじゃないかなって思ったんだ。
「…………さっきの広場あんだろ。あの開けたとこだ。あそこにでかいテントを張るっつってたんだよ。中にでかい骨組みを組んで、足場作ってやって、そこでショーをするんだって、言ってた。散々俺に手伝わせて準備してやがったんだ」
「そうなんだねえ」
「機材も、衣装も、見せかけなんかじゃねえ、間違いなく本物だった。あれが全部盗みのための偽物だなんざ、今でも信じらんねえ」
さっきの人をきっかけに何かを思い出している様子のアーマッドは、なんだか苦しそう。
だけど、ちゃんと私にサーカスの人たちのことを教えてくれた。
それから、アーマッドは何かを断ち切るようにその頭を一度強く振ると、強い意志を感じさせる顔つきになって言う。
「さっきのやつの姉か、他の何人か。条件さえ出しゃ話の通じそうなのがいたはずだ。そいつらが来たら俺がジュニアのことを交渉する。お前……チビは、黙って見てりゃいいが、捕まることを選んだ以上は誰かへの脅しの材料にされるかもしれねえってことは覚えとけ」
「うん」
私がコクンと頷くと、アーマッドは「ホントに分かってんのかよ………」と苦そうなお顔になった。
こんな時でもマルクスがお願いしてくれた通りに私のことを『お前』って言わないようにしてくれるアーマッドは優しい。
私はそんなアーマッドを助けるお手伝いがしたかった。
牢屋に入っちゃった私たちだけれど、まずはアーマッドの妹と合流したいっていうのは私もアーマッドも思っていることだ。
アーマッドの妹が無事だって早く確かめて、アーマッドを安心させてあげたかった。
疲れたみたいに深い呼吸で息を吐いたアーマッドは、牢屋の中を見回したあとに濡れていない地面を見付けてそこにどかりと座る。
それから、立っている私を見上げ、何か一瞬躊躇するみたいな、困るみたいな表情になってから、私に土の地面だけど座れるかって聞いてくれた。
私は嬉しくなってウンって頷いてから、アーマッドの隣に真似をしてどかりと座ってみる。
「あ! お尻がひんやりだねえ!」
「お前、ンな能天気な………」
お尻がひんやりするねって言ってアーマッドを見たら、アーマッドはなんだか疲れたみたいにまたため息を吐いて、それから立てた膝と自分の腕を枕にしてお顔をうずめていっちゃった。
「ったく、本当に底無しの体力してやがるチビだな。馬車旅してきてすぐ山登りに来たっつってただろ。それから町行って、またこうやって山登って。チビのくせに、ンでそんなピンピンしてやがんだよ。………俺ぁもう、昨日の今日でクタクタだってのに」
アーマッドは話しかけてるみたいで独り言みたいな、文句と軽口の混ぜこぜになった言葉を並べていった。
その言葉尻はうずめた腕に吸い込まれてどんどん小さくなっていく。
きっとアーマッドは、昨日にここで妹さんと離れ離れになる出来事があってからずっと疲れていっちゃってたんだねって私は思った。
アーマッドはちょっとご休憩だ。
もう暗いし、おやすみしちゃうのかもしれない。
私はそんなアーマッドから視線を外して、改めて牢屋の中を見渡してみた。
冷たいお水に触れているようなひんやりした空気の中、格子の向こうの通路には、さっきの男の人が火を灯していってくれた明かりが一つある。
そのまま通路の天井を見上げてみた。
この場所はそんなに広くはないけれど、一つの明かりでは隅のほうまでは明かりが届かない場所もあるみたい。
天井の角っこのところが暗く黒くなって見えそうで見えないのが気になって、私はそこをじーっと見てみた。
明かりが届いているところと届いてないところ。
その境目をじっと見ているうちに、黒いモヤモヤが明かりの火に合わせるみたいにゆらゆら揺れてることに気が付いた。
モヤモヤ。
ゆらゆら。
モヤモヤ。
ゆらゆら。
私は、天井の角っこの、暗くて輪郭のはっきりしない部分が何か私の知らない黒い生き物みたいに思えてきた。
それが天井の四隅、明かりの火の揺らぎに合わせて蠢いているみたいに思えてくる。
私はなんだかわくわくだ。
その時、隣のアーマッドから小さな声がした。
「……………良かったのかよ」
私は視線を天井から外して声のしたアーマッドのほうを向いた。
けれど、アーマッドは相変わらず顔を伏せたままだ。
「うん、ひんやりだけどねえ、大丈夫だよう」
そういえば、さっき地面に座っちゃうことを心配してくれていたなあって思い出して、私は大丈夫だよって答えてみた。
アーマッドは顔を腕に伏せちゃって私はアーマッドは眠くなっちゃったんだろうなあって思っていたから、まだ私とお話してくれるみたいで嬉しい。
アーマッドのお顔のあたりをじっと見ていると、アーマッドの顔が腕から持ち上がった。
サラリと流れた白い髪越しにこちらを見ている目と目が合う。
目が合ったと思ってすぐ、アーマッドは私に顎をしゃくって見せて、『あっち向け』って言うみたいに動かした。
私は何かあるのかなって視線を部屋に戻す。
でも特に何もなかったので、また天井を見た。
やっぱりあの角っこの黒く蠢くモヤモヤに何かがあるのかもしれない。
「…………怒ってみたり、笑ってみたり。オジョーサマかと思えばやたらとたくましいわ、急に大人びたこと言ったかと思えば盛大に駄々こねてみたり。お前、本当に変なガキだよなぁ、チビ」
「変じゃないもん!」
急に悪口を言うアーマッドに言い返そうとしたら、すぐに「こっち見んな」って言われた。
アーマッドはこっちを見てくれないし、見るなって言うし、アーマッドが何を言いたいのかよく分かんない。
私の視線がまた天井に戻ったのを確認したアーマッドは、ここまでで一番に大きく息を吸って、それから大げさに息を吐いた。
「なんか力抜けた」
それから、緊張してんのが馬鹿みてぇだって、小さな小さな独り言が聞こえた。
一度天井を大げさに仰いだアーマッドはまた腕の中に顔をうずめ直す。
それからなんだか笑ったみたいだった。
アーマッドはその体勢のまま、「人が来たら起こしてくれ」って言う。
「私も寝ちゃいますけども」
「………そりゃそうだ」
私が真面目なお声で返したお返事に、すぐにアーマッドは顔を上げて姿勢を正してくれる。
それがなんだか面白くて、今度こそ二人で顔を見合わせて笑ったの。
それからは、私とアーマッドはしりとりをしたり、今回の馬車旅の道中でイソシギが教えてくれた、せーので上げた指の数を当て合う遊びなんかをしたりしながら、牢屋の中での時間を過ごした。





