60.打ち首獄門百叩きの上市中引き回しの刑(イソシギ視点)
子どもというのは皆、不思議な勘や何かを見つけ出す力を備えているものだ。
それは例えば、何気ない日常に潜むほんの微かな異質を見つけたり、何気ない一瞬を重大な転機にしてしまえたり。
子どもたちがもたらしたのは行商の一団による犯行予定の第一報。
大人はその情報にかき回され、すでに起こってしまった悲劇への対応と、起こり得る犯行への備えのために動き出す。
大人たちが対策のために話し合うなかずっと大人しくしていたはずの子どもたちは、大人が一息つこうと気を緩める、その一瞬を見逃さない。
話し合いが形になり、大人たちが張り詰めていた空気を解いた。
犯行予定は明後日。
話し合いを終えた大人たちはそれぞれ自身の行動へと移っていく。
家令に夕食の時間について指示を出す者、その支度を手伝いに行く者、先ほどまでの話し合いの場を片付け始める者、今ここには居ない協力者へ連絡するため席を外す者。
それまでじっとその場に固まっていた大人たちが散っていった後に残された空白。
大人の目がそれぞれに別の物へと向いた、隙間のような時間。
たった数分。
それを子どもたちは見逃さない。
ちょっと出かけて、こちらへ向かっている父たちと連絡を取り合って、戻ってきたら、お嬢様が消えていた。
絶望。
(─────なんてことにはならずにっ! 本当に、ほんっとうに良かったっ!!)
二十代半ばの男、イソシギは一人、己の鼓動がかつてないほどに激しくなるのを自覚していた。
喉から飛び出て来そうなほどに心臓が鳴り一気に背から汗が吹き出してくるというのに、指先は感覚を無くしそうなほどに急速に冷える。
(あ、あ、あ、あっぶねえ~~~~ッ!!)
本当に間一髪だった。
イソシギがたった数分席を外した間に、恐るべき脱走劇は始まろうとしていたのだから。
たった五歳の小さな少女が言う。
『私も行くの』
少女の視線の先で、すでに足を扉へ向けて脱走する気満々の十代前半の少年が言う。
『チビは来んな』
いやいや、誰も行くな。
イソシギは思った。
イソシギは大人である。
中肉中背の、どこにでも居そうな冴えない外見をしているが、中身は成人した立派な大人であるはずだ。
かつて短い期間ではあったものの里長などという大役に就いたこともあったし、今も日々与えられる厳しい業務をなんとか全うしようと努力する気概はある。
しかし、どこかこの男には今ひとつ覇気や意気地といったものが足りなかった。
『なんで』
『危ねえ』
『危なくないもん』
『……そう何度も、その変な顔にほだされてたまるか』
『!! 変な顔じゃないもん!』
少女と少年が交わし合う声を聞きながら、イソシギは思う。
咄嗟に柱の影に隠れてしまった己の性分が情けない。
己の意気地なしに自覚のあったイソシギは自責の念を覚えた。
しかし、だからといってその行動すべてが必ずしも彼の気質によるものでもないのだが。
もしこの場面の一部始終を見ていた第三者、例えば神の視点を持つような者がいたのなら、イソシギは今すぐ子どもたちの前に立ちはだかり、彼らへ勝手な行動を取らないようにと諫めるべきだと訴えたかもしれない。
しかし、そんな事は起こらない。
その者が神の視点を持つならば、その者はまた、知っているはずなのだから。
このイソシギという男が根っからの“監視者”なのだと。
イソシギは、監視者である彼は、ついその身に沁みついている慣習の通り誰にも見つかることなく柱の影へと身を潜めてしまっただけなのだ。
誰も彼を責められない。
物心ついてから今まで、やれ監視だやれ密偵だと、影に隠れて事の成り行きを見守るような任務ばかりを続けてきたのだ。
こういう場面でどう動けばいいか、それを考える前にとりあえず身を隠してしまう。
それはもはや、彼、イソシギという生き物の“習性”とも言えた。
(やばいっスよステラ様、敵のアジト行く気満々じゃないっスか……! それにこんな駄々こねモード、俺はいまだかつて見た事無かったんスけど!?)
大きな図体を隠すには心もとない柱の影で、イソシギは一人オロオロとうろたえる。
出ていって、子どもたちを叱り、止めなければいけない。
それは分かっていた。
しかし、ただそれだけのことをほんの一時、躊躇した。
躊躇、してしまった。
イソシギが動けないでいる中、彼の存在に気付かない少女と少年たちは声を潜めながらも投げ合う言葉のやり取りを激しくしていく。
『私も行くの』
『~~~だからって、ステラまで行くことないだろっ!』
『たくさんのほうが心強いからね、私も行くんだよぅ』
『危ないからダメに決まってるだろ』
『チャーリーが助けてくれますけども!』
『それはまあ、そうかもしれねえけど……、でも今はダメだろ、チャーリーもいねえし』
イソシギは少女と共に馬車移動をした数日間を思い出した。
その間彼は一度も少女の機嫌を取るのに成功しなかったのだ。
それこそ、話題に出ている『チャーリー』のようにはいかなかった。
むしろ少女がイソシギを気遣ってさえいた事実を思い出し、イソシギの胃は痛む。
そうしている間にも、今目の前の少女はかつてよりもなお意固地に不満を露わにしていた。
(俺が出て行って、それでステラ様は分かってくれるっスか……!? 今思いとどまってくれたとして、この機を逃してまた隙を見て脱走されるんじゃ、いつどうなるか分からない分だけ状況が悪くなるっス……)
彼は影に忍ぶ者。
無意識下に、隠したその身を光の下へと曝すのを、本能レベルで忌避したのもあっただろう。
それでもこの状況への対処をと、苦手ながらも頭を使って考えを巡らした。
今出るべきか、いや待つべきかと、そうやって柱から出て行けないまま話し合う子どもたちを見守るしか出来ずにいた時間。
時に、戦闘において僅かな隙が決定的な致命の一撃を喚ぶように、この時この一瞬の迷いこそが、この後の展開を決定づけてしまった。
『人からの評価で変わっちゃうような立場のために、今この瞬間に私を形作る価値を貶めるの』
五歳の少女の主張だった。
可憐で舌足らずな声で紡がれるその年齢不相応な言葉に、イソシギは面食らって動けなくなった。
思考どころか息をすることすら忘れてしまい、目を大きく見開く。
『私ね、私の価値を大切にしたいなって思うんだよぅ。人からの評価も、大切な時もあるんだけれど、今アーマッドの力になりたいって思う私を、大切にしたいなあって思うの』
イソシギは、その場で少女の言葉を聞いていた少年二人と同じように、少女の言葉の意味をゆっくりと飲み込んだ。
(ステラ様は、ずるい)
苦々しかった。
けれど、たしかにその時、イソシギの心に小さな灯が点ったのだ。
我儘で傲慢な、少女の主張。
己の尊厳のために、周囲の事など関係ないと言い切った。
それを周囲が尊重してくれると、そう信じているからこそ言えた言葉だ。
その思い一つで、常識を説いていた少年を封殺し、心配する友人が提示した選択肢を消し去る。
自分勝手なほどに我を貫いてみせた彼女の言葉は、なぜだか真っ直ぐイソシギの心を貫いた。
真似出来ない、と。
たった五歳にしてそんな風に言い切れてしまう少女が羨ましく、そしてどこか妬ましい。
それから、そんな全てを詰め込んで思い浮かべたはずの『ずるい』という言葉には、イソシギ本人も気付かないほど微かに、けれども決して否定できないほどには確かに、イソシギが少女に抱いてしまった憧憬の思いが込められていた。
このとき初めてイソシギは目の前の少女を、ステラを、己が仕えるべき主足りうると認識した。
+ + +
イソシギは、自身のことを何の変哲も特徴もないごく普通の成人男性だと自認していた。
ありふれた容姿、ありふれた性格、ありふれた能力。
彼は彼自身がごく人並みの至極平凡な人間であることを自覚していたのだ。
忍びの隠れ里の長の長子などという相当特殊な生まれではあったものの、そんな生い立ちすらも二十代になり平凡を地で行く彼からすれば大した意味のないただの事実であった。
生まれたのがたまたま忍びの里の長の家だった。
長子であったために父である里長に問答無用で忍びとして鍛えられた。
国で一二を争うほど優れた武闘派の隠れ里では、日夜厳しい訓練が課されたが、閉じられた環境の中で周囲の同世代も同様にしごかれていれば不思議には思わなかった。
イソシギにとっては全てが当たり前の日常だった。
イソシギの国には輪廻転生なんて呼ばれる考え方もあったが、残念ながらイソシギには前世小さな虫であった記憶もなければ死して輪廻を巡った覚えもない。
人間一周目であるからには、その目で見て育った自身を取り巻く環境、それがイソシギにとって当たり前のもので、全てで、だから大多数の人にとってはそもそも戦闘行為自体が身近でないだとか、忍びなんてものは存在すら曖昧にしか知られていないのだとかいったことは想像の外の事柄だったのだ。
イソシギはごく普通に忍びの里で暮らし、ごく普通に厳しい訓練を受け、ごく普通の里長となった。
少なくとも、彼にとっての彼自身は何の変哲もない普通の男なのである。
そんなイソシギにとって普通でなかった事柄があったとすれば、それこそイソシギの父の造反であった。
否、造反という表現は正しくない。
それはほとんど乗っ取りであった。
イソシギの代になってしばらくして、里を出たはずの前長が別の有力な里の長であった男を伴って舞い戻った。
イソシギが成人するやいなや里の後は任せたとある日フラリと出て行ったきりだった前長、つまり父と子との対面である。
イソシギは里の長を継ぐまでついぞ前長であり父である男を超えることが出来なかった。
影に生きる者にとって伝説のように語られる存在であった前長は、統率力も戦闘力も、あらゆる面で忍びとしての資質に優れすぎていたのだ。
まだまだ現役でやっていける年齢のはずの男は何故か老紳士の姿で現れ、同伴してきたもう一人の生ける伝説もくたびれた翁の外見でやってきた。
しかしてその実態は、現役の頃よりもよほど気迫の籠った拳と冴え渡ったキレキレの技を繰り出してくる化物で。
『我が主のため、再び私の下へ下るように』
まさか、と。
里の者をたった二人ですっかり屈服させた見た目だけ爺の化け物。
けれどその事よりも何よりも、ずっとただ淡々と任務を完遂していくだけの絡繰のようであった父の目に、強く強く灯った焔の色が信じられなかった。
ずっと恐ろしい存在であった父が血の通った姿で現れたこと、かつて超えられないままであった前長がさらなる高みへと至った事実。
それこそ、イソシギにとっての、全く“普通では無い”出来事で。
───そうしたことがあってしばらく、現在のイソシギは、縁故採用でもって大商家で雇われているだけの、しがない一人の使用人である。
父であり前長であり、そして現在再び里の者を束ねる立場となった上司が、その主にお仕えするための手駒の一つにすぎない。
お仕えする主とやらが片手で歳を数えられる幼児であったことには大層驚かされたが、その御父君も御母君も優れた人物であったこともあってその事には次第に慣れた。
同じ里の同志たちの中にも様々なきっかけを経て主となる少女、ステラに心酔する者たちが現れ、それを傍目に見ていたイソシギもある種の納得のようなものを日々に得始めていた。
再び、イソシギはイソシギの思う“普通”の人生を歩み始めたのだ。
そんな彼に、人生の転機ともなり得る大役が回って来た。
ステラの、はじめての旅行への帯同である。
しかも、同行者のうちで護衛役はイソシギただ一人。
ステラには普段、必ずフットマンの少年チャーリーが護衛兼側仕えとして近くに置かれていたはずだ。
それは雇い主の当主の指示の元に布かれたステラを守るためのルールであったし、イソシギの上司である父の判断でもあった。
しかし、この旅行だけはどうしてもチャーリーによるステラへの同行が叶わなかったのだ。
ステラの友人宅の都合もあり日程は動かせず、また、何よりもステラの希望が優先されてこの旅行は決行される事となった。
そんな中でステラの護衛役として指名されたのがイソシギなのだ。
父であり、前長であり、イソシギにとって絶対君主たる上司からの思ってもみない指名。
イソシギは歓喜した。
何度も何度もしつこいほどに確認し、自身がステラのただ一人の護衛役を任されたことを確認しては、その度に甲高い喜びの声を上げて踊り狂っては周囲に諌められた。
一人で護衛をすること。
それは、認められることと同義だ。
浮き立つ気持ちが収まらないままやがて出発の日を迎え、イソシギはこれこそ一世一代の大仕事だと、ただ五歳の少女が友人の別荘宅へと遊びに行く、そんななんてことない普通の旅行の馬車へと乗り込んだのだった。
──────それを、見ている者たちがいることも知らずに。
「万死……!!」
「おーおー、珍しく荒ぶるねえ」
黒紫の水晶を思わせる美しい少年が耐えられないといったように言葉を発せば、それを前髪で目元を隠した長身痩躯の男がなだめすかす。
「今からでもお嬢様の───!」
「今回は見学だと言いましたよ。万が一のことがないよう、我々は離れて見守るのみです」
「しかし───!」
「旦那様からの指示です。私も、これはいい機会だと捉えております。チャーリーと離れて過ごす事も、遠出することで様々な新しい経験をされることも、ステラお嬢様にとって大切な成長の機会なのです」
白髪の折り目正しい老執事が視線を馬車から離さないままにそう諭せば、黒紫の水晶を思わせる美しい少年は黙る他なかった。
「今回の旅は、試練です。ステラお嬢様、そして、我が愚息にとっての、ね」
木立の中を恐るべき速度で馬車と並走して走る三つの影を、他に見る者はいなかったという。





