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56.大天使ステラちゃん、雨上がり

 それは、私たちが牢屋に入れられちゃうよりも前、雨の洞窟で初めてアーマッドが私たちに気持ちを吐露してくれたとき。


「………助けて、くれ」


 アーマッドの声は小さかった。

 だけど、狭い洞窟の中でその言葉ははっきりと私たちに届いた。


 突然のアーマッドの発言に、私はきょとんとしちゃう。

 それから、歯を食いしばって下を向くアーマッドの姿が苦しそうに見えて、私は力になってあげたいって思った。

 山の頂上でお話しした時、髪を梳いてもらった時、アーマッドはつらそうに私に謝っていたのを思い出す。

 どうしたのって聞いたイソシギの手を思わず払いのけちゃうくらい、なんだか追い詰められていて、それから苦しそうだったアーマッド。


 そんな彼が助けてって、勇気を出して言ってくれた。

 今日お友達になったばかりの私たちを頼ってくれた。

 私はそれが嬉しくて、だからアーマッドの助けてって言葉それだけで、私はすぐに力になってあげたいって思ったんだ。


 アーマッドに手を添えていたイソシギを見れば、彼はアーマッドの言葉に驚いたみたいで動きを止めてる。

 私を庇うみたいに前に立ってくれているマルクスも目を大きく見開いていた。


 静かになった洞窟の中を、勢いを増した雨音がザーと広がり塗りつぶしていく。

 数秒待っても、アーマッドからそれ以上の言葉は続かなかった。

 なんとなく、待っていてもこれ以上アーマッドは何も言わない気がする。

 『助けて』って、それだけが、きっとアーマッドが私たちに言いたい全部なんだって思ったから。

 私は声を出すべく息を吸った。


「私、」


 発した声は大きくなっていく雨音にかき消されちゃいそう。

 だけど、俯いて力を無くしたみたいだったアーマッドがピクリと反応してくれたのが見えて、私は勇気をもらえたような気持ちになった。

 今度こそ、大きく息を吸って言葉を続ける。


「私、アーマッドを、助けたい!」


 誰かが息をのんだような気配がした。

 時が止まったみたいだった洞窟内の空気が動き出す。

 驚き固まっていたイソシギが「ステラ様、それは……!」と慌てたように何か言おうとするけれど、私は止まらない。

 私を庇う位置にいたマルクスよりも一歩前まで足を踏み出すと、まっすぐとアーマッドを見て両足に力を込めた。

 踏ん張って、お腹からもっと大きな声を出す。


「アーマッドのこと、助けたい! 私、アーマッドが悲しいと、やだもん!」

「………っ!」


 私の声が洞窟に響いて、雨の音を塗りつぶす。

 強く、大きく、私が言うのに呼応するみたいに、アーマッドの顔がわずかずつだけど持ち上がっていた。


「アーマッドがどうして悲しいのか、知りたいんだもん! なんで私に謝らなきゃいけなかったのか、知りたいんだもん! 暴れ出したいくらい苦しんでるのがなんでなのか、知りたいんだもん! 知って、助けたいって思うんだもん!」


 私が声を張り上げるたび、アーマッドの体が、まるで空気で膨らむ風船みたいに、徐々に徐々にその輪郭を取り戻していく。

 頼りなく垂らしていた両手の指に、手に、腕に力が入り、今にも倒れてしまいそうだった足も地面の感触を確かめるようにじりりって動いたのが見えた。

 ずっと下がっていた顔が持ち上がっていくことで、顔に被さっていた白い髪の間からアーマッドのお日様色の顔が見えてくる。

 髪と同じ白い睫毛に縁どられた、今は少しだけ周囲を赤くさせた吊り目気味の目が、瞼が持ち上げられていく。

 

「チビ………」


 普段でも大きな目をさらに大きく見開いた、アーマッドには珍しい驚いたお顔。

 そんなアーマッドは、私の顔を見た途端に虚を突かれたようにピタリと止まり、それからフッって、何か可笑しいことがあったみたいに鼻から短く息を漏らした。

 固まっていた彼の表情がほどけて動き始め、顔色に血色が戻っていく。

 上がっていた眉は下がって鼻には皺が寄り、お口は何か耐えるみたいに歪んだ。

 まるでしかめるようなアーマッドの表情は、だけど、今日一日一緒に居た中でもたぶん一番アーマッドの素に近いお顔だって思える。


「私、アーマッドの! おはなし! きくから!!」

「フ」


 キリリとしたお顔で力いっぱい言葉を重ねた私に、そんな私を見たアーマッドは今度は首を振るみたいに髪を払ってからわざと下を向いた。


「チビ。お前、馬鹿」

「! 馬鹿じゃないもん!」


 また顔を下に向けちゃったアーマッドだったけれど、髪の隙間から見えた彼の顔はなんだか笑ってるみたいに見えたんだ。





 それから三分後。

 

「ステラ様、不味いですって……!」

「まずくないもん!」


 私はイソシギとバトっていた。

 だって、イソシギったら、まだアーマッドから詳しい話も聞いていないのに絶対ダメだって言うんだもん。


「アーマッドのこと助けたいのは分かるっスけど、あの様子ただ事じゃねぇだろーし……。父上たちの居ない時にステラ様に危ないことさせたなんて知れたら俺、大変なことになっちゃいますって」

「パパはそんなことでイソシギを叱ったりしないもん!」

「あ、いや、そっちの父じゃなくてですね」

「パパはちゃんと私のほうを叱るもん!」

「あ、叱られはするんスね」

「パパはしか………、叱られ……、やっぱり、叱られるかなあ……?」

「うーん、危ないって分かってんのにそこに首を突っ込んでくわけで……。いくらステラ様にお優しいゲイリー様でも叱るんじゃないスかね……。俺の父上なら間違いなくブチギレっス」


 後々叱られる事実を意識し始めて勢いを無くしていく私とイソシギのバトル。

 イソシギは何かを思い出すような仕草をしてから、自分の体を抱きしめブルッと震えた。

 そんなイソシギを見た私も、弱気の虫が首をもたげてくる。


「叱られちゃうかぁ」

「叱られるっス」


 私が口を尖らせて見せると、イソシギはようやく伝わったとばかりにしっかりと首を頷かせた。

 『だからダメだよ』ってイソシギが言いたいのは分かるけれど、でも、だけど────。


「ねえ、アーマッド」


 私がアーマッドを見ると、すっかり落ち着いたみたいだった。

 気だるげな立ち姿は元の彼らしい力の抜けた雰囲気で、ゆるりと腕を組んで洞窟の内壁にもたれている。

 ただ今は、さっき取り乱したのが気恥ずかしいのか顔だけはそっぽを向いちゃっているけれど。


「アーマッド」

「んだよ」


 もう一度呼ぶとお返事が返ってきた。

 ぶっきらぼうで、相変わらず明後日の方向に顔を向けているけれど、ちゃんと意識はこっちに向けてくれているのが分かる。


「アーマッドの助けて欲しいことって、危ないことなのかなあ」

「……そうなんじゃねーの」

「そっかあ」


 やっぱり危ないことらしい。

 アーマッドのお返事に、イソシギも我が意を得たりとばかりにうんうん頷いてる。


「ほら、やっぱり。ゲイリー様に叱られるっスよ。百叩きに市中引き回しっス」


 イソシギの言う叱られ方はよく分からない。

 パパは私を叩かないし回さないと思うもん。

 だけど、叱られちゃうし心配させちゃうのは、イソシギの言う通りだと思った。

 私はアーマッドの力になりたいのに、イソシギは絶対だめって、許してくれそうにない。


 私はイソシギを納得させられることも思いつかなくて、黙ってむーって口を尖らせちゃう。

 そんな私にイソシギも弱った様子になったものの、かといってどうしていいかも分からないみたいで、無意味に私に向けて手をパタパタ振ってみたりしていた。


 アーマッドはそんな私とイソシギのやり取りを聞きながら黙っている。

 助けてって言ったのはきっとアーマッドの本心だったんだろうけれど、私たちがどうするのか、それにアーマッドは口を出すつもりはないみたいで結論が出るのをただ待ってるみたいだ。


 助けてって言ったアーマッドと、アーマッドを助けたい私、それからそんな私を止めたいイソシギが三人で膠着状態に陥っていると、それまで黙って成り行きを見守っていただけだったマルクスが口を開いた。


「…………オレも、アーマッドの力になってやれたらって思う」

「マルクス!」


 私は味方になってくれる様子のマルクスに、パッと顔を輝かせる。

 お兄さんなマルクスはいつもとっても頼りになるんだ。

 そんな私に応えるみたいにマルクスはこちらに苦笑してみせて、それからイソシギとアーマッドのほうに向き直った。


「あのさ、雨もおさまってきたみたいだし、一旦オレの家に帰ろうぜ。アーマッドも一緒にさ」


 マルクスの言葉に、私は洞窟の外を見る。

 気づかなかったけれど、マルクスの言う通り、ついさっきまで強い雨が打ち付けていたのが嘘のように外は明るさを取り戻し始めていた。

 まだ細かい雨は降っているようだけれど、もうじきに止みそうなのが分かる。


「オレんち行けばじっちゃんとばっちゃんもいるし、ここよりは落ち着いて話もできるだろ?」

「確かに、そのほうが良さそうっスね」


 マルクスに続き、イソシギもそう言ってから判断を仰ぐみたいに私を見た。

 そうしてみたら、私もマルクスのお爺ちゃんたちのお家に帰りたくなってきちゃう。

 雨がおさまっても洞窟の中にはまだまだじっとりとした湿気がこもっていて、さっきアーマッドに梳かしてもらった髪も水分を含んだみたいにずっしり頭を覆ってる。

 それから僅かにでも濡れていた服がひんやり冷たいのにも気づいたら、なんだか急に一日移動した体が重くなったみたいに感じた。


「帰ろっか」

「うん」

「っス」


 私が言うと、マルクスとイソシギが表情を柔らかくして頷いてくれる。

 アーマッドは少し躊躇したみたいだったけれど、イソシギが背を押すとすんなり私たちに続いてくれた。


「山の雨は晴れるのも早いっスね」

「ザーザーだったのに、不思議だ」

「だな」


 洞窟から外に出ると、雨はすっかり止んでいた。

 四人で空を見上げる。

 木々の隙間から枝についていた雨粒がパタタって落ちておでこに当たった。

 雨の間は姿を消していた鳥がまたピチチって囀り始めてる。

 さっきまであんなに荒れていたのが嘘みたいな綺麗な一面の水色のお空だ。

 急に雨が降り出したと思ったら、今度はそれが魔法みたいにピタって止んで。

 やっぱり山の中は私が知ってる世界とは別の世界みたいって思う。

 

「足元ぬかるんでるから、気を付けてくださいっス」

「うん!」


 イソシギに言われるのに頷く。

 それから勢いよく踏み出した一歩目が、ぐにゅって沈んだ。

 私は勢いよくバランスを崩した。


「うぇっ?」

「おっと」

「あぶね」


 そのまま滑っていきそうになった私を、イソシギが捕まえて、マルクスが支えてくれた。


「滑っちゃった。イソシギ、マルクス、ありがとう」

「気を付けろよステラ」


 イソシギは先に気をつけてって言ってくれてたのにねって思ってイソシギを見たら、イソシギは特に変わらない様子で私の靴や服が滑ったことで突っ張ったりしていないかを確認してくれていた。

 そうして、何か思い出すようにしながら教えてくれる。

 

「土の地面は、石畳とも乾いた土とも歩く時のコツが違うんス。固い土は濡れると表面ごと滑るし、柔い土は沈むっスから。えっと後は、濡れた落ち葉はもっと滑るんで踏まないように進みましょうっス」

「そうなんだ」


 私はイソシギの教えてくれるお話をうんうんってしっかり聞いた。

 早速滑りかけちゃった私がもっと安全に歩けるようにって、考えて教えてくれたのが分かったから。


 私はしっかりイソシギに手を繋いでもらってから、今度こそ慎重に歩き出した。

 地面がぐにゅぐにゅってしていて、ところどころ固い。

 しばらく歩いて、庭師のお爺ちゃんの花壇に入れてもらった時に似てる地面だって気づいてからはコツを掴んだみたいで歩くのが少し上手になった。


 マルクスがまだ心配みたいでこちらを見ながら隣を歩いてくれてる。

 アーマッドはそんな私たちから一歩下がった位置で付いてきてくれていた。

 そうして進むうちにもお空からは雲が晴れて、お顔を出した太陽は朝よりずっと眩しいくらいだ。


「なんか虹が出そうな天気っスね」

「虹!? どこ? どこ?」

「まだ見えるとこには出てねーよステラ。でもそのうち見れるかもな」

「そうなんだ! 楽しみだねえ!」


 私たちはなんてことないお話をしながら、来た時とは違う道を通りながら、来たときよりゆっくり慎重に下っていく。

 アーマッドは時折私たちに何か言いたげにすることもあったけれど、私はそれに気づく度、マルクスのお家についたらちゃんとお話聞くからねって伝わるようにアーマッドの目を見て力強く頷いて見せたんだ。

 アーマッドは私がそうするたびにお顔ごと目をそらして、笑いそうなのを我慢するみたいにお口を歪めてから「前見ろ、転ぶぞチビ」って言う。

 それを何度か繰り返して、日が落ちるより前に私たちはマルクスのお爺ちゃんとお婆ちゃんのお家まで帰った。


 アーマッドを助けて、私とイソシギが叱られないようにするための、作戦会議の始まりだ。

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