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55.浅黒の少年と身代わり(アーマッド視点)

 ここがどこか。


 牢屋の中だ。


 信じらんねえ。

 今の俺には、信じらんねえことばっかが起きてる。

 それは悪い意味でも、良い意味でも、だ。


「良かったのか」

「? うん、大丈夫だよう」


 正面を向いたまま、潜めた声で問うた。

 返ってきたのはあまりにあっさりとした言葉。

 良い子のお返事なのはいいが、場所が場所なんだから声は潜めろよと言いたい。

 本人は分かっちゃいないらしい。

 小さい頭がこっちを向くのが気配で分かった。

 あまりに平然としてやがるせいで、怖いやら緊張するやらでどうにかなりそうな自分が馬鹿みたいじゃねえかと思っちまう。


 俺の隣、俺と同じく冷たい牢屋の地面に座っているのは、五歳かそこらの女児だった。


 疲れたような様子は無いし、怯えた様子もない。

 この状況の不味さや異様さくらいは感じてるだろうに平常通りのそいつに、俺はもはや妙な頼もしさすら感じ始めていた。

 視線を向けると目が合う。

 俺が僅かに顎をしゃくって見せれば、前を向いていろと促されたのが分かったのだろう、不思議そうにはしていたがそいつは大人しく前を向いた。

 緊張感のないその顔が、一体何を見てればいいんだろうとでも言いたげにキョロッと天井のあたりを見渡すのを見て、俺は気づかれないように息を吐く。


 こんなチビが今の俺たちの命綱だなんて、本当に笑えねえ事実だ。

 


 ◇ ◇ ◇



 俺の父親は、この国の人間じゃねえ。

 顔も見た事ねえようなそいつに俺は何の縁も感じちゃいなかったが、母親やその家族にとっちゃそうじゃなかったらしい。

 そもそも俺は望まれて生まれたわけじゃないようだった。


 詳しく聞いたことも無いが、残念ながら父親に似て生まれちまった俺を、母親の家族も母親自身も、決して歓迎出来なかったらしい。

 幼い子どもを捨てて死なせることは出来ないと思う程度には人間らしい感情があったらしいそいつらは、人を雇って預け俺を育てさせた。

 そして、自活の出来るだろう十一の齢になった二年前、それも終えた。


 小さな村は、一人で暮らすには住み心地が悪い。

 隣の村へ行った俺は三日と持たずにその村も出た。

 どこへ行ってもガキの一人、異国の風貌をした俺を人は疎んだ。

 村なんてのはどこも排他的で、変わり者を嫌う場所なんだとその時知った。


 それまで全く好ましいと思えなかった母親とその家族、それから金を受け取って俺を育てた奴も、実は善人の部類だったのではと思い始めたのもその頃だ。

 俺に必要以上に関わろうとしなかった代わりに、必要以上に痛めつけもしなかった。

 国境付近でもなけりゃ、他国民がウロウロするような事はほとんどなく、王国民らしくない(ナリ)をした俺は目立つ。

 人の入れ替わりもほとんどないような辺鄙な村で、見た目も立場も異質な俺を捨てず生かそうとしただけでもあいつらは温情があったのだろうと、一人で村々を移動しながら思った。

 俺と似た人間も混じる国境は、子どもが一人で行こうと思うには遠すぎる。

 その後なんとか見つけた俺が目立たずいられる場所が、この町とこの山だった。



 一人で放浪し始めてから三つは月が経った頃、日中の暑さも厳しくなった季節。

 涼しい場所を求めて標高を稼ぎ、少しでも暮らしやすい場所をと山沿いを探し彷徨っていた俺がたどり着いたのがこの町だった。

 大きな山々の間にぽっかりと広がった大きな町は、子どもばかりがたくさん居た。

 ボロを着た俺が町に入っても気にする者はおらず、すっかり日に焼け歯の抜けたガキもいれば、御供を控えさせている身なりの良い子どもまでいて、ありとあらゆる種類の人間がいる。

 互いに名乗る間もなく手を引かれ、遊びに行こうと連れ出されたのは初めてだった。


 しばらくして暑い季節が終わる頃になると、子どもを連れて避暑や観光のために滞在していたらしいやつらが減り、やはり俺は悪目立ちするようになった。

 けれど、他の村や町に比べればこの町のやつらは寛大で、関わる以上に追い払おうとしたり何かの標的にされるようなことは無い。

 何やら王国騎士団の偉い人が出入りするのだとか騎士団の元トップが住んでいるんだとかで、悪さをしようという奴がそもそも少なく、居心地が良かった。

 

 町中に家を持たない俺は、町からほど近い山に小屋を見つけ、山を利用するやつらが共同で管理しているらしいそこをねぐらに借りて腰を据える。

 住むところを探してウロついていた折に、相変わらず警戒心なんて無いらしいこの町の悪ガキがあそこに小屋があると教えてきたのだ。

 子どもなんてのは『隠れ家』と名が付けば大喜びでそこに集う。

 その悪ガキどもに連れられてガキどもが幾人も小屋を出入りするようになり、この町の俺の暮らしはやかましいほどのにぎやかさだった。

 

 やがて寒々しい季節が来ると、山に出入りするガキどもは減った。

 その代わり、子ども経由で大人にも俺がここに住むことは暗黙の了解のようになっているようで、出て行けとも言われない。

 たまに来て小屋の周りの草刈りをしていくジジイには、ここに居るなら草刈りくらいしろと小言を言われる程度だった。

 手伝わされるのは面倒だし日々の食事にも困る毎日だったが、悪くない暮らしだ。




 そんな、お人好しばかりのような町にも、日常をぶっ壊しやがる無作法者が居たようだ。

 町に紛れ込んだ余所者の俺も人のことは言えないが、その馬鹿は本当の馬鹿だったらしい。


「どう、しろって……いうんだ……」


 寝起きにそれを聞いて、見て、掠れた声しか出なかった。

 傍で響き渡る騒音に、自身が発した人生で一番だろう途方に暮れた声もかき消される。


 小さな体のどこからこの声量がと思いながら、起き抜けのまだ現実と虚構の区別もつかないような意識でそいつを見た。

 なんというか、赤い。

 赤ん坊と言うのは本当に赤くなるのだなとひどく冷静な思考があった。


 全身を真っ赤にしてギャンギャンと叫んでいる赤ん坊は、乳離れはさすがに済んでいるのだろうが、せいぜい一歳かそこらではないだろうか。

 そして、他に人気もないこんな山の小屋の中、寒々しい季節に赤ん坊がこんな場所へ置かれた意味も分かった。


「同族に任せますってか」


 今も赤くなりながら叫び続ける赤子の肌は日に焼けたわけでもないだろうに浅黒い。

 それは俺の父親と同じだろう血が混じっていることを現していた。

 そして、俺とよく似た色。


 一瞬、まさか母親が二人目をとも思ったが、俺の時でさえあれだけ苦慮していたのだ、同じことは二度起こさないだろう。

 それに、そもそも俺がここに居ることだって知るはずが無い。

 予想に過ぎないが、俺と似たような境遇で生まれたこの赤ん坊を持て余した馬鹿が俺を見たか知ったかで、じゃあ似た者同士で何とかするだろうとでも思って置いてったんだろう。


 本当に、馬鹿じゃないのか。

 俺はまだ十一のガキで、自分一人生きるのだって手探りの手一杯で、そのうえ縁もゆかりもねえ見た目だけ似通ったガキ、面倒見る義理もねえ。

 途方に暮れた。

 これでこのガキが死んだら俺のせいか、いやどっかの馬鹿のせいだろうと、耳を塞ぎ一枚しかない敷布を頭まで被って強く目をつぶる。


 耳を手で塞いでいても貫通してくるギャン泣きに耐え、本当にどうすりゃいいんだと思っているうちに五月蠅すぎたその声が徐々に小さくなりやがるもんだから、もう無理だった。


「ア゛ーッ! うざってえッ!!」


 クソッ、と、あらん限りに悪態をついて跳ね起きる。

 自身の頭まで覆って掴んでいた敷布をひっ掴んだまま、赤ん坊が置かれている場所までズンズン歩み寄る。

 ふえふえと弱っちい声を出しながらなおもぐずり続けているそいつを見た。


「ふぎゃあ」


 何を思ったか見えてるのかも定かじゃねえ目をつむったままで、こちらに両手を伸ばしてくる。


「ッ知らねえぞ!」


 本当に、どうなっても知らないからな。

 そう内心で吐き捨てながら、どうやら自分で思う以上に人の良かったらしい自分の性分に辟易する。

 赤ん坊は俺の敷布に包まれ寒さも和らいだだろうに、相変わらず文句タラタラに泣き続けて俺を疲弊させた。



 ◇ ◇ ◇



「なあオレら、どっかで会った事ねえ?」


 そう言ったガキには見覚えがあった。

 去年の今くらいの時期に一度、大勢のガキどもが山へ詰めかけた際に居たやつのはずだ。

 同い年の集まりだろう悪ガキどもの中、頭一つ抜けた背とお綺麗な顔、それにいい身なりをしていた。

 

『お、妹さんか? 可愛いな』

『妹じゃねえ』


 山道をすれ違いざま、他のガキどもが俺たちを奇異の目で見ている中、そいつだけが近寄って来て話しかけてきた。

 その視線は背に負ぶった赤ん坊だけを見ていて、赤ん坊も赤ん坊で手足を伸ばして『だあー!』なんて返事してやがる。

 だあじゃねえ。


『名前は?』

『ジュニア』

『お前の名前もだけど、この子は?』

『こいつの名前だ』

『……女の子じゃねえの?』

『いいだろ別に』


 そんな会話。

 あいつらから見たら異質な見た目をした俺らを、そんな事気付きもしていないような顔で当たり前みたいに声をかけて来たから印象に残った。

 その頃にはもう半年は赤ん坊の世話をしていて、赤ん坊は馬鹿みたいに熱出したり馬鹿みたいに鼻水だらけになりながらもまだ元気に生きていて。

 俺も赤ん坊と一緒に寝込んだり、冷え込む夜になると泣き出す赤ん坊と同じ敷布で丸まって寝たりしながらなんとか食い繋いでいた。


『妹じゃねえの?』

『違うっつってんだろ』

『でも、良く懐いてる』


 ニカッと、太陽みたいに笑ったそいつは先に行ってしまいそうな仲間を追いかけ山道を軽々と駆け上って行った。

 それきりだ。

 一年ぶりに、今度はまた前回とは毛色の違ったやつらを連れて山小屋に現れたそいつ、マルクスと名乗ったガキは、俺のことを思い出せないでいるようだった。

 赤ん坊(ジュニア)がいないから分からないのだろうと、思う。

 いないのだ、ジュニアは今。


 思い出せないならそのままでいろと、そう思った。

 一年も前に一度すれ違っただけの相手、見た目だけは目立つ俺を初見で思い出せなかったなら、この後俺一人が関わったところで思い出すはずもないだろうと、嘘にならない言葉で煙に巻く。


『知らね? ミラーって家名なんだけど』


 町で噂の騎士団のお偉いさんの家の子どもだと言う。


『ステラはオレの友達ー。オレとは違って良いところのお嬢様だから、“テメェ”とか言わないでやってくれ』


 共に来たチビたちを、いかにもなご令嬢とその供だと言う。


 “利用してやろう”


 そう思った。



 ◇ ◇ ◇



 手を出しちゃいけねえ案件だったと気付いたのは、もう随分踏み込んだ後になってのことだった。

 割のいい報酬、気の良い仕事仲間。

 そんな風に思っていた。


 ある日わざわざ山の小屋まで訪ねて来たのはよそから来た行商らしい一団で、こういう事は以前にもあった。

 土地を管理してるやつが手配したのか、不当に滞在している人間を匿っていないかと人がやってくることもあったし、町へ立ち寄ったやつなんかが俺の話を聞いて物珍しさに寄りに来たり。

 それらは大抵悪いことにはならなかった。

 役人なんかは用が済んだら帰るし、俺に後ろ暗いことは無い。

 この町へ避暑に来ているやつは暇を持て余すやつが多いらしく、俺のところに来て他国の話を聞きたがるやつもいたが、そういうやつらは俺がこの国から出たことが無いと知るとつまらなさそうに去っていった。


 その日やってきた、服装も外見もちぐはぐな行商らしい一団は、各地で見世物をして回っていて『サーカス団』というらしい。

 試しにと軽薄な見た目の男が簡単そうに投げて見せたナイフは、的に見立てた木へと見事に刺さった。

 驚く俺に、ナイフ投げも、高所での演技も、練習すればお前でも出来るようになるぞとそいつらは笑う。

 まさかと言いながらも、その後もしばらく一団で山にキャンプを張ることにしたらしいサーカス団のやつらと、俺は仲良くなった。


 行商で行ったという場所の話を聞かせてくれ、まるで俺を団の一員かのように接してくれるやつらに気を許した。

 最初は荷の整理を手伝って、小遣い代わりにと果物や日持ちのする食料を分けてもらう。

 近々、町で公演をするらしく、準備を始める彼らを手伝うようになって、俺はほとんど毎日のように入り浸るようになった。

 舞台裏で作業をしていれば、みんなが声をかけて仲間のように接してくれる。

 そして、公演の前祝いだという宴会に呼ばれたのが昨日の事。

 馴染みのなかった大勢との飲みの席に浮かれ、たくさん飲み食いして、笑い合い、花形の女性団員にジュニアを抱いてみたいと言われて彼女にジュニアを預け───。




「合図をしたら、お前は町に火を放つんだよ」




 一瞬、何を言われたか、分からなかった。

 先ほどまでと変わらないはずの団員らの笑い声が急に歪んで耳に届く。


「は……?」


 直前の笑顔のまま止まり、ぽかんと開いた口でそれだけ発した俺を、まるで嘲笑うかのように周囲の目が見ていた。

 すぐ隣で、直前までもう食べられないと無邪気に笑っていた女性団員が、口元をいっそ妖艶さすら感じさせるような笑みに歪めている。

 先ほどまでとはまるで別人だ。


「理解の悪いガキだね。人を(こっち)に集めているうちに、町でも騒ぎを起こせって言ってるんだよ」

「!?」


 言われた意味が理解出来なくて、理解したくなくて、絶句するしかない。

 穏やかに話していた団員が、俺やジュニアの体調をよく気にかけてくれていた団員が、大きな手のひらで頭を撫でてくれた団員が、少女のような笑顔が魅力的な花形の団員が。

 皆が、こちらを薄く裂けたような口で笑いながら、嘲笑していた。


「な、に………」


 辛うじて出した言葉は誰にも届いていない。

 ぐわんぐわんと頭が揺らされるような感覚に、団員たちがそんな俺のことなど気にもせず好き勝手に喋り出す言葉が右から左へ通り過ぎる。

 知っている言葉を話すはずの彼らの言う言葉が、理解できない。

 理解、したくない。


「やっぱ火でもつけんのが手っ取り早ぇか」

「あの豪邸には移すんじゃねえぞ」

「ったり前だろ。それより、騎士のなんちゃらって家はどうすんだ」

「そいつらをどうサーカスに引っ張ってくるかだね。そもそも、ただの別荘じゃないのかい?」

「いや、爺さんと婆さんが住んでるらしい」

「騎士の家より貴族の別荘狙え。金目の物があんのはそっちだ」


 わいわいがやがやと、先ほどまでもあったはずの賑やかさが、今はひたすらに喧しい。

 逃げなければ。

 と、そう思ってやっと我に返った。


「ジュニ……ア………」

「ハッ! なんてか弱い声出してんだい」


 女性団員が俺を馬鹿にしたように大声で言って笑い、周囲からもドッと笑い声が上がる。

 連れて逃げなければいけないはずの重みが今は腕の中に無いことに、気が付いた。


「ジュニア!」

「大きな声をお出しでないよ。別に痛めつけようなんて思っちゃいない。あんたが間違いなく仕事をこなせば、あんたもこの子も私らの仲間さ」


 真っ赤にルージュの塗られた唇が弧を描いた。

 他の団員が抱いていたらしいジュニアが、目の前の女性団員へと渡される。

 完全に気を許していた相手だ。

 警戒心を失っていた己を内心でなじるしかない。


 何も分かっていないジュニアは周囲の空気の悪さを感じ取ったのか、むずがるようにやわやわと、こちらへ両手を伸ばしてきていた。

 けれど、女が慣れた手つきで胸に抱き直して数度揺らすと、その身を預けるようにして脱力するのが見える。

 信用していたから、預けた。

 手付きだけを見ていればまさに子をあやし慣れている優し気なそれに見えるだけに、処理しきれない頭が、今抱くべき恐怖や憎悪とも違う、名の分からない感情で埋め尽くされてひどく混乱する。


 混乱する頭の隅で、何かが囁いた。

 ジュニアが奪われたから、何だというのだろう。

 ジュニアは、俺とは赤の他人。

 半年ほど仕方がなく面倒を見はしたが、それを今この悪意に満ちる場で己を危険に晒してまで守り通す義理はねえ。


「……話しただろが。そいつは、俺と血の繋がりなんてない、捨て子だ。人質のつもりなら、意味ねえ」


 馬鹿みたいに声が震えてるのが自分でも分かる。

 真っ当な事を言っているはずだ。

 思っているまんまを口にしているはずだ。

 俺はジュニアの親でも兄弟でもねえ。

 なし崩し的に庇護者にはなったが、こんな訳の分からない状況でも守ってやんなきゃいけない道理もねえ。


 そのはずだ。


 なのに、心臓が、血管が、ブチブチと嫌な音を立てておかしな動きをしやがる。

 一瞬にして得体の知れないモノになっちまったサーカス団のやつらに囲まれ、俺は今すぐ逃げなきゃなんねえってのにこの場を動けず、理性では守る必要なんてねえと分かってるはずの弱すぎるそいつが、ひたすら足を引っ張るだけの何の役にも立たねえはずのそいつが、今、手の中に無いことが、頭がおかしくなりそうなほどに     。


「クソがッ」


 飛び掛かって、交わされて、殴りかかって、遊ばれて。

 大人相手に、文字通りに手も足も出なかった。

 足蹴にされて転がされ、手も足も床に押さえつけられて、それでも抵抗して一人の脚に噛みついたところで、それ以上抵抗は出来なくなった。

 泣くジュニアの声。

 声の方向へと強く睨みつけたその先で、女が真っ赤な口で笑った。


「ガキが一人でアウトロー気取って生きてくってんなら、弱みなんて作ってんじゃないよ」


 ◇ ◇ ◇


 俺は山小屋にいた。

 月の無い夜だ。

 どうやって帰ったのかも分からない。

 夜半も過ぎただろう暗闇の中にただ俺一人がそこに立ち尽くしていて、ジュニアは人質に取られたままだという事だけが確かだった。


 石壁を蹴り、声が枯れるまで叫び、暴れ、何時間も何時間もそうしてあらゆるものをぐちゃぐちゃに壊しても、事態は何ひとつ良くならなかった。

 こんな状況でただひたすらに考えてしまうのが、煩わしいだけだったはずの小さなガキ一人のことばかりだというのがひどく不快だった。


 逃げりゃいい。

 今ならなんの監視もねえ。

 頭の中で何かが囁く。

 当たり前のことだ。

 そうするのが順当。

 そうしなきゃ俺は、利用され、犯罪の片棒を担がされ、そして最後は切り捨てられるだろう。


『ガキが一人でアウトロー気取って生きてくってんなら、弱みなんて作ってんじゃないよ』


 頭を反芻する声。

 真っ赤な口。


「クソッ! クソッ! クソッ! クソッ!!」


 やつらのアジトで痛めつけられた手は痛むが、それでも壁に打ち付けるのをやめられなかった。


「なんでッ……! なんで、こんなことにッ、なんだよ……ッ!」


 あんな赤ん坊、ただそばを離れられない弱っちい存在だ。

 ある日突然目の前に現れたそいつが、今日突然奪われた。

 泣き声がうるせえ、一人じゃ食事一つ出来ねえそいつを煩わしいと思いながら、この半年、暮らしてきた。


 なのに、気付いちまった。

 ()られて、言われて、初めて気が付いた。

 一人じゃねえことに、確かに救われてたんだって。

 『懐いてる』なんて通りすがりのやつに言われて浮かれてたんだから、きっと、ずっと前から弱み(それ)になっちまってたんだろう。


 ジュニアなんて名前にもならねえ呼び名を付けて、愛着なんて持たねえと決めていたくせに、気付けば、腕の中のその温度が今ここに無いだけで胃の腑が焼けるような痛みを起こしやがる。

 サーカス団のやつらがやって来て、初めて受け入れられたなんて感じてた。

 仲間にしてもらえるだなんて浮かれてた。

 想像なんざしなかったこんな事態に、何一つ納得できない理不尽に、簡単に気を許しちまった俺自身に腹が立って、頭がぐちゃぐちゃで、ひたすら暴れ続けるしか出来ねえ、馬鹿な自分が情けなかった。



 …………………………


 ……………………


 …………



 いつ意識を失ったのか。

 小屋に差し込む太陽の光と、外からの微かな人の気配に目が覚めた。


 暴れ続け明るくなってきたあたりで記憶がぷつりと途切れてやがる。

 気絶でもしてたんだろうと思いながら、外の微かな気配があいつらのものなんじゃねえかと考えてゾッとする。

 寝起きで、擦り切れた心と体は神経が切り離されたようで、きちんと頭と連動しねえのか上手く動かねえ。


 ジュニアを奪られたまま、逃げる選択肢は無え。

 被ってた人の皮を脱いだやつらは残忍な外道そのものだった。

 そんな奴らが利用価値の無くなった赤子をどうするかなんて、考えたくもない。

 しかしそれも、俺がやつらの指示を実行しなければ同じ事。

 そして、俺が指示をやり遂げたとして、用済みになっても同じだ。


 犯罪者になんざなりたくねえが、あいつらの仲間になっちまえばもしかしたら俺もジュニアも助かるかもしれない。

 そんな僅かな可能性に賭けるしかねえのか。

 俺らジュニアみたいな弾かれ者の庇護者の無いガキは、そうやって生き延びるしかねえのか。

 外の気配が徐々に近づいて来るのを感じながら、苛立ちのまま、怠い腕を再び叩きつけようと振り上げた時だった。


 カサ、カサ、と、草を踏むひどく軽い足音がひとつだけ近づいてきた。

 まさかと思う。

 最近になって壁づたいに歩き始めていたジュニアの姿を幻視した。

 そんなわけないと、そう思いながら俺は知らず腰を浮かせて小屋の入口を見る。


「きゃっ!」


 まあ、そうだよな。

 見えたのは五歳くらいの女児で、俺は内心自嘲してしまう。

 体に入っていた力が抜けて、上げかけていた尻が再び地面に落ちる。

 やつらの拠点からここまで、どうやってジュニアが一人で抜け出しやってくるというのか。

 一瞬まさかと思った自分に、どれだけ小さな希望に縋ろうとしてやがるのかと呆れる。


 どうせこの小屋に俺が住み着いてると知らないよそのガキだろう。

 サーカス団の手伝いに通ううちに、もう避暑だ何だとそんなやつらが町に集まる時期になっていたらしい。

 だからこそサーカス団のやつらも大規模な盗みをしてやろうと画策してやがるんだろうが。


 先ほど顔を覗かせた女児が一人と、その他にもう一人子どもと大人がいるのが、聞こえてくる足音や声から分かる。

 すぐどこかへ行くかと思ったやつらが離れないもんだから顔を出せば、そこには一年前にすれ違いざまにジュニアが懐いてると俺に言い放ったガキも居た。


「私ステラ、ステラ・ジャレットっていうの! あなたのお名前は?」

「………アーマッド」


 そうして、話すうちにそのガキが騎士団の家の子どものマルクスだと分かり、一緒にいるのもどっかの令嬢だというステラというチビとその供の男だと知る。

 “こいつらをジュニアの身代わりにすりゃあいい”

 頭の中で何かが囁いた。

 こいつらガキ二人、俺とジュニアが置かれたクソみたいな立場からの突破口にすればいい。

 こいつらには守ってくれるやつもいる。

 騎士団の子どもが拐われたらきっと上の人間も動くだろう。

 今まで俺らは散々な思いをしてきたんだし、良い思いしてきたやつらを少しくらい利用したっていいんじゃねえか。

 そんな風に思うのは、仕方のねえことだ。


 ───いや違う。

 そんなの言い訳だ。

 俺がやろうとしてるのは、俺とジュニアが助かるために、この身形がいいやつらを差し出そうと、それだけ。

 俺がサーカス団のやつらと変わらねえとこまで堕ちる、そんな行いだ。


「アーマッド! ……と、遊びたいんだけど、ダメかなあ……?」


 友人と遊び、当たり前に親がいて、それだけじゃ飽き足らず供の大人まで連れて守られている、そんなチビガキ。

 そのニコニコと人の気も知らねえで幸せそうにしてやがる能天気なチビに俺がしようとしたのは、たぶん八つ当たりや嫉妬や羨望や、なりふり構わない選択肢なんてないそんな先。

 全部がごちゃまぜになった、悪辣で自分勝手で醜悪な、そんな何かだったんだろう。


 

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