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(閑話)ジャレット家の料理人サッチモによれば/前(サッチモ視点)

長くなったので前後編です。


 僕の料理人としての人生は、成功が約束されたようなスタートだったと思う。

 父と母は職場結婚で、その職場というのが何を隠そう王城の調理場だった。

 二人ともがコックで、二人ともがお偉方を招いたパーティーで料理を作ることを許されるほどの腕利き料理人だったのである。


 父と母の出身地は同じ王国内だが王都からは遠く、そして互いが随分離れている。

 父は北端の生まれ、母は南端の生まれだ。

 同じ国の中でも地域によって気候や風土は異なり、使われる食材や好まれる味付けは違っている。

 歴史の長いこの国であればなおさらだ。

 人や行商の行き来が活発になり他の地域の食材が手に入るようになったのも近代のこと。

 交通網が発達するまでの長い歴史の中で、地元に根付き、培われてきた食材の食べ方というのは今でもその土地土地で深く愛されているものだ。



 父と母が王城へ上がることを許されたのはほとんど同時期だったそうだ。

 父は北端に接する友好国の料理技術すらも身に着けた料理人で、高い料理技術に絶対の自信があった。

 母は海に面した南端の街で海鮮の調理やその加工に特に秀でていたという。

 二人ともが自身が王国中で一番と疑わず、王城料理人の試験の突破も当然だと思っていたのだそうだ。

 しかし、二人は入城して互いの料理を見て、食べて、そこで初めて自身よりも優れているかもしれない料理人の存在を認めた。


 年齢も入城時期も変わらなかった二人は強くお互いを意識した。

 故郷を離れ入城してからも、二人は周囲の料理人たちとは別格だったという。

 二人は互いをライバルと認め、競い、高め合った。

 父が故郷や隣国の料理を母に振舞えば、その洗練された調理法と技術に母は驚き、同時に嫉妬する。

 母が故郷の料理を父に振舞えば、他には無い土地独自の食材の魅力はもちろん、それらを最大限に活かす加工方法、その芸術的ですらある技術の数々に驚嘆し、父自身もその知識を修めたいと求めた。


 二人は互いの技量や知識を認め合い、切磋琢磨し、そして互いの技術を教え合う過程で親しくなり結婚したんだと聞かされて僕は育った。

 それはもう何度も、何度も。

 僕が物心ついた頃からその話を嫌というほど繰り返し熱く語って聞かせる両親はいつもとにかく幸せそうで、それはもう盛大に惚気まくっていたものだ。



 そんな二人の間に生まれた僕はといえば、生まれも育ちも王都。

 職人街の中でも王城へ出入りすることの多い平民たちが暮らす一角だ。

 父と母は家でも普段から凝った料理を作っては研究だなんだと二人で盛り上がっていたから、幼かった僕にとっての遊び場が彼ら二人のいるキッチンになったのだって仕方のないことだっただろう。


 小さい頃から料理に親しみ、一流コック二人の元で育った僕は、十代の半ばには同世代はおろか若手と呼ばれる世代の料理人の中で負け無しの腕利きになっていた。

 僕の鼻は伸びに伸び、もはや伸び切っていたと、今になって思い返せば恥ずかしくなるほど、いい気になっていたと思う。

 技術を見せびらかし、周りを見下し、まるで頂点に立ったかのような調子の乗り様だった。


 そんな僕を更に調子に乗せ肥大化させたのが、王城からの直々の入場願いだ。

 僕の料理の腕がどこかから伝わったのか、それとも大臣の誰かが僕の料理を食べでもしたのか、最初から僕のために王城の調理場でのポストを与えるから入城してくれという内容のそれを鼻高々になって両親に見せびらかしたのを覚えている。

 両親はそれに大喜びしてくれたがしかし、僕が過剰に期待しているよりは控えめだったそれに僕は何かを消化しきれなかったような、少しのもやつきを感じたのだった。




「いつまで下準備に時間をかけるつもりだ! お前はもう明日から来なくていい!」

「そんな!」

「チーフ、それはいくらなんでも横暴です。今日は急な来賓も多く……」

「お前も焼きムラが出来る前にそっちの鍋を入れ替えろ! 王城の料理人のくせに言われなければ火の調節ひとつ出来ないのか!」

「っ! ……申し訳、ございません……」


 王城の調理場、『城お抱え』たる料理人たちの働くそこは毎日目の回るような忙しさだった。

 王城で働き始めてたった数年で『お抱え』の“焼き場”のチーフにまでなっていた僕は毎日、毎時、毎秒、誰かを怒鳴りつけていたように思う。

 王城の調理場はどこも戦場のようだった。

 料理経験歴の長さも、先輩も後輩も、年上も年下も無い。

 怒鳴られたくなければ上に立つしかない。

 人に意見したくば上に立つしかない。

 他の誰にも実力を認めさせるだけの実力、それを身に着ける事、ただそれだけが他の料理人より上に立つための条件だった。

 ここでは美味しい料理を作る料理人こそが絶対なのだから。


 王城の調理場はいくつかの管轄に分かれている。

 王宮の御殿に住まわれる国王や王族の方の調理をする少数精鋭の『王の料理番』、来賓のもてなしやパーティー、貴族院に出席する大臣級の上級貴族たちの食事を用意する専門分野に特化した『城お抱え』、王城勤めの貴族や騎士たちの食事、上級貴族付きの上級使用人の食事を用意する腕利きの『城料理人』、王城勤めの大勢の下級使用人と下働きのための大量の料理を用意する『城食堂』。

 それぞれの管轄ごとにトップである料理長がおり、その下に副料理長、それから“焼き場”や“蒸し場”それから“板場”といった部門ごとそれぞれにチーフが存在している。

 そしてその下、彼らが出した指示に従って調理を行う優れた料理人たちが多く働いていた。


 国王をトップとして、国の中枢に近い者へ料理を提供する調理場の者ほど立場は上ということになる。

 さらに同じ管轄内であっても野菜の下処理や洗い場をする“追い回し”よりも出来上がった料理を器に盛る“先付け”のほうが立場が上、そしてその上に実際に調理を任される焼き場や蒸し場、さらに板場というように、任される仕事内容によって料理人同士の上下ははっきりとしていた。

 料理長や副料理長ともなれば話は別だが、それ以外の料理人たちの上下は明確すぎるほどだった。

 『城食堂』で板場のチーフにまで上り詰めたとしても、『城お抱え』の下働き相当である追い回しの料理人からは下に見られる。


 そこにいるのは入城を許されるほどの料理人ばかりだ。

 皆が自身の料理の腕に自負があり、そして王城の調理場に入って現実を知り、その上下を叩きこまれる。

 それでも折れずに上に上がれる者というのは、そんな中でも研鑽を止めず高みを目指す愚直な馬鹿者か、もしくはとんでもない天才だけ。


 長年の王城勤務を経て最終的に『城お抱え』のチーフを務めていた僕の両親は尊敬すべき『馬鹿者』であり、『城料理人』の先付けチーフとして入城してからたった数年で『城お抱え』の焼き場チーフにまでなってしまえた僕は圧倒的に『天才』だった。

 挫折を知らない僕は両親が言ったようなライバルの必要性など感じないまま、周囲の優れた料理人たちを追い抜き、踏みつけ、置き去りにしていく。



「貴様、また新人を追い出したのか! 調子に乗るのもいい加減にしろ! お前に次の料理長を任せる事は今後断じて無いから心しておけ!」



 そう言った『城お抱え』の料理長から、その立場を奪ったのはそれから数か月と経たない頃だった。



「お立場、お返しいたしましょう。()()()殿」

「ぐっ……!!」


 そしてすぐ、返した。

 なぜなら僕はまた数か月と立たない内に『料理番』へ栄転することが決まったのだから。

 睨まれることも、恨まれることも、もうその時には慣れていた。

 周囲と切磋琢磨するなどという非効率なことをする必要はないと、そう驕って。


 『王の料理番』は少数精鋭だ。

 下働きのような立場の料理人はおらず、一人が一食を最初から最後まで責任を持って作りきる。

 その厨房へ足を踏み入れるのを許された時僕はまだ二十代後半で、他には六名しかいない料理番たちは一番若い者で五十に差し掛かる歳の者というくらい、そこは優れた料理人が至る最終到達点、目指す上の無い(いただき)だったのだ。


 僕の料理の腕は絶対だった。

 僕を若輩と見た料理番たちは僕の料理の腕を試したが、数品作らせただけですぐに納得したようで絡んでくることは無くなった。

 王へ拝謁する機会すらありふれる為に作法や行儀を学び、そして料理人としての僕の人生は一度の壁に当たることも無く見事に完成した。











 利き手を失ったのは、三十になってすぐだった。






 




 



 締め切ったままの暗い部屋。

 薄い壁、寒々しい板の間。

 風が吹く度にガタガタと鳴る戸は立てつけも悪ければ修繕もろくにしていない。

 ボロの住宅が密集しているせいでろくに日の光も差し込まない家は、すきま風と雨だけはよく吹き込んだ。


「私もう帰るけど。ねえ、お酒ばっか飲んでないで何か食べたらどうだい? 元は、良いとこの料理人なんでしょアンタ」

「ッうるっさい!」

「キャッ! もうっ! 大きな声を出さないでおくれ! 私だって得意客に死なれでもしたら寝覚めが悪いんだよ! ……お金はあるんだし、もうちょっと身の回りに使えって言ってるんだ。分かるだろう?」

「…………悪かった。ただ、料理の事には触れてくれるな」

「はいはい。好きにおしよ」

「……また、店に行く」

「はいはい」


 そう言ってあっさりと女が帰った後は、また味なんか分からなくなるまで酒を飲んだ。

 どんな美味しいものだって知っている。

 作り方だって知っている。

 けれど、一年前に暴漢に襲われたあの日から、利き腕を折られ潰されたあの日から、もう鍋を振ることは愚か、包丁一本すら握れなくなっていた。


 何者かからの暴力に気を失い、次に目が覚めた時にはもう利き手である右手には力が入らなくなっていた。

 王城の医者に見せたが、骨が元に戻るまでの痛みを誤魔化すくらいしか出来ないと言われた。


「腕から手に繋がる部分が中で潰れてしまっているね。奇跡でも起きない限り、利き手はもう自分の意志では動かせないだろう」


 医者からそう説明される間も、僕は魂が抜けてどこか違う場所で違う人の話を聞いているように現実味が無かった。


 犯人は未だに分からないままだ。

 僕に追い出された料理人の誰かか、僕が嘲笑うように軽んじ踏み台にしてきた誰かか。

 ひとつ確かなのは、恨まれ、陥れられ、傷つけられ、奪われたこと。

 王城から暇を出されて実家へ帰り、やがて骨が繋がって腫れが引き、痛み止めの必要がなくなって、それでも僕の右腕はまともに動かず、右手は手首の先が垂れたまま指先はピクリとも動かせない。


 医者の同情する目が、両親の心配する顔が、生まれ育った職人街で誰も彼も見知った顔ばかりの中で囁かれる声が全て僕を、僕が持っていた全てを粉々に砕いた。


 つい先日まで僕はこの国すべての料理人の頂点で、入城を許された優秀な料理人たちをも下に見る存在で、『王の料理番』たる七英傑の一人で────。


 ガラガラと音を立て、僕の積み上げた何かが崩れた。



 絶望から引きこもっていた僕が、実家で両親から与えられる食事に、そこに込められた何か分からない味の理由が怖くなって、家を飛び出して一人、王都郊外の住宅地でそれまでの貯えを食いつぶして暮らし始めるまではすぐだった。


 酒を飲み、潰れ、起きては飲み、気まぐれに誰かに会ってはもう誰とも関わりたくなくて引きこもり、飲んで、起きて、飲んで、起きて、飲んで、起きて、飲んで────────。











「────っ、なん、だ」


 慣れない日の光に目が覚める。

 肌を撫でる風がすきま風などではなく、吹きさらしの屋外に寝ていたことに気付く。

 何より先に、いつの間にか寝ていたらしい事に思い至った瞬間、ざっと血の気が引いた。

 暴漢に襲われて以来、自身の知らない眠りからの目覚めが強烈なトラウマになっていた。

 いつ寝た、どうして、ここはどこだ、一体何が、右腕は。

 頭を情報が目まぐるしく回り、答えが見つからないのに焦りが増す。

 急いで上体を起こすとすぐ自身の右腕を掴み体へと引き寄せた。

 力の入らない右腕はその動きに大きく振られ、手首から先でぶら下がる力の入らない右手(パーツ)が重みを増して振り回されて付いてくる。

 利き腕が駄目になって久しく、もうこれ以上どう悪くなるというのかと思うが、しかし起きて一番に利き腕を気にしてしまうのはもはや料理人として持って生まれた(さが)なのかもしれない。


「やっと目が覚めましたか」

「おっせえな。こりゃあおいらのせいだけじゃねえ、酒の飲みすぎだな。ガッハッハ」

「黙っていなさい。アナタはそこで立っているだけでいい」

「あーあー。わかりましたよっと」


 男二人の声がしてハッとそちらを見れば、いかにも怪しげな風体の男が二人そこにおり、何か言い合っている。

 二人ともが三十代後半から四十代ほどに見える異国風の顔立ちをしている。

 男のうちの一人、細身で冷静な振る舞いの男は冷酷な冷えきった目でこちらを見、野性味の溢れる風貌のもう一人は荒々しい態度の中にもどこか愉悦を含んだような残忍な目でこちらを見ていた。

 

 男たちの視線は人を見ているというよりどこか観察対象や実験対象を見ているような冷めた視線で、ようやく自身の置かれた状況を理解した僕は心胆を寒からしめた。

 今度こそ殺される、と、そう思った。

 以前利き腕を害された時と同じ相手とは思えない。

 前回が恨みによる復讐なのだとしたら、今回は違うと、直感的に思った。

 利き腕を失ったあの時、感じたのは強い怨嗟の念。

 僕を害そう、僕から奪おうという強く熱い意思が僕の利き腕へと向かうような、暴力的な怒りだった。

 しかし今回は違う。

 男二人は明確な何かの目的を持って僕を眠らせ攫い、そしてその明確な何かを慣れた手順で得ようとしている。

 おそらく僕は目的のためのパーツの一つに過ぎないのだろう。

 彼らの目が、態度が、そう雄弁に語っていた。


「さて、そこの貴方」


 言われてギクリとした。

 先ほどからこちらを見ていたはずだが、その冷酷な目が僕のそれとはっきり合わされたと感じた瞬間、背を何かが這うような恐ろしさに身が縮み息が詰まる。


「これから、アナタの利き腕を頂戴します」

「なっ…………!」


 だから、細身の男が言った意味も分からなければ目的も分からない言葉に、僕はただ絶句するしかなかった。

 異国風の顔立ちとその振る舞いから、男の機微など全く読み取れない。

 怒りも侮蔑も何も感じていないようなその顔で、ただ地面に座り込んだままの僕を見下げるように見ながら淡々と言ったのだ。


「その、役に立たない、腐りかけたものを寄越していただきます」


 男たちの風貌と振る舞いから、僕は彼らが他国の間諜だと思った。

 間諜が僕の動かなくなった腕を奪う意味が分からない。

 元は王宮への出入りを許され王への拝謁すら許された身だからだろうか。

 人質? 脅迫に使う?

 理由も、意味も、何も分からず恐怖に震える僕に、しかし冷静な顔をした細身の男はまっすぐと僕の右腕を指差しながら同じ意味の言葉を何度も何度も何度も何度も淡々と繰り返す。


 意味が分からない。

 どうしてこんな目にばかり。

 寄越せと言われて腕を差し出すやつがいるだろうか。

 命と引き換えだろうこの状況なら普通は差し出すのだろうか。

 けれど、僕は。


 差し出すわけがない。


 たとえ役立たずだろうと、ろくに動かなかろうと、この腕は、この利き腕は、僕の料理人としての人生そのもので、僕の価値そのものなんだ。


『奇跡でも起きない限り、利き手はもう自分の意志では動かせないだろう』


 医者が言った、そんな気休めにすら縋ってしまう。

 奇跡さえ起きれば、またこの腕で料理が出来るんだ。

 どんな奇跡だっていい。

 奇跡さえ、奇跡さえ起きてくれれば、また、僕は価値を取り戻し、また、人の上に立てる。

 人を踏み台にし、見下し、はるか高みから持って生まれたこの腕一本で誰からも認められ───。


 この腕は、この、美味しい料理を作り出せる腕だけは、この身に変えても奪われるわけにはいかなかった。



 もう二度とこの腕が、料理を作り出せないのが分かっていたとしても。



 必死で腕をかき抱き、イヤイヤと首を振る僕を、細身の男は全く何の感情も浮かばない顔で、目で、ただ見下す。

 僕の心が折れるのを待つように。

 僕が、この役立たずの利き腕よりも生きて帰ることを選ぶ、この腕を捨てる決意をするその瞬間を、待つように。

 その時ふと、ただ成り行きを見ていた荒々しい風貌の男が一歩前へと出て口を開いた。

 気づいた細身の男が止める間すらない。



「治してやっからァ、おいらたちン為にその腕を奮えっつってんだよ、料理人の小僧(ガキ)



 頭が、真っ白になった。


「なお、して…………?」


 疑問符でいっぱいになり、何を言われているのか分からず、それから言われた意味を理解するもやはり意味が分からず、怒ればいいのか呆れればいいのか、呆然とする僕を目の前に、細身の男が荒々しい風貌の男に余計な事を言うなと文句を言って二人で揉め始めた。


「だからアナタは! 掌握する前に条件を出せばこちらが譲歩することになると言っているんだ」

「アーアー、またうるっせえなあ。治してやって、そっから話しゃあいいじゃねえか」

「それでやらないとなれば口を封じる他なくなるでしょう! これだから頭を使うことを知らない輩は」

「恩売って働かせりゃあいいだろうがよォ。案外人間ってもんはそれだけで動くもんだゼ、若造」

「たった一つで年上ぶるなと言っている!」

「ヘイヘイ、すんませんねェ。まあ、アレだ、さっさと決めちまおうゼ。お嬢さンためだ」

「全く、誰のせいだと……」


 先ほどまで冷静だった男が見事に翻弄されているその様子に、僕はまだ現実味がないまま呆然とするしかない。

 しかし何故だろうか。

 先ほどまでの震えは、恐ろしさは、消えていた。


 目の前の男二人が何者で、何の目的で、僕の命にもかえられない利き腕を欲していて、そのどれもが何の解決もしていないというのに、目の前の二人の息の合いすぎた罵倒の応酬にどうしてだか体の力が抜けてしまったのだ。

 思わず「ハハ……」と乾いた笑いが出る。

 荒っぽい男の明け透けな物言いが、治すだとかなんとか、無茶苦茶を言う男の発言をまるで肯定するように責める細身の男の物言いが、なぜだか信じてしまっても良いのではないか、本当に治せてしまえるのではないかと思わせる『当然さ』を匂わせていた。

 慣れた動き、慣れた発言、慣れた応酬、そんな、先ほどまで恐怖の対象でしかなかった彼らの醸し出す妙に気安い雰囲気に、張っていた気が抜けてしまったのだ。


 どうせ駄目な利き手なら、このわけの分からない蜘蛛の糸を、試しに掴んでみたっていいんじゃないかなんて。

 魔が差したのだ。


 脱力に合わせ、支えを失くした右腕がだらりと垂れて地面に落ちる。

 その瞬間、感覚を失って久しいはずの指先が、地を掴んだような、そんな気がした。

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