(閑話)商会長ゲイリー・ジャレットは自覚する(ゲイリー視点)
突然ですが、デイヴィス編の補足のふりをしたパパのドキドキ初恋パートです。
次話ママ視点とセットでどうぞ。
需要があるかは謎です。
ただ、自分の家に帰るだけだというのに。
かつてこんなに緊張したことがあっただろうか。
そわそわと持て余す気持ちに、僕は何もかもを放り出して今すぐ屋敷に帰りたいような、何か理由をつけて帰宅を遅らせたいような、複雑な気分だ。
「では、このあとの報告会は会長抜きで行います。よろしいですね? 会長?」
男の、うかがうような野太い声に僕はハッとした。
まだ日も沈まない時間、仕事中だというのに、考えに気を取られてしまっていたらしい。
孤児院を出て、従業員用の馬車の一台に乗り込んだ僕は、商会へと戻る彼らとこの後の業務についての確認を行っていた。
街の中心街とあって人通りは多いものの、夕方近くのこの時間帯は行商の馬車も少なく、交通の妨げにはならないだろうと道端に停車して引継ぎを行っている。
気が散ってしまっていたことに一言「すまない」と断り、目の前の男、チックと重要度の高い確認事項の照らし合わせをする。
孤児院への定期訪問を終えた僕は、本来であれば報告会と業務指示の為、一度商会本部へと戻る予定になっていた。
それを突然、無理を言って直帰にさせてもらうのだ。
その分僕の代理として負担を強いることになるチックにこれ以上の手間をかけないよう、きちんと申し合わせをしておかねばならないというのに。
そんなことを考えているのが、傍目にも分かったのだろう。
チックは縦にも横にも大きい体を折りたたむように縮め、髭だらけの野性味のある顔を寄せてきた。
「大丈夫か? ゲイリー、何があった」
「ああ、いや違うんだ。懸念事項ではないから気にするな。プライベートなことだ」
「そうかよ。抱え込むなよ」
言って、手の甲で肩の当たりをノックするように叩かれる。
互いにしか聞こえない声量は、先程までの取り澄ましたような外向けのものとは違う、気安い言葉でかけられた。
チックとは、学生時代からの腐れ縁だ。
地方貴族の五男であるチックとは、王都の学園で出会った。
数字や経営学が好きで、より専門的な勉強ができるからと実家から勘当されることも覚悟で庶民向けの商業科を専攻した馬鹿だ。
こいつが嫡男なら実家の領地はもっと栄えたのではと思えるほど優秀な男だが、貴族というのは資質はどうあれ先に生まれた方が偉いらしい。
それが勿体ないとは思いつつ、放っておけば研究畑で寝食も忘れて身を滅ぼす未来が簡単に想像できたため、僕が実家を継ぐ際にポストを用意して無理やりに雇い入れた。
チックにしてみれば、弱小ながらも資産に余裕のある商会を盛り立て大きくしていくのは存外楽しいことだったらしく、見事にその手腕を発揮。
最初に用意したのは、当時はまだたった一つしかなかった支店の経理部長だったにもかかわらず、それも今では国中に店舗を持つ商会の本店店長だ。
正直、楽な仕事ではないはずだが、本人が喜んでいるのでわが商会はもっと大きくなっていくことだろう。
僕一人ではこうはならなかったと断言できる。
頼りになる男だ。
やや数字バカで金にがめついところはあるが、僕としては腐れ縁のこの男は大切な友人であり、相棒だ。
とはいえ、今僕が思い悩む“これ”は、簡単には口にはできない。
今現在僕の頭を占めて猛威を振るう“これ”は、どうにも素面ではうまく説明できる気がしなかった。
かといって、自分ひとりでは持て余す“これ”を、ずっと抱えていられる気もせず。
僕は相談相手としては一番だろう目の前の男を見た。
その視線が友人としての目配せだと気付いたらしいチックは、軽く眉を上げた。
「チック。週末、時間はあるか」
「昼か夜か」
「夜だ」
「かまわねえよ」
夜。それだけで、飲みながら話を聞いてほしいのだという意図を察したのだろう。
視線が一瞬、馴染みの店のある方へ向いたのだから流石だ。
それから、僕の顔色を読んだらしく、すこし意地の悪い笑みを口元に浮かべた。
「楽しみだ」
「……おごらんがな」
「そりゃあねえだろ」
面白い話だと思われても困る。
僕は真剣に悩んでいるのだ。
かといって、他の誰にこんなことが話せるというのか。
一つ咳ばらいをして、気を引き締め直すと僕はチックと最終確認をした。
馬車を降りて従業員たちに労いの言葉をかけると、一台だけ店とは異なる方向を向いて停車している馬車の扉を開ける。
中には、フットマンの少年チャーリーと、彼にもたれかかって寝ているステラの姿があった。
立ち上がり場所を譲るべきかと目線で問うチャーリーを手で制し、ステラを起こさないようにそっと乗り込む。
ギシリと木の板が沈む音すら、今は立てたくない。
ステラの正面を位置取って座り、手を伸ばした。
サラリ。
細く柔らかい髪を梳くように撫でれば、汗をかいた名残りだろう、湿気を帯びた熱を感じた。
ここでこうして、小さく愛らしい生き物が寝息を立てている。
生きている。
それだけで、奇跡を信じてしまうほどにたまらない気持ちになる。
ふにゃふにゃで、小さくて、繊細で、そしてとても温かな存在、僕のステラ。
自分や妻にどこか似た僕らの天使は、寝顔も特別一番に可愛くて、たまらなく愛おしい気持ちがこみ上げる。
優秀な御者によって、そっと滑らかに馬車が動き始めた。
この後、自宅についた後のことを考えて、また自身の心臓がせわしく動き始めるのを落ち着かせるよう、天使の寝顔を愛でるのに集中することでやりすごした。
「おかえりなさいませ、旦那様」
予定外に早い帰宅だったが、そつのない老年の執事は落ち着いた佇まいで迎えてくれた。
眠っているステラをチャーリーに任せると、上着を脱いで老年の執事、ヘイデンへと渡す。
チャーリーがステラを部屋へと運ぶ背中を見送ってから、ヘイデンへと尋ねる。
「彼女は今何を?」
「昼食をすまされてから、私室へ籠っていらっしゃいます。次回の発表会の準備とのことで、しばらく一人で考えたいからと人払いなさっていますのでご様子までは」
「そうか」
僕のいつにない様子に気づいたのか、ヘイデンは不思議そうにしながらも「お呼びいたしますか」と言ってくれたが、「いや、いい」と断る。
正直、ほっとしている。
今の僕は、時間がほしかった。
「では、そうだな、一度私の部屋に──」
急いで帰宅したものの、未だ収まらない動揺のせいでこの後何をするかを考えていなかった僕は、一瞬言いよどんだ。
その時だった。
まるで見計らったかのようなタイミングで、その声は降ってきた。
「あらあなた、おかえりなさい。早かったのね」
「!」
びくっと思わず肩が上下した。
いつもと変わらないその声は、歌うように華やかでよく通る。
ごく自然に投げられた、いつもどおりのその声に、しかし僕はそちらを向くことができなかった。
「あ、ああ。帰ったよ。部屋に籠っていたそうだね」
「ええ。……どうかされたの?」
僕はこんなに取り繕いが下手だっただろうか。
不思議そうに聞く彼女の声色は平常と変わらない。
僕の妻であるディジョネッタ・ジャレット。
ステラが生まれた頃より、僕は彼女のことを愛称で『ディー』と呼んできた。
芸術家肌で優れた感受性を持つ彼女は、機微の変化にも敏感だ。
今の僕の動揺に、彼女が気づかないはずがなかった。
返事に窮し、目を合わせない僕を、今彼女はじっと観察していることだろう。
見えないはずの視線が刺さるようだ。
「ディー、僕は、ちょっと──」
「久しぶりに二人でお茶をしたいわ。よろしいかしら」
言いかけた僕の声はしかし、最後まで言い切ることはできなかった。
彼女の凛とした声に塗りつぶされる。
元より、気持ちを落ち着かせるための時間稼ぎがしたかっただけで、僕は家にまっすぐ帰るためにこのあとの予定は全てキャンセルしてしまっている。
僕が仕事用で使う“私”ではなく思わず“僕”と言ったこともあって、今日はもうプライベートな時間を過ごすのだと彼女にも認識されたらしい。
尋ねる体をしているが、遠慮がない。
「……お茶の用意を頼む」
「かしこまりました。テラスはいかがでしょうか」
「ああ」
ずっと部屋に籠っていたディーを慮ってだろうヘイデンの提案に頷き、それでよかったかと確認するため彼女を見れば、そこでやっと目が合った。
嬉しそうに頷いている。
その顔は少し幼く見え、ああやはり似ていると、先ほど見たあどけない寝顔を思い出した。
胸がきゅっと、小さく疼いた。
「では、お断りされてしまったの?」
「まあ、今回はそうだね。後は殿下とその周囲がどうされるか次第かな」
向かい合い、冷まして淹れられた紅茶を楽しみながら、今日あったことを彼女にも共有する。
第二王子のデイヴィス様との間にあったこともかいつまんで伝えれば、彼女はちょっと不満そうに「そうなの」とだけ言った。
そんな彼女に僕が「ディー」と呼べば、特に責める意図はなかったのだろう、含みのない笑顔が返ってきた。
彼女は意外と乙女チックなところがある。
彼女いわく、“王子様”と結ばれることに憧れるのも、それを夢想して幸せな気持ちになるのも女性に与えられた楽しみの一つなのだそうだ。
かといってステラにそんな理想を押し付ける気はなく、ディー自身の持てる伝手すべてを使ってステラを守っていることも知っている。
ディーの言う『王子様への憧れ』は、ただ物語としてそういうものが好きだというだけの話で、現実ステラに当てはめて語られることはない。
今や大商家となったジャレット家と縁をつなぎたい者は多くいる。
新進気鋭の音楽家を引き込みたい者もまた。
その者たちにとって、一人娘であるステラはちょうど良い取っ掛かりなのだ。
ディーとしては、ステラになるべく多くの選択肢を持たせておいてやりたいと、それだけなのだろう。
正直考えたくはないが、将来、遠い将来、遠い遠い将来、ステラが相手を望んだ時に、それがどんな相手だろうと選べるようにしてやりたいと、それだけなのだろう。
それをディーがどれだけ意識してやっているのかは、僕にも測れない。
天才肌の彼女はもしかしたら、無意識に周囲にそうさせているのかもしれないのだから。
今日、孤児院で第二王子のデイヴィス様と鉢合わせるのは、織り込み済みの出来事だった。
鎮花祭の頃、国からの調査に不躾な対応をしてしまった部分もあったため、誠意を示した形だ。
政治の中心である貴族院からそれとなくの要請ではあり、本来であれば第二王子デイヴィス様にステラを一目お目通しするだけの予定だった。
てっきり、ステラに興味を持たれている宰相殿のご推薦かと思っていたのだが、まさかディーが用意した選択肢の一つだったとは。
ステラを見つけて駆け寄る殿下を見てどれだけ驚いたことか、あの場で動揺を表に出さなかった自分を褒めてやりたい。
デイヴィス様のステラへのご興味は本物で、ステラもさすがというべきか、すぐに馴染んでしまったために状況を見守ったが、さすがに肝が冷えた。
デイヴィス様の置かれたお立場でステラを望まれることが、現状なんらおかしくないことであると気付いてからは殊更に生きた心地がしなかった。
デイヴィス様とステラは見る間に仲良くなっていくし、元々ステラに関心を持たれていたらしいデイヴィス様はもちろん、ステラも彼を悪く思っていないのは見ていて分かった。
王子で、親しみやすく、人柄も良い上に立場上のしがらみもない。
たった九歳であられるのに博識で落ち着いており、その上その外見まで一級品である殿下は、まさにディーがいうところの“王子様”だろう。
あの場で結婚を申し込まれている娘を見て、九歳と五歳の子どもの戯れだというのに、ムキになってしまった自分は悪くないと思う。
そして、フットマンの少年を出しに使ってでも乗り越えた僕はよくやった。
孤児院前、見送りの最後に啖呵を切ったステラに、声をなくして立ち尽くすデイヴィス様にはさすがに罪悪感も湧いたが。
まるで子犬のように庇護欲を掻き立てられる姿はやはり十にも満たない子どもなのだと思い知らされた。
そして思い出す。
一度は意気消沈してらしたデイヴィス様だったが、そんな彼は従者のアヤド殿に一言なにか声をかけられると一つ頷き、すっと顔を上げた。
その時にはもう碧の瞳には輝きが戻っており、チャーリーと抱きしめ合うステラへ視線を送られたあと、僕へとまっすぐその瞳を向けた。
その様子には落胆や諦めのような負の感情はなく、冷静に今のステラの判断が受け入れられたのだと分かり、内心、感心してしまったものだ。
何の反論もされず、ステラの判断を粛々と受け入れ身を引かれてしまっては、こちらとしてもその誠意に頭が下がる思いだ。
目礼だけで済ませて自身で馬車へと乗り込まれた殿下は、穏やかな所作の中にも、どこか風格や威厳を感じさせるような強さをも纏っていて、これが王族かと、改めて相手の大きさを感じてしまった。
まあ、ステラはそんな一連の彼の動向に回す気持ちの余裕は、本当になかったようだったが。
王族である彼とただの商家の娘であるステラが今後出会う場面はそうそう訪れないだろうとは思いつつ、だからこそ相手が本気であった場合、積極的に動き出したらどうするべきかと思い巡らす。
僕とデイヴィス様との取り決めでは、デイヴィス様はステラをその気にすれば良いだけなのだから。
僕たちはすべてをステラに任せるべきなのか、それとも。
だから、そのことについて、妻であり家を盛り立てるパートナーであるディーにも相談して我が家としての方針を確認せねばならない。
そう、その話をしなければならないのだ。
ならないの、だが。
「それで」
ディーの、改めるようなその声に、意識は急激に屋敷のテラスへと引き戻された。
僕は口に紅茶を運んだ姿勢のままで、不自然に動きを止めた。
そんな僕に構わず、彼女はじっと、強い眼差しをこちらへ向けている。
「私には言えないこと?」
くぅ、と、のどの奥がおかしな音を鳴らした。
誤魔化すように紅茶を口に含んで飲み下す。
ディーに対し、デイヴィス様についての相談をする前に伝えなければならないことがある。
言っても言わなくても良いのかもしれないが、言わねば僕が、どうにもなりそうもない。
今こうして言いあぐねている内容は、先ほどからディーを直視できないその理由は、決して彼女に対して後ろめたい内容ではない。
そう、問題はないはずなのだが。
先ほど、今日の出来事のうちあえて伝えなかった内容が、その場面が、脳裏にフラッシュバックした。
収まっていたはずの熱が、また耳を熱くする。
そのまま頬まで熱が広がるのを、抑えることができない。
それを気取られないよう、ディーから顔を隠すようにティーカップを再び持ち上げた。
言えばいいのに、言えやしない。
それどころか、彼女の視線を遮るように、小さなカップに身を隠すように小さくなってしまいそうだ。
彼女の猫のような瞳は、僕を探るように見て、それから面白くなさそうに細められた。
ここで僕が何も言わなくとも、彼女はそれで僕を責めることはないだろう。
彼女と僕は、ビジネスパートナーの延長で結ばれた仲だ。
必要なことはその都度伝えるし、そうでないことは伝えずとも良いのだ。
そう、結婚したばかりの頃は、間違いなく割り切っていたはずだったのに。
ぎゅっと目をつぶり、カップをそっとソーサーに戻した僕は、ここが正念場と腹をくくった。
心の中で「よし」と己を鼓舞し、瞼を開くとしっかりとした視線を彼女へと向けた。
意を決した僕に、ディーは目をぱちりと開く。
その顔は本当にステラにそっくりだ。
思わず、笑みがこぼれた。
「ディー、僕は──」





