40.月の王子デイヴィスの場合(デイヴィス視点)
「ステラ、僕と結婚しないか?」
それは、紛れもない僕の本心で、忖度なく出た本音で、真実心の底からの望みだった。
気まぐれのように放ったそれに優秀な従者たちはおののいたようだったが、それもまた小気味よくて、僕の心は晴れやかだった。
* * *
「坊、目的地のある区画へ入りましたよ」
すっかり聞き慣れた従者の声にハッとした。
移動の馬車の中、窓の外を見ていたつもりがいつの間にかうたた寝をしていたらしい。
何か、夢を見ていたような気がする。
学生服を着た自分と少女の姿がまだぼんやりと意識の端に残っている。
学園への入学はまだ数年先だというのに、気が早い夢だ。
さて、と。
移動中とはいえ、少し気が抜けていたようだと気を引き締め直して顔を上げた。
「起こしてもらって助かった。支度を頼む」
「そんな焦らんでも、まだ到着まで余裕ありますけどね」
応えた僕の言葉に、従者はのんびりと答えた。
主従であるはずだが、この従者は気安い。
従者の名前はアヤド。
僕の教育係でもある男だ。
アヤドが僕の教育係として侍るようになったのは、ここ半年ほどのこと。
兄を次期王として支持し、臣籍降下をする意志をはっきりと明言した際に、僕が両親に強請って外国語に堪能な教師を手配してもらったのがきっかけだった。
兄の助けになるのなら、通訳を通さず、国外の重要人物とも直接話ができたほうがいい。
そう思って授業に加えてもらおうと思っただけのことだったのだが、両親である王と王妃は僕が頼みごとをするなど思ってもみなかったらしい。
驚き、舞い上がったらしい両親は必要以上にあちこちに働きかけ、結局他国で翻訳機関の要職に就いていたアヤドに白羽の矢が立った。
息子のわがまま一つに、まったく、どこまで手を伸ばしたのやらと苦笑が漏れる。
アヤドは周辺諸国で用いられる全ての言語に堪能で、王族の従者として即断取り立てても通用するような優秀な人物だった。
しかし普通と違ったのは、その人柄だ。
他国の血が混じっているせいか、王子である僕に対しても物怖じせず、かしこまった場でない限りは率直で気さくな態度をとる。
周囲にいないタイプだったために、初めは衝撃も受けた。
しかし慣れてしまえば話しやすく、いつだって公平なその態度にも好感が持てた。
常時かしこまった人物が侍ることに比べれば、アヤドのような接しやすい人物が自分付きになったことは幸運だったとすら思う。
「今日はまた、なんでこの孤児院に?」
「貴族院の采配だ。最近の保護児童が増えたことに対して、現場を視察してこいとのことだ」
「坊がわざわざ出向くことですかね」
「児童の保護は貴族が主動したものではなかったからな。民へのアピールのためにも必要なパフォーマンスだろう」
「よう分かってはりますやんか」
「……また試したな」
アヤドは優秀だ。
自分に事情を尋ねる体をして、その実、こうして僕の理解を確認していたなんてこともよくある。
教師らしくないくせに、やはり教師なのだ。
じとっとアヤドを見ている間にも、馬車は孤児院に到着したようだった。
結局、到着してから支度を整え、馬車を降りる。
出迎えた関係者に案内され、救護院内にある孤児院へと向かった。
親のいない児童を預かる施設にはすでに何度か足を運んでいる。
教会を改築したというこの孤児院は初めてだったが、気負うものはなかった。
しかしそこには、思わぬ人物がいた。
「坊?」
一点を見て固まった僕に、アヤドが不思議そうに呼びかける。
しかし、それに返す余裕はなかった。
ずっと、会いたいと思っていた。
あの発表会の日、一度すれ違っただけの彼女。
ピアノの名手であり、あれ以降も着々と活躍の場を広げているディジョネッタ・ジャレット夫人の愛娘であり、彼女の演奏活動の源泉とも言われる少女だ。
気づけば、はしたなくも、駆け寄るようにして彼女の元へ向かっていた。
ドキドキと、鼓動が速くなる。
高揚のまま、弾ませた声で尋ねれば、僕よりずっと弾んだ声が返ってきた。
「ステラ・ジャレット嬢だよね。僕のことを覚えているだろうか」
「ピアノの発表会の子! バード様のお子さんの!」
「当たり」
それが嬉しくて、僕も明るい声で応える。
アヤドの手前、つい頬が緩んでしまいそうになるのを引き締めた。
ステラ。
彼女と、ずっと会いたかった。
会って話がしたかった。
ジャレット商会主催のあのピアノの発表会の日、僕の生き方は大きく変わった。
芸術が、音楽が、人の心を震わせることを知った。
僕には想像もつかない才能を持って生まれた少女の存在も、そのときに知った。
人伝に聞くばかりの彼女は賢く、才能豊かな才女で、気になった僕はあの日から彼女やジャレット家の人々の情報は進んで手に入れるようにしていた。
当主のゲイリー・ジャレット氏は今代随一といわれる経営手腕もさることながら、その交友関係も広く、騎士団幹部や国民からの支持の厚い騎士団長フリューゲル・ミラー氏と家族ぐるみの付き合いがあること。
ステラの才能にいち早く目をつけた宰相のニール・レッグウィーク氏が子息のルイと彼女を引き合わせ、以降も親交があること。
ディジョネッタ夫人には大小問わず貴族家に繋がりのあるパトロンが多くいること。
あれ以降、彼女の演奏会に参加することは叶わなかったが、新譜が発売されると聞けばすぐさま取り寄せ、その発売記念パーティーにはバード家の名前を使いその子息として、感想を綴った分厚い祝い状すら送りもした。
夫人の音楽性は他の優れた音楽家たちから研究され、今やニュー・トレンドやコンテンポラリーといった表現の元、普遍的な現代音楽として一時代を築きつつある。
それが自分事のように誇らしくて、すっかり僕もディジョネッタ夫人のファンになってしまったな、なんて思考を飛ばしていると、横についていたアヤドにこっそりつつかれてしまった。
せっかく、ステラに時間をもらって案内をしてもらえることになったのに、気もそぞろでは失礼だし、先ほど彼女との時間を譲ってくれた孤児院の少女にも悪いだろう。
僕に視線でも注意を示したアヤドは、僕の表情を見て満足したように一度うなずいた。
僕付きであるアヤドは、僕がジャレット家の面々に興味津々だったのを知っている。
退屈な視察に降って湧いた僕とステラの再会を面白がっている節もあるが、アヤドはやはりお目付け役なのだ。
孤児院の案内を申し出てくれたステラは先導するように前を歩いてくれている。
ステラと話そうと思い、その前にと後ろを振り返った。
そこには、一人の少年。
少年と青年のはざまの年齢である彼は、護衛騎士や成人貴族に囲まれて生活する僕からしたらずいぶん華奢に見えた。
整えてやりさえすれば美しい女性にも見えてしまいそうな中性的な容貌は、同性の僕から見ても美しい。
年齢よりも落ち着いた雰囲気を持ち、凛として大人びた空気を纏う彼は、なるほど良家できちんとした教育を受けた一流の使用人なのだろうと思わせる迫力のようなものがある。
突然振り返ってみせた僕に、緊張したように体を強張らせたのも一瞬のこと。
すぐに平常の余裕ある空気を取り戻し、自然な姿勢で居ずまいを正した。
彼は、以前ステラとすれ違った際にも彼女の隣にただ一人侍っていた従者だ。
初対面の時から、僕が王族であることに気づいていたであろう彼。
以前はずいぶん取り乱していたのだから、この一年ほどの期間で従者として成長したようだ。
「君はステラの付き人かい?」
ステラと最も近い場所にいる彼のことにも興味が出た僕は、彼に話しかけた。
視線で笑んでみせてから、まるで試すようなことをしてしまったと申し訳なく思った。
しかし彼、チャーリーは、すでに動揺をしまっており、泰然として見せ、胸のあたりに手を当て綺麗にお辞儀をして挨拶して見せる。
武術の心得もあるのか、その姿勢は一本芯が通ったように綺麗で、礼のために立ち止まった彼に合わせるように、思わず足を止めてしまった。
貴族の挨拶でさえ見慣れた僕は一瞬、見とれてしまったのだろう。
そんな僕を現実に引き戻したのは、場の空気を軽くするようないつもの声。
「ご挨拶いただくなら、立ち止まってにしやんとあきませんよ」
呆れた顔をしたアヤドはわざとらしく僕を責めてみせた。
それはまるでチャーリーを庇っているかのようで、僕がいじめようとしたみたいじゃないかとわざとらしく睨んでやった。
僕がアヤドに手を振って見せ、キョトンとしていたステラが再び歩き出すまで、美しい少年はその間も手本のような綺麗な姿勢のままで礼を続けていた。
ジャレット家は、使用人でさえも期待を裏切らない。
僕はそれがまた嬉しかった。
……………………
…………
……
ステラの噂や情報は人伝に聞いていた。
『賢い少女』だとか『才能豊かな才女』だと言っていたのは誰だったか。
それも、確かに彼女の一面ではあるのだろう。
僕を月と称したらしい彼女は、実際に言葉を交わした父王によれば、貴族令嬢と比べても遜色ない理知的で品のある子どもだったという。
今日実際に会話をした彼女も、最初は貴族への敬意を表すように整った口調と態度をとってくれていた。
けれど、くだけた態度を許した僕にニパッと嬉しそうに笑って見せた彼女は年相応で。
それどころか、孤児院を案内してもらううちに見えてきたステラの本質は、とにかく無邪気で明るい、愛らしい子だということだった。
「デイヴィス! 見て!」
僕を呼ぶ声には、これ以上詰め込めないほどの“楽しい”が詰まっている。
こんなにまっすぐ親しみを向けられるとくすぐったく感じるものなのだなと、フワフワするような、不思議な感覚を味わっていた。
(彼女は、“太陽”というより“おひさま”だな。もしくは、“おほしさま”?)
内心で、思いついた言葉を遊ばせる。
ステラは兄のように溌溂としていて、内から湧き出し周囲を巻き込むようなエネルギーを感じるのに、兄を太陽と評するのとは違って、ステラにはもっと可愛らしい言葉が似合うと思った。
かわいい子だな。
微笑ましいような、可愛がりたいような、むずむずするような気持ちが胸に灯った。
今まで、誰にも向けたことがないような、ふわりと柔らかい感情だった。
だから、だろうか。
あんなことを思ってしまったのは。
(ずっと共に生きるなら、この子とがいいな)
最近、父王と僕の婚約者をどうするかと話したばかりだったせいもあるだろう。
思って、深く考えず伝えてしまったのは、僕が子どもだからだ。
ステラなら、きっと喜んでくれると思った。
それに、後悔だってしていない。
『嬉しい!』
そう言って、ピョンピョンと飛び跳ねるステラの姿が、簡単に想像できた。
キラキラと、目を細めてしまうような眩しい笑顔が返ってくると信じて疑わなかった。
彼女をもっと喜ばせてやりたい。
そう、簡単に思った。
「ステラ、僕と結婚しないか?」
言って、それから、それが本当にいい選択肢だと思った。
もちろん、言ってから考えたことは結論ありきの理由付けのようではあり、結局は僕がステラがいいとそう思っただけにすぎない。
けれど、考えれば考えるほど、僕とステラが婚約するのはいい考えだと思えるのだ。
僕は九歳。ステラは五歳。
婚約者として好ましい年齢差だろう。
僕は現在王族であるが、いずれは臣籍降下することが決まっている。
次期王であり四つ年上の兄はすでに友好国とも縁のある侯爵家と婚約を結んでおり、関係も良好、それだけで既に勢力のバランスは取れているのだと聞き及んでいる。
父王などは先日、「権力の大きい家の娘でなければいい」と、僕に相手を好きに選べなどと身も蓋もないことを言ってきたほどだが、現実問題として真実そうして構わないのだろう。
以前の僕であったなら、父から期待されていないからだとか、軽んじられているのだと卑屈に捉えて落ち込んだかもしれないが、今となっては僕を甘やかす意図もあるのだと分かってしまうのだから我ながら現金なものだ。
その点、ステラであれば貴族ではないため勢力図に影響はなく、かといってジャレット家の国への貢献を考えれば、民からも貴族からも十分に支持されるだけの基盤を持っているといえる。
掛け値なく、ちょうどいい落としどころではないだろうかと考えるほどに思う。
調査の限り、周囲から彼女やジャレット家への評価は高いし、今日共に過ごしてみて知ったステラの人となりは本当に好ましい。
彼女と過ごす時間は心地よくて楽しいと、知ってしまった。
僕は、半日にも満たない短い時間ですっかり虜になってしまった、ステラという女の子を思い浮かべる。
“もちろんです! ステラとお呼びください”
五歳という幼さでありながら、目上の者にも物おじせず堂々と振舞えるステラは、さすがというべきか、貴族の令嬢と比べても遜色のない教養が見て取れる。
“ほんとう? ふふ”
くだけた態度でいいと僕が言うと、一瞬だけ確認するように父親を振り返り、それから嬉しそうに、いたずらっぽく笑って見せたステラ。
“とっても仲良しなの! ね、チャーリー!”
“そうですね、ステラお嬢様”
使用人との関係も良好で、慕われているのがよくわかる。
一切の躊躇なく、間髪入れずに満面の笑顔で返していた使用人チャーリーの勢いはなかなかだったと、小さく苦笑が漏れる。
それから、どう見ても手入れのされていないピアノを弾いたのだと誇らしそうに話す彼女は子どもらしく楽しそうで、そうして思い出したように椅子の乗り方を教えてくれとすごい勢いでせっついてきたのには驚いた。
まさかこの僕に、他でもない運動の教師をしてほしいなどという者がいるとは思わず、驚き、そしてかつてないほど大きな声で笑ってしまった。
ステラの行動はいちいち新鮮で、愉快で、彼女と過ごす時間はとても楽しい。
今日まで、彼女の音楽の素養だけに着目していた自分が馬鹿だと思った。
いざ本題であった歌を歌ってもらえば、やはり聴いたこともない独創的な曲で、幼い女の子特有の高くどこまでも澄んだ歌声が耳を心地よくくすぐった。
聴いたことのない言語で紡がれる歌詞は、まるで曲と揃いで誂えられたようで。
海の歌だというそれは、歌そのものが染み込むように心まで届いて僕の心臓を震わせた。
期待以上だ。
孤児院の子らもみなが手を止め、目を向けて、時が止まったように彼女の歌に聴き入っていた。
中には、ステラが歌い終わると同時に彼女に走り寄り、感極まって泣いてしまう子もいたほどだ。
そうしたくなる気持ちもわかる、と号泣する少女を見守った。
その子は、僕が孤児院へ着いたときステラと共にいた女の子だったはずだ。
彼女は随分ステラに心を寄せ、親しんだようだ。
大商家の娘であるステラと孤児の少女とでは互いに敬遠してしまいそうなものだが、さすがステラというべきか、彼女にそんなことは関係ないらしい。
ステラを婚約者として望みたい。
気持ちの上でも、立場を考えても。
ステラ以上の適任などいるだろうか。
なにより。
“娘が音楽を好みまして、とても独創性に富んでいるのです。彼女と共にピアノを弾くと、いくらでも新しいアイデアが浮かびますの”
見惚れるほどに美しい、高嶺の花。
記憶に鮮烈に焼き付いたあの女性は、赤く塗られた唇を美しく緩めて言った。
その目には、彼女のもつ蠱惑的な魅力とは相反するような、宝物を目にした幼子のような輝きさえ湛えられていた。
“いつか、ステラの歌を聴かれる機会がございましたら、きっと今感じてらっしゃる以上の感動を感じられると、断言しておきます”
やはり、彼女の言っていたとおりだった。
それが嬉しい。
いつだって鮮烈に思い出せる、僕の世界が変わった日、あの日あの時のピアノ。
美貌の女傑。
手を伸ばそうとも自由にはならない、気高い薔薇のような女性。
権力を振ってしまえばたちまちその才能を手折ってしまうだろうために、彼女に心酔する権力者たちはそれを恐れ、皆が互いにけん制し合っているのだという。
不可侵の音楽家、ディジョネッタ・ジャレットは、他ならぬステラの母なのだ。
そんな彼女にだって近づける、最良の一手。
緩んでしまう口元をそのまま笑みにして、ステラの返事を待つ。
僕からの突然の求婚に驚き目をまん丸にしたステラはやっぱりかわいい。
花開くようにその顔を輝かせる瞬間が来るだろうことを予想して、決してその時を見逃さないよう、楽しみに。
+ + +
「聞いておられますか、王子殿下。……いえ、今はバード家のご令息でらっしゃいましたか?」
「人の目も無いし構わない。それに聞いているとも。もちろん」
どうしてこうなったのか。
いや、分かっているが。
僕の隣に立つべきアヤドは、今はなぜかゲイリー殿に侍るように僕とは向かい側、彼のやや後方に立っている。
ツーンとすました顔でそこにいる奴は、自分は悪くない、悪いのは僕だと主張したいようだ。
不義者め。
一瞬不貞を責めるようなジトっとした視線を向けるも、それを意に介さず素知らぬ顔をする奴は図太い。
僕はといえば、求婚の現場をステラの父ゲイリー殿に見つかってしまい、いたずらした子どものように引っ立てられるように連行されて来ていた。
ゲイリー殿から上流階級の求婚について、遠慮がちながらもとくとくと説かれている最中、思わず美しきピアニストの姿へ思考を割いてしまっていた僕は、ゲイリー殿からじとりとした視線を向けられ慌てて取り繕う。
ディジョネッタ夫人の演奏を思い出しているとだらしない顔になるからすぐに分かるとは、普段このように僕を叱ることの多いアヤドの談だ。
気をつけねば。
商会をまとめる長としては若輩と言われても仕方のない年齢のゲイリー殿だが、精悍で品のいい見た目や雰囲気も、身に着けたセンスの良い服や飾りも、そのどれもが付け入る隙のない一流の人物であることを伝えてくる。
孤児院への訪問にすぎないはずなのに、わざわざ商会長である彼自ら身なりを整え出向いているのは、きっと僕の訪問を知っていてのことだったのだろう。
ジャレット家の人脈は広い。
もしかすると、今日僕の予定に孤児院への視察をねじ込んだ貴族院にも伝手があるのかもしれないと、ジャレット家についての評価を上方修正する。
目の前のゲイリー殿は、気もそぞろだった僕に対して無礼にはならない程度に怪しむような視線を向けたが、やがて諦めたように息をついた。
「私のような市井の者へお時間をくださり、こうして言葉に耳を傾けてくださるのは殿下の美徳でらっしゃいます」
そう言ってから、ゲイリー殿は話を続ける。
「聡明な殿下であれば、親のいない場で五歳の娘に言質を取ろうとしたと見られかねない行いだったと、分かってらっしゃるのではありませんか」
「ああ、気をもませたな。しかし、あれはただの私の望みだ」
どう反応されるだろうかと思いながら、悪びれもせずはっきり言って見せると、ゲイリー殿は分かりやすく困った顔をする。
彼のやや後方にいるアヤドが『ハアァ?』と顔に書いてありそうな、王族に決して向けてはいけない、あざけるような顔で僕の正気を問うていたので、見ないふりをした。
「……これは、殿下に物申せる方にもご報告したほうが良さそうだ」
「ほう、そんな人物にまで伝手があるのか」
やり取りが面白くなってきた僕は一歩踏み込むが、ゲイリー殿には含みのある笑顔でかわされてしまった。
こうなってくると、僕は目の前、大規模な商店をまとめる一流の経営者に一泡吹かせたくなってしまう。
ステラと僕が婚約すればゲイリー殿に利こそあれ、反対する理由などあるとは思えなかった。
それでも、噂になるほど有能な彼に僕の有用性を認めさせたいような、心からステラの相手として望まれたいような、そんな気持ちがむくむくと大きくなる。
小さく笑みを浮かべ、口を開く。
僕のそんな顔を見て『ゲッ』とでも言いたげに嫌そうな顔をしたアヤドに、表情だけで雄弁なやつだと思いつつも無視を決め込む。
「ディジョネッタ夫人の新譜を拝見したよ。今回も素晴らしかった」
「妻の、ですか?」
思いがけない切り口だったのだろう。
ゲイリー殿の虚を突かれたような顔が見れて、少し満足する。
気を良くした僕は続ける。
「ああ。僕もピアノや音楽については一家言ある性質でね。僕みたいなのが身近にいれば、夫人としてもその分野を語る相手がいて楽しいのではないかな、なんて」
「……」
ゲイリー殿がすぐに返さないのは初めてだ。
彼に音楽的素養がないことは知っている。
彼は夫人の活動への支援を惜しまないが、それは商会にとっても名を売るチャンスであるからだろう。
「嫌なドヤ顔してはるわ」
「聞こえているぞ」
アヤドがぼそっと言った言葉に「ぐっ」と怯むが、勝気に言い返す。
こいつはわざわざ僕に嫌味が聞こえるように言っている。
そのとき、そんなアヤドの呟きよりも小さな声が僕に届いた。
「……です」
「ん?」
聞き取れず、聞き直す。
「ディーは、私の、です」
「ん??」
聞き間違いかと思った。
見れば、ディジョネッタ夫人の話が出たときからやや下がり始めていたゲイリー殿の視線が、今は顔を俯かせているといっていいほどに下がりきっている。
その耳は、気のせいか赤い。
「ディーは、ディジョネッタは、私の妻です、ので……」
「あ、ああ。そうだな」
これは、まさか。
ゲイリー殿は、顔を俯かせたままでは僕に失礼だと思ったのか、ぐぐっと無理やりのように顔を上げたが、先ほどまで耳だけだった赤みは、今や顔全体に及んでいる。
いや、首まで真っ赤だ。
つられるように、僕まで顔が熱くなる。
まさか。
「王子殿下といえど、私の妻は、渡しません!」
「ブフッ」
吹き出した。
僕ではない、アヤドだ。
僕は、間一髪耐えきった。
「アヤド、こら、失礼だろ。……ふふ」
「坊こそ、わろてますやんか! フッフフ、あかん、この人おもろい」
「やめろ、アヤド、ふふ、僕まで、つられる、ふふふ」
「で、殿下? アヤド殿?」
「すんません、ちょい待って、ほんまにあかん、僕ゲイリーさんのことめっちゃ好きかも」
「はあ、それはどうも」
突然笑い始めたアヤドと僕に、ゲイリー殿はふいを突かれたようにキョトンとした。
なおもケラケラと笑うアヤドを困惑して見るゲイリー殿のその表情は、やはりステラと親子なだけあってそっくりだ。
つられて笑いの止まらない僕も、従者の非礼を詫びた。
僕が吹き出してしまう前に先陣を切ってくれたアヤドへの礼は、帰ってからすればいいだろう。
「うちの従者が、くく、すまない」
「これはもしや、私は怒るところなのでしょうか」
「ハハハ、馬鹿にしているわけでは、ないんだ。どうか気を悪くしないでくれ。僕も、あなたのそういうところはとてもいいと思う」
「はあ、それは、どうも……?」
ゲイリー殿の顔には『わからない』と書いてある。
僕は笑いすぎて涙が出てきた。
そうか、ゲイリー殿は子煩悩なだけではなく、愛妻家でもあるのだな。
まさか、夫人相手のヤキモチをやかれるとは思ってもいなかった。
娘と変わらない年齢である僕に対して大人げないなあとは思いつつ、敏腕すぎる商会長の人間みのある一面に、ひどく好感を持ってしまう。
見ていれば、ゲイリー殿も少しずつ冷静になってきたようで、再び、ほんのりと顔に朱を乗せ「九歳の殿下に対して、私は何を言っているのでしょう、いや面目ない、どうか忘れてください」と気まずそうに口にしては恥ずかしがっている。
その顔を見て、僕はこれまでも何度か思ったことを、再び思う。
ジャレット家は、本当に期待を裏切らない。
僕は、笑いすぎて目に溜まった涙を指で拭うと、笑い顔を隠さないまま言った。
「ますます、ジャレット家と繋がりを持ちたくなったよ」
面白がる僕を見て、ついに拗ねたようにむっとして見せたゲイリー殿は、思った以上に接しやすい人物のようだ。
ジャレット家について調査をさせ、報告を聞いて、僕は分かったような気になっていた。
実際会って、目にしなければ分からないことも多いのだと実感する。
そういえば、ステラが歌ってくれた海の歌。
僕は話に聞くばかりで分かった気になり、海には行ったことがない。
実際に行って、海辺の生活を目にすれば、僕はステラの歌の情景を真に感じることができるのだろうか。
ステラやゲイリー殿の知らなかった一面を見られたように、現地に赴いて初めて分かることも多いだろう。
これからは、両親にねだってもっと視察の公務を増やしてもらおうかなんて、考えていた。
それから、これだけは言っておかないと。
「ゲイリー殿」
「はい、なんでしょうか」
まだ少し落ち着かない様子のゲイリー殿は、僕と話し始めたときより纏う空気も柔らかくなった気がする。
それが受け入れられたようで嬉しく感じた。
「ステラは諦めませんよ」
「……正攻法で、求めてくださるなら、こちらもそれなりに。あくまで、ステラの意志は尊重していただきたいのですが」
「もちろんだ。思ったより良い返答をもらえて嬉しいよ」
ゲイリー殿の言い方は苦々しかったが、僕がそれを不敬だなどと言わないことは、今日のやり取りで分かってくれたのだろう、脱力したような気安さも含んでいた。
こちらもすっかりリラックスして職務中だということを忘れていそうなアヤドも、ゲイリー殿と僕のそんなやり取りを聞いて『あーあ』と、後悔しても知らないぞとでも言いたそうな顔をして見せている。
視線だけで背筋を伸ばせと注意すると、アヤドも分かっていたようですぐにすました顔で姿勢を正した。
見た目だけはいいのだから、普段からシャンと立てと言いたい。
それからゲイリー殿と一言二言交わし、僕たちはステラの元へ戻ることにしたのだった。
今度こそ、ステラの意志を確認するために。
氷の王子デイヴィスは諦め卑屈になっていく。
自信の付いた月の王子デイヴィスは諦めない。





