39.氷の王子デイヴィスの場合(乙女ゲーム版デイヴィス)
乙女ゲーム世界の場合
生徒会室へと向かう廊下。
次の行事に向け、今日も生徒会の打ち合わせがある。
放課後になってから時間は経っていても、友人と言葉を交わす生徒たちの姿はそこここにある。
彼らの興味は街の流行であったり、舞台の新作であったり、人間関係であったりと様々だ。
「見て! あそこ! ほら、デイヴィス様がいらっしゃるわ!」
そんな中、女子生徒が私の姿を見つけたらしく、抑えたものながらもキャーキャーと浮ついた声が届いた。
第二王子である僕、デイヴィス・ビ・バップは今年十七歳になった。
この学園の生徒会長でもある僕に対し、こうして騒ぎ立てる生徒は多い。
ファッションやニュースの流行りを追いかける彼らにとって、身近で特別な存在もそれらと変わらず好奇の対象だ。
騒ぐ生徒などいつも通りの光景だろうに、隣を歩いていた男が珍しく口を開いた。
「手でも振るか?」
「構うな」
視線を前に見据えたまま、表情も変えずに一言で応える。
嫌味を込めた軽口を言った男子生徒の名はルイ・レッグウィーク。
宰相子息である彼は、僕が生徒会長を務める生徒会の役員だ。
行動を共にすることの多い彼だが、普段は会話をすることもほとんどない。
互いに興味がないのだ。
僕も彼も、人付き合いなどほとんどしないし、興味もない。
彼は宰相である父親から、第二王子である僕の側近候補としての任を受けているらしく、学内ではそばにいることが多い。
しかし、側近になるつもりもないからと干渉らしいことはしてきたことがなかった。
彼は、将来は父親の跡は継がずに研究職をするつもりらしい。
いずれ宰相の職に付随する貴族籍も失うのだからと、社交にも王族にも興味を持っていない人物だ。
それは僕とて同じこと。
王位を継ぐことなどないだろう僕にとって、生徒のほとんどが貴族であるこの学園で交友関係を深めることも、民と過ごす学園での時間も、無駄なものとしか感じられなかった。
“冷徹王子”
自分が生徒たちからそう呼ばれていることは知っている。
さもありなん。
表情の変化はなく、淡々と生徒会業務を行う姿を見ていれば、そう呼びたくもなるだろう。
幼い頃から感情の起伏に乏しかった僕は、笑い方も怒り方もずっと昔に忘れてしまった。
民である生徒たちから冷え切った氷に例えられる僕は、為政者どころか、王家の血筋を持つ人間としてすら失格だ。
僕には一人、兄がいる。
第一王子のジョン・ビ・バップ。
血筋で王位を決めるとはいえ、わが国は長子継承制を敷いているわけではなく、王と貴族院による指名制だ。
とはいえ、長子が次期王位に就くことは、半ば暗黙の了解のようにして昔からあった。
今代も兄のジョンが王位を継承するだろうと言われて久しいが、今代に限っては、それはなにも慣習のためだけではない。
兄のジョンは、嫌味なほどに優秀な男だ。
僕より四つ年上のジョンは学問にも武道にも一流以上の才能を持ち、努力を怠らず、人格にも優れている。
幼いころからそれは変わらず、兄が次期王となることは、僕が物心つくより先に決定事項としてそこにあった。
第二王子である僕は、物心ついたときよりずっと兄の背中を追っていた。
職務で忙しい父や母に比べ、家族として僕と過ごす時間のあった兄は、僕に最も近く、そして僕から一番遠い存在だった。
「兄のようにはなれない」
口の中、ぽつりと零した言葉は、隣を歩くルイ・レッグウィークにも届かない。
兄のジョンを追い、同じようになりたいと努力するうち、僕は己の限界をすぐ知ることになった。
僕が兄に優る部分などひとつもない。
王家に生まれたものとして、次期王としての教育を兄と同じように受けたにも関わらず、そのどれもで僕は兄との差を思い知らされた。
優秀な兄が、いつでも目の前に高い壁のようにして立ちはだかる。
僕は人並み以上に勉強ができた。
僕は人並み以上に運動ができた。
だとして、それがなんだというのだろうか。
兄はそんな僕の何倍も優秀で、持って生まれた才能以上に、研鑽を欠かさない人物だった。
兄との差は年を重ねるごとに開いていくようだった。
年齢すら四つも劣る僕が何をしたところで、次期王として、兄を超えることなどできるはずがなかった。
そうして僕が選んだのは、諦めることだった。
学園へ通うころには欠片の向上心すら持つことを諦めていた僕は、ほとんどの感情を封じ込めるようになっていた。
王族であるため生徒会役員になり、最終学年になって生徒会長に就いたものの、それすら惰性の結果でしかない。
学内だけのことですら、僕と入れ替わるように卒業していった兄の業績と比べられた。
兄のいないはずの学園内にいても、兄の壁は相変わらずすぐそこで僕の行く手を阻み続けた。
帝王学や経済学など、王位を継ぐ兄がするべき学問を必要以上学ぶ気にはなれず、天文学や哲学、芸術にばかり傾倒し始めて、もう久しい。
王家に生まれながら、為政者として生きることを諦めた僕。
家臣からも父王からも見放された僕に、期待する者はもういない。
「君も、僕なんかじゃなく兄の側近になりたかっただろう」
ルイ・レッグウィークに向かって、ついそう口にしてから、いらぬ発言だったと思う。
「辛気臭い男だ。馬鹿馬鹿しい」
ルイ・レッグウィークは心底嫌そうに顔を歪め、一言だけ吐いて身を翻す。
それを無感情に見ている間にも、彼は歩き去っていく。
向かう方向からして研究棟だろう。
彼が師と仰ぐベルニクス先生の部屋へ向かったのだろうと、簡単に想像がついた。
確かに馬鹿馬鹿しい話をしたと思いつつ、それすらすぐにどうでもよく思う。
彼だって、僕が宰相に告げ口するわけでもないのだから、言いつけを守ってそばに侍る必要などないのだ。
友人と呼べる者もおらず、外見と肩書だけを持て囃される日々。
ここの生徒も、教師も、父母も、兄も、そして己自身ですら僕に期待などしない。
唯一、例外といえば。
「おはようございます、バップ先輩!」
たった今、僕の姿を見つけて駆け寄ってきた、この女子生徒くらいだ。
生徒会室に向かっていた足が止まる。
「……もう放課後だが」
相変わらず表情もなく言葉少なに答えるも、女子生徒はそんな僕には構わず笑顔を向けてくる。
「それもそうですね。でも、今日バップ先輩にお会いしたのは初めてですから、わが家のルールでは“おはよう”で合ってるんです!」
「……」
彼女は僕の二つ下、第一学年の生徒、ミシェル・ペトルチア嬢だ。
珍しいピンク髪と、それに似合う容姿を持つ少女とは些細なきっかけから話すようになった。
彼女は他と違い、僕をただの一生徒として扱う。
『今日は会えないと思っていた』
思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込む。
何をおかしなことを言おうとしているのかと、自分でも不思議に思う。
これではまるで、今日一日彼女に会わなかったことを気にしていたようではないか。
彼女と話している間は、まるで、自分が何の責務も負っていない、ただ一人の民のような不思議な心地になる。
「バップ先輩、今日はピアノは弾かれないんですか?」
「これから会議だ」
「なんだ。ちぇー」
彼女と初めて言葉を交わしたのは音楽室でのこと。
息抜きにピアノを弾いていた僕を、第二王子とは知らず、彼女から声をかけてきたのが出会いだった。
それ以来、彼女は僕のピアノを気に入ったようで、会うたびこうして強請ってくる。
無邪気に、飾らず、まっすぐに。
そんなことを思い返していると、ミシェル嬢が不思議そうに僕の顔を覗き込んでいることに気がついた。
「バップ先輩の笑顔、初めて見ました」
「……気のせいだろう」
笑顔?
僕が?
笑むことなんて、忘れて久しい。
僕はまだ、笑うことができるのだろうか。
彼女の、前でなら──。
……………………
…………
……
それは偶然、通りがかった廊下で耳にした。
午前の公務を終えた僕は、空いた時間を利用して授業を受けるため、学園へやって来ていた。
この時間なら、次の授業開始に間に合うだろうと教室へと向かっている、その最中。
「そうか」
ぽつりと、無意識に、零すつもりのなかった言葉が口から出た。
周囲には、立ち止まった僕に話しかける機をうかがうように、遠巻きにこちらの様子を探っている生徒たちがいるが、それも今は気にならなかった。
最終学年である僕は、もう間もなく卒業を控えている。
生徒会からも引退し、後任にその席を譲った僕は卒業以降王族として職務につく準備のため、学園へ顔を出す時間も短くなっていた。
「あいつとミシェルが」
零す声は小さい。
言葉にする必要もないのに、口にしなければおかしくなってしまいそうだった。
体の中に勢い良く注ぎ込まれたような濁流に似た感情は、声に出してもなお消化しきれないほどの質量を持って僕の体を重くその場に縫い留める。
“ミシェルさん、ついにお付き合いを始められたそうよ”
“まあ! あの方とですの!? 生意気だこと!”
“あら、あなただって以前ミシェルさんのこと、見どころがあるって言ってらしたじゃない”
“そ、それはっ!”
先ほど聞こえてきた女子生徒の会話は、換気のために開けられた窓、その向こうから聞こえてきたものだ。
普段は気にも留めない、そんな会話を鮮明に拾ってしまったのは、どうしてだったのか。
教室の移動中だったらしい彼女たちは、キャーキャーと言葉を交わしながらも、雨でも降りだしそうな空を気にして駆けるような足取りで別棟へと向かっていった。
その会話の声を聞いた僕は、言いようのない苦しさに、足を止めたまま動けない。
ミシェル・ペトルチア嬢。
彼女のまっすぐさに、無邪気さに、救われていた。
彼女と会えた日は、気持ちが軽くなった。
普段僕を蝕む卑屈な感情も、重荷でしかない立場や重責も、彼女といる間は忘れていられた。
その気持ちがやがて、粘度を持つような執着に変わるまで、時間はかからなかった。
彼女と出会い、一年ほどが経った今、この感情の正体がなんなのか、僕にだってわかっている。
無理強いはしたくない。
権力者の傲慢であるそれを、まるで言い訳のように唱え続けた。
窓の外、暗い空には厚い雲がかかり、日を遮っている。
湿気をはらんだ風は、穏やかになりかけていた気候を氷の季節に引き戻すように冷たく吹き込む。
遠くでゴゴ、と大気を揺らす音がした。
僕の心に、彼女を知る前のような、いや、それよりももっと重たく濁った感情が渦巻く。
彼女の交際を知って、すぐに一人の男の顔が浮かんだ。
そう、知っていた。
彼女の姿を見かけ視線で追えば、それなりの頻度で一緒に過ごしている姿を見かけていた。
最近では、それももっと顕著で。
笑いかける彼女と、そんな彼女へ特別な感情を乗せた瞳で視線を返す男。
彼女の相手は、きっとあいつだ。
「ッ」
口元にピリッとした痛みを感じてハッとする。
気づかず噛みしめていた歯が唇を傷つけたらしい。
思わず舌打ちをしかけて思いとどまる。
結局、自分は王族であるという立場からは逃れられない。
周囲の視線がある場所で、取り乱すような真似はできないのだ。
内心が、どれほど荒れ狂っていようとも。
挫折ばかりの人生だ。
そう自嘲すると、止めていた足を進め歩き出した。
あの場に留まっていれば、いらぬ関心を寄せられ、わずらわしい思いをするだけだ。
普段よりも早い歩調は、城の教育係が見れば血相を変えて注意を飛ばすだろう、優美さの欠片もないものだ。
どこへ向かっていたのかも忘れ、ただ思うまま、人のいないほう人のいないほうへと歩を進める。
物心ついたときには、兄に勝てない人生が決まっていた。
何をしても無駄だった。
そして今、好きになった女一人すら自由にならない。
父王も、母も、彼らの側近も、不甲斐ない僕のことなどとうに見捨ててしまった。
民が王族へ向ける関心も敬意もいずれはすべて兄のもの。
貴族たちが仕える主として忠誠を捧げるのも兄。
兄。兄。兄。
誰にも顧みられることのない僕は、どこまで行っても兄の劣化版でしかなく、子を愛すはずの両親にすら見放されたくだらない人間だ。
誰にも愛されない僕には、愛を乞う資格すらなかったというのに、何を期待していたのだろうか。
彼女の声が、笑顔が一瞬頭を掠める。
それを振り払うように頭を振るが、気持ちは晴れるどころか一層霧がかったようにどんよりと、湿度を増して蝕んだ。
知っていた。
気づいていた。
僕自身は何もせず、与えられるのを待っているだけの腰抜けだ。
そんな僕が愛されることなどなかった。
だからといって、変わることも、怖かった。
ずっと、押してもらえない背をミシェル嬢に向けたまま、黙って立っていただけのことだ。
相手の好意に甘え、頼りもせず、行動も起こさず、ただ与えられたいと嘆く愚か者だ。
彼女のそばに寄り添い、彼女を笑顔にしていた男に、嫉妬することすらおこがましい。
たどり着いたのは、中庭の奥の東屋だった。
立派な建材が屋根を形作るように組まれたそこに人影はなく、冷たい風が吹きすさぶだけ。
まもなく授業開始の鐘も鳴るだろう時間、そこに寄り付く生徒はいなかった。
ポタリ。
降って来た。
そう思って空を仰げば、建材に絡みつく蔦が目に入った。
緑が芽吹けば屋根を覆うように葉を伸ばしているだろうそれも、枯れ果てたこの季節では、雨を防ぐような役割は果たしていない。
枠だけになりがらんとした、寒々しいその場所が、自分には随分似合いの場所に思えた。
ポタリ。
水滴が地面を濡らす。
空を見上げ、これから一層強く降り出すであろう雨を迎合するように、僕は立ち尽くし、空を見上げたままでいた。





