(閑話)孤児のソラの願い/中(ソラ視点)
ソラくん、無口キャラなのに、書きやすくてとっても長くなってしまいました。
他者視点初の三話構成に。
あの人の再登場前に、もうしばしお付き合いください。
まだ朝の時間、ご本のある場所には他に誰もいなかった。
もう一度、手に持つ鉛筆を見る。
「……ぼくの」
口に出してみると、じわっとくすぐったい気持ちが沸いて、口のあたりがムズムズしてくる。
みんながプレゼントをあんなに楽しみにしていた理由が分かった気がした。
昨日、プレゼントの中に鉛筆があることを知ったシスターが、ご本のところに鉛筆を使えるコーナーを作っておくって言ってくれていた。
キョロキョロと探してみると、見慣れないものが置いてあった。
本棚の一角に箱が置いてあって、その中には紙の束が入っているように見える。
手に取ってみると、絵と字が書かれた紙が数枚。
それから、紙に線が引かれて、四角で区切られた中に字が一文字ずつ書かれて埋められているのが二枚。
それらは汚れたり消えたりしないように、一枚ずつシートがかけられた紙に書いてある。
絵に描かれているのは、本だったり果物だったり動物だったり。
これ全部、シスターが書いたのかな。
絵も字もとっても上手だと思う。
もしかして、シスターはこれを一晩で全部用意したのかな。
シスターは、本当にいつ寝ているんだろうかと思ってしまうほど、いつも僕たちのために一生懸命だ。
僕はその紙を見ながら、シスターの顔を思い浮かべていた。
じんわり胸に落ちて広がる、こみ上げるようなこの感情が何なのか、僕にはまだ分からない。
それから、その紙束の隣に、何も書かれていない紙がたくさん入っていた。
紙には一枚一枚、隅っこに僕らの名前がひとりずつ書いてあるみたいだった。
この孤児院にやってきた子は、初めに自分の名前の字を覚える。
名前の書かれたプレートでお互いの部屋や席なんかを区別することがあるからだ。
僕は、自分の名前の“ソラ”と、それから“シド”と“レミ”は読めるようになった。
隅に名前が書かれた白い紙をめくっていくと、“ソラ”の紙は二枚ある。
この紙は僕の、だ。
僕の物がまた一つ増えた。
これにだったら、鉛筆で絵を描いても字を書いてもいい。
字が書けるようになれば、読めるようにもなる。
そうすれば、体の小さい僕でも、何かシスターの手伝いができるんじゃないかって、僕はそれから毎日ご本のある場所に行って練習をした。
毎日毎日、絵を見て字を覚え、必死に書く。
そうしていると、僕の紙は真っ黒になって、鉛筆は一本、また一本と小さくなっていった。
ある日、いつもは乱暴な子がご本のコーナーにいる僕の元にやってきて、こっそり話しかけてきた。
「今度から、豆が出たとき代わりに食べてくれるなら、これやるけど」
差し出されたのは鉛筆だった。
鉛筆とその子を交互に何度も見る。
この子も、何度かここで絵を描いていたのを知ってる。
紙は使っちゃったけど、残った鉛筆はもう使わないからくれるってその子は言う。
豆も食べられて、鉛筆ももらえて、そんな素晴らしい申し出に、僕はコクコク何度も頷いて鉛筆を受け取った。
それから数日、また別の子がやってきた。
十歳くらいのその子は、しばらく僕が字を書いているのを見てから言った。
「ソラが字読めるようになったら、シスターがいなくても、小さいやつらに絵本読んでやってくれる?」
僕が、話が分からなくて首をかしげてみせると、その子は僕に十枚ほどの紙を差し出した。
「これ、俺らの分。ちょっと使っちゃってるやつもいるけど。字が読めるやつら、俺も、もうすぐ卒業だから。ソラが絵本読んでやってくれるなら、これも使って練習がんばれ」
「!」
僕はまたコクコク頷いて数枚の紙を受け取った。
これでたくさん字の練習ができる。
+ + +
『トラさんは ネズミさんをまもりきりました』
小さい子たちみんなに見えるよう、僕は床に広げておいた本の隣に座ってそれを読む。
最近では、絵本を読む時間になると、自然と小さい子たちみんなが集まってくるようになった。
『トラさんは わるいまほうつかいに つかまった ウサギさんを たすけるため はしります』
「おお……」
物語は佳境に入り、小さい子たちも前のめりにのぞき込んでいる。
『いたむからだに むちうって はしるトラさんは むねのほうじゅを つかみました』
ページをめくると、そこにはトラさんとトラさんのお母さんの姿が。
『まばゆいひかりのなか あらわれたのは しんだはずの トラさんのおかあさんでした』
「ふおお!」
そこまで読んで、僕はそっと絵本を閉じた。
続きを読んであげたいけど、もうすぐごはんの準備が始まる。
小さい子たちは慣れたもので、「ソラ兄もうちょっと感情込めてよ」とか「そこがいいんじゃん」とか「明日も絶対読んでね!」などと言って息巻いて、それからごはんの準備のためにシスターのいるほうへ駆けていった。
こうして、ごはんの準備前の時間に、数ページずつ絵本を読むようになって数か月が経った。
一年足らずで絵本を読めるようになったことを、シスターもシドもレミもすごく褒めてくれた。
それから、プレゼント。
去年から一年経った今、今年の分のプレゼントの話はない。
シドとレミの言う通りだった。
去年奮起して、鉛筆を使って猛勉強してよかった。
お絵かきや落書きに使わないで、よかった。
こうしてシスターが忙しいときに、代わりに絵本を読んで手伝うことができるようになったことが誇らしかった。
持てないほど小さくなった鉛筆は、ひとつの木箱にまとめて入れてある。
僕がそうし始めてから他の子も、小さくなった鉛筆や、他の人が使っていい鉛筆はそこに入れるようになった。
鉛筆は小さくなっちゃったけど、僕にとってその木箱は、間違いなく宝箱そのものだった。
+ + +
そんなある日、シスターがお客さんを連れてきた。
入口に立つシスターが、僕らの注目を集めるために手を叩く音が聞こえる。
「ジャレット商会様が支援に来てくださいました。みなさん、お礼を言いましょう」
「「あ り が と う ご ざ い ま す!」」
シスターがいつもの文言を言って、そこにいる子たちがみんないつも通り返事を返す声が聞こえた。
僕とシドとレミは、入り口から離れた場所で、その声を聞いていた。
「客も増えたよな。また手伝ってくれる人らだったらシスターも助かるのにさ」
「足を運んでくれてるんだから、お土産もあるかもよ?」
「おみやげ」
僕らは軽い調子で話す。
僕がここに来る前くらいから、こういうお客さんは増えたらしい。
孤児院へ寄付をしたりしてくれる人だったり、なにか支援を考えている人だったり。
週に一度くらいそういう人が来て、シスターと奥の部屋で話をしたり、子どもが遊ぶスペースを見学していったりしていた。
その他にも、寄付が集まって余裕ができたためか孤児院の改修工事も始まって、近頃はなにかと人の出入りがあり、僕たちも慣れたものだった。
今日の人はお菓子をお土産にくれる人だろうか。
僕らにとって、お客さんへの興味はその程度のものだった。
「シド! なんかお前ら呼ばれてる。五歳は客のとこ行けって」
年長の子が呼びに来て、僕たちは首をかしげて言われたとおりにする。
普段誰かを指名して呼ぶお客さんなんて、滅多に来ることがなかった。
あるとすれば、“新しい家族”のときだけ。
「五歳児を引き取りたいってことか?」
呼ばれた場所へゆっくり向かいながら、シドが少し潜めた声で言った。
「かもね」
レミが返す言葉に、僕はレミと繋いでいる手に力がこもるのが分かった。
僕も握ったし、レミだって僕の手を握りこんだ。
お別れ、かもしれない。
また、僕の生活が変わってしまうのかもしれない。
もう、顔もおぼろげになってしまった、救護院の優しい男の人の姿が頭をよぎった。
だけど。
僕の心配は杞憂だった。
呼ばれた場所に行くと、スーツ姿の大人たちが、せわしなく物を整理していた。
その人たちは作業はしているみたいだったけど、僕たちを視界におさめると笑顔を向けてくれる。
優しそうな人たちだな、と思った。
その人たちに視線で、こちらに背中を向けている男性のところへ行くよう示される。
僕は男の人の背中を見て怖くなって、シドの影に隠れるように、レミと手をつないで一歩後ろに下がった。
「あの」
シドが声をかけると、男の人が振り返った。
それから、張りがあって優し気な男の人の声がする。
完全に隠れるようにレミに引っ付いた僕にはその表情はわからなかったけど、歓迎されているのはわかった。
それから、聞き覚えのない女の子の声が聞こえた。
「チック! 私、遊んできてもいい?」
元気な子だな。
それが彼女、ステラの第一印象だった。
+ + +
ステラは印象のとおり元気な子で、物怖じせず、初対面の僕たちに満面の笑顔で挨拶をした。
「私ね、ステラっていうの。よろしくね!」
シドは、明らかにお嬢様だと分かるステラのことを警戒していたし、僕は初めて会うステラのことが怖かった。
レミはなぜか逆に興味津々で、瞬く間に仲良くなってしまった。
レミに促されて挨拶を返したものの、シドは明らかに突き放すようにステラに接した。
お嬢様なステラと孤児院の僕たちでは相いれないと思うシドの気持ちは、僕にもよく分かった。
だけど、なんでもないことのようにステラがつらつら話す彼女の日常を知って、僕らの見方は完全にひっくり返ってしまった。
ステラって、苦労してる。
自由が無いように思えるその生活が、僕がお母さんと暮らしていたときのそれと被って思えた。
そっと、レミの影から顔を出し、ステラを見てみる。
ステラは指折り考え込みながら「お勉強も、お散歩するのも、本を読むのも、お風呂に入るのも……」と、ステラが一人ですることを許されていないことを挙げている。
暗い顔をしていると思ったのに、見えたステラの顔は明るいものだった。
僕にはそれが不思議で。
「ぼくらより、たいへんそう」
思わず、言葉がこぼれていた。
その後、僕と同じように思ったらしいシドがステラへの態度を軟化させた。
シドがステラに言った「ここにいる間は、自由に好きなことしたらいいんじゃないか」という言葉に、僕もそうすればいいと思った。
少しでも、気晴らしになればいいと、そのときはその程度に思っていた。
そして、ステラの独壇場になった。
+ + +
「もうむり……うごけない……」
僕はかつてないほどにへたれていた。
疲れた、もう無理だ。
ステラのお嬢様みたいな見た目は、あれは僕らを油断させる罠だったんだ。
「たいりょくおばけ……」
僕は畏怖の念を込めてステラを見た。
+ + +
少し打ち解けてから最初、ステラが好きだというピアノを見せてあげようと、三人でステラをピアノのあるところに連れて行った。
普段は置いてあるだけのピアノを見せてあげようと、僕とレミがカバーを取った途端、ステラはいきなり埃だらけのピアノ椅子によじ登った。
僕がびっくりしている間にも、ステラは両手を振り上げ、勢いよくピアノの鍵盤に下ろす。
ガシャーン!
とんでもない音が鳴り響いた。
僕もレミもカバーを放り捨て、慌てて耳をふさぐ。
ステラもさぞびっくりしているだろうと思ったのも束の間、ステラは目をキラキラと輝かせ、二の矢を放った。
ガッシャーン!
ボヨ~ン ボヨヨ~ン
カタカタカタカタ
ガッシャーン!!
この子、とんでもない奴だ。
僕ら三人は、軽い気持ちで引き受けたステラという存在のやばさを感じ始めていた。
嬉しそうにピアノを弾き鳴らすステラは、まるで大物ピアニストになりきっているような様子だ。
この騒音がなんで平気なのか不思議だけど、ステラの顔は花が満開になったような笑顔で、とても嬉しそうだった。
普段できないことをしていいと言ったのはシドだったけど、さすがにすぐピアノ椅子から半ば無理やり降ろす。
これじゃない。
ステラに必要なのは、壊れたピアノじゃない。
それは、僕ら三人の総意だった。
ステラは引きずられるようにしてピアノから引き離されながらも、カバーをかけ直す僕を見つけると溌溂とした笑顔でお礼を言っていた。
その顔は、羨ましいほどに楽しそうで、僕はさっきまでのステラによる騒音も、すっかり許してしまうような気持ちになった。
「鶏とヒヨコしようぜ」
シドの発言に、僕もレミも「それだ」と思った。
三人だけでは手に余りそうなステラも、もっと大人数で遊べば大丈夫ではないかと思えた。
ステラは素直だし、初対面の相手にも物怖じしない。
ルールの中で、みんな一緒に遊んでしまえばいいんだ。
周りにいた小さい子を集める。
ステラはお嬢様みたいだし、運動はあまり得意ではないだろう。
走るのが苦手な子や、絵を描くほうが得意な子なんかもたくさん呼んでみた。
いつも通り、鶏とヒヨコができる場所を開けてもらって、みんなで集まる。
最初はシドが鶏だ。
そしてゲームが始まってすぐ、僕らの予想通り、最初に鶏に捕まったのはステラだった。
僕も運動は得意じゃないし、最初に鶏とヒヨコをやったときはすぐ捕まった。
僕はレミに鈍くさいと言われるステラの気持ちがよく分かるし、遊び方を覚えたら、次は本を読み聞かせてあげようかな、と思っていた。
そう、思っていたのに。
まさかステラが、あんなにとんでもない体力おばけだなんて思うわけがなかった。
一回目、鶏とヒヨコが終わって、本がいいって言うかなって思ったけど、ステラは満面の笑みで。
「もう一回したいなあ!」
三回目、また鶏に捕まったステラが。
「今度はレミを捕まえるからねえ!」
五回目、ルールもしっかり覚えたステラが。
「うふふ、楽しいねえ、もう一回!」
十回目くらい。疲れた僕は、そろそろご本はどう? って提案してみた。
「ご本より、鶏とヒヨコがしたいなあ、ダメかなあ」
何回目かわからないくらいたくさん。そろそろ休まないか聞こうと思っても間髪入れず。
「もう一回しよう~!」
もう数えることさえできないほどやって、僕が立ち上がれないほど疲れ果ててさえ。
「ねえ、次は? もっとやろうよ~!」
ステラの勢いは、とどまることを知らなかった。
鶏とヒヨコはこんなにぶっ続けで何度もやる遊びじゃない。
付いてこれない子から、どんどん脱落者が出て、ついには僕ら三人とステラだけになっても鶏とヒヨコは終わらなかった。
僕はもう、限界だった。
のどの奥から、ヒューヒューと音が漏れる。
すっかり床に座り込み、肩で息をする。
こんなに動き回ったことなんてない。
シドもレミも、僕よりマシとはいえ、床に座り込んで手をついたり天井を仰いだりしている。
シドとレミはいつもよく動く遊び方をしてると思っていたけど、それでもいつも手加減してくれてたんだなって思い知った。
僕はステラを見る。
ステラのキラキラした笑顔は変わらない。
むしろ回を重ねるごとに、その輝きを増しているように思えた。
ステラは、僕らに元気が残っているんじゃないか、鶏とヒヨコをもう一度できるんじゃないかって、一人ずつ品定めするように順番に見つめてきている。
僕は、むり……。
心の中で唱える。むり、と。
だいたい、鶏とヒヨコは、少人数でこんなに激しく動き回る遊びじゃないのに……。
笑顔のステラの目がシドを見て、レミを見て、それから僕を見る。
笑顔のはずなのに、ゴゴゴゴゴゴと、謎の圧すら感じる思いだ。
僕は、ステラの視線に最初会ったときに感じたのとは全く違う怯えを感じて、また身を隠したいくらいだった。
もう、ほんとに、むりだから……。
そんなステラを止めてくれたのは、やっぱりシドだった。
「きゅーけー」
シドは、ステラに掴まれた腕を逆に引っ張り返す。
ステラはころんっと引っ張られるまま、簡単に床に座った。
元気いっぱいすぎて、もはや最強の存在にすら見えていたステラだったけど、力まで強くなったわけじゃなかった。
座って「あはは」って笑うステラは本当に楽しそう。
僕は疲れ果てながらも、そんなステラの笑顔を見て、これだけ疲れた甲斐があったなって思った。





