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(閑話)孤児のソラの願い/前(ソラ視点)

後編のあとがきにあらすじ載せておきます。

 暗い。

 せまい。

 お腹すいた。

 僕は、今日もまだ、生きてる。

 最後に食べたのはいつだっけ。

 たくさん寝ても真っ暗なままのこの場所じゃ、今が朝なのか夜なのかも分からない。

 今日も寝て、寝て、寝て。

 他にすることもない。

 他にできることもない。


 のどが渇いた。

 のどが渇くと、寝るのも難しい。

 戸を開けて、水瓶の水を飲みに行きたい。

 でも、今はだめ。

 戸の向こうにはお母さんがいる。

 見つかったら、またお母さんを悲しませてしまう。


 戸の向こうから、お母さんのすすり泣く声と、お祈りの言葉が聞こえる。


「女神さま、どうか彼を返して」


 僕も、戸を隔てたまま、お母さんと一緒にお祈りをする。

 言葉は出せない。

 声が聞こえれば、お母さんを悲しませるから。

 手も組めない。

 体を起こすことさえ億劫だから。

 横になったまま、心の中でお祈りをする。




 女神さま、どうか僕を助けて──。




 + + +


 僕の生活が変わったあの日のことを、僕はあんまり覚えていない。

 その日は、もう何日も水以外を口にしていなかった。

 お腹が空いているのかも分からなくなって、寝ることもできず、僕の意識はずっと薄ぼんやりとしていた。


 ドタドタと騒がしい音と、お母さんの大きな声が聞こえた気がする。

 そう思っていると、その音も声もどんどん近づいてきて。

 そして、僕がいる場所の戸が、勢いよく開いた。


 戸を開けたのは、知らない人だった。

 その人はピタッと動きを止めた。

 床に丸まって横になった僕の姿を見て、体を固まらせたんだと思う。

 お母さんじゃない人を見るのはとても久しぶりだったけど、突然開いた戸の向こうが眩しくて。

 そのときの僕はこれまで以上にお腹が空いていて、意識も朦朧としていて。

 横になっている以外に何もできなくて、その人のことも、他にもいるだろう人たちのことも、視界が霞んでよく見えなかった。


「意識はっ、意識はあるか!?」

「台所のこんな場所に子どもを……!」

「ひどい……っ」


 やっぱり、知らない声だ。

 そうして、知らない声が何人分か聞こえるけど、その人たちが苦しそうに、怒ったようにそう言うのを聞いていることしかできない。

 その人たちの向こうで、お母さんが大声で何か言っているその声も、そのときの僕には遠く遠くに聞こえていた。


 + + +


 次に気が付いたのは真っ白な部屋。

 壁も天井も白くて、寝ている布団も白かった。

 部屋は大人の部屋で、僕一人にはとても広くて自分が頼りなく感じた。

 白い服を着た人たちが出入りして、動けない僕の体を持ち上げて寝返りをさせてくれたり、僕の腕や足を持って動かしてくれたり。

 毎日決まった時間に朝のご挨拶をしにきてくれて、ごはんも食べさせてくれる。


 しばらくそうして過ごして、僕はそこが救護院っていう場所なんだって知った。

 それを教えてくれたのは救護院で毎日会いに来てくれて、いつも僕の体を動かしてくれる男の人だった。


「お名前は言えるかな?」

「……」

「君はとても静かだね」


 男の人はいつも優しい声で、ゆっくり言葉を掛けてくれる。

 お返事を返せない僕のことも、なにも責めないでいてくれる。

 男の人は、僕のベッドの傍らの椅子に座って、ベッドから降りられない僕の代わりに、僕の手や足を動かしながら話かけてくれる。

 僕のことを静かだと言う男の人の言葉に僕が頷いてみせると、それだけで嬉しそうに笑ってくれた。



 お母さんがここには来ないことも、男の人に教えてもらった。

 男の人は、「君がもう少し大きくなって、君もお母さんも望めばまた一緒に暮らせるよ」と言った。

 僕はそれにフルフルと首を振る。

 助けてくれたのは女神さまじゃなかったけど、僕はもうあの場所に戻りたくなかった。

 お母さんと一緒に暮らすより、朝が朝だと分かる、この生活が良かった。

 お母さんと一緒に暮らすより、毎日ごはんが食べられる、この生活が良かった。

 男の人が僕の言葉を待ってくれて、目を合わせて触れてくれる、この生活が良かった。


 フルフルと無言で首を振る僕を見て、男の人は「わかった」とだけ言った。



 しばらくして、僕は一人でベッドから降りて歩けるようになった。

 ゆっくりだけど、ごはんも一人で食べられる。

 それから、男の人は僕の手を引いて、救護院の廊下や中庭に連れて行ってくれた。

 僕の世界が、戸の中と白い部屋だけじゃなくなった。

 そこにはたくさんの人がいて、それが僕にはすごく怖いことだった。

 お母さんと暮らしている間、人に会った記憶はほとんどない。

 白い服を着ていない大人がたくさんいる中庭は、男の人の足元の影に隠れるようにして、顔を伏せて歩くだけで精一杯だった。



 それからしばらく。

 僕が毎日シャワーを浴びられるようになったころ、男の人がお別れを言いに来た。



 いつか、そうなることは、僕にだって分かっていた。

『良くなるまで、一緒に頑張ろう』

 初めから、そう言われていたことはちゃんと覚えていたし、理解していた。

 男の人の話を聞きたいのに苦しくて、涙がこんこんと溢れて、止まらない。

 僕は、引きつる喉から出てくる音が聞こえないように、そばにあった枕を抱きしめた。

 枕に顔を押し付けて耐える。


「君はもう、声を押し殺さなくていいんだよ」


 これまでも、何度も言われた言葉。

 男の人は、少し震える声でその言葉をまた言って、枕に顔をうずめる僕の手の背を、肩を、頭を順々に撫でてくれる。

 僕はそんな男の人の顔を確認することもできない。

 僕の声を聞けば、お母さんが悲しむから。

 パパを思い出して泣いてしまうから。

 今漏れるこの声もきっと、聞こえてはいけないものだから。


 男の人は、他にも僕みたいな子のそばにいて、元気になるまで一緒にいてあげなきゃいけない。

 男の人は、僕の家族じゃないから、僕が独り占めしちゃいけない。


 分かっていても、僕は今の生活が変わってしまうことが怖かった。


 + + +


 それから数日して、僕は孤児院に移ることになった。

 部屋をよく出入りしていた白い服の女の人に連れられて、僕は白い部屋を出る。

 これから行くのは、知らない子がたくさんいる場所。

 僕と同じような子がたくさんいる場所。

 中庭にいたたくさんの大人に比べれば、そこにいる子たちはまだ怖くないと思えた。

 それでも、僕にとっては視線のひとつすら怖くて、顔を伏せて孤児院の中を歩くことしかできなかった。


「シスターのファウスティナです。これからよろしくね、ソラ」


 僕から何歩分も離れた向こうから、声をかけられた。

 女の人の声。

 お母さんと歳の変わらないだろうシスターの声を聞いて、僕は固まってしまった。


 僕はその場から動けず、シスターの顔も見れず、そのままその場に残された。


 

 シスターは、この孤児院の子どもの世話をしている人だった。

 固まったままだった僕のところに、シスターは男の子と女の子を連れてきた。

 一言二言、僕のことを二人に説明したシスターは、彼らに僕を任せてどこかへ行った。

「よろしくな、ソラ!」

 顔を伏せたまま、男の子、シドの大きな声にびっくりして肩が跳ねてしまった僕を、女の子のレミが庇ってくれた。

「声が大きいわよ」

 それから、レミは僕に向かって話しかける。

「ソラって、シスターが名前を付けてくれたんだって。私たちと一緒ね。ソラ、よろしくね」


 レミが向けてくれた笑顔は、僕が今まで見た中で一番明るい笑顔だった。

 そうして僕は『ソラ』になった。


 レミもシドも僕と同い年だった。

「ソラが来るまで、同い年なのは私とシドだけだったの」

「同い年ってほんとか? ちっちぇえな」

「シド!」

「ほんとのことじゃねーか」

 一言も返せない僕だったけど、二人は色々と話しかけてくれる。

 受け入れてもらえたことにほっとするものの、返事もしない僕を、二人は怒らないだろうかと心配になった。

 だけど。


「来てすぐに話せないやつ(子)はよくいるから」


 二人はあっけらかんとそう言った。


「話したくなったら言えよ」

「話し方が分からないなら教えてあげる」


 二人にとって、僕がお喋りができないことはさほど大きな問題ではないようだった。

 その様子に、僕の気持ちはずっと楽になった。

 それから、僕に孤児院の部屋や遊び方を教えてくれる二人に、僕は四六時中ついて回るようになった。


 + + +


 孤児院で暮らすようになって、シスターのことを苦手に思うような気持ちはすっかり吹き飛んでいた。


 シスターは、とんでもなく頑張っていた。

 毎日、朝から晩まで、ずっと僕らの為に動き回っていた。

 シドや、レミや、他の子のために。

 僕の、ために。


 あるとき、シドとレミと話していると、シドがシスターを見て言った。

「浮浪児や虐待されてたやつまで受け入れてんだろ、もうシスター一人じゃ無理だよ」

「だからって、受け入れなきゃいいのに、とは言えないでしょ」

 シドの言葉に返したレミが、ちらりと僕に視線をやった。


 それから、二人に教えてもらったことによれば、僕を見つけてくれた人たちは、救護院の人たちじゃなかったらしい。

「誰かが助けないと死んじまうような子どもがいないか、調べてる人らがいるんだよ」

 シドが教えてくれる。

 僕のことだって、近所の誰かがその人たちに通報して、それで見つけてもらえたんだろうって。

 そうして見つかった子は、僕のように救護院に入れられたり、孤児院に連れてこられたりしているらしい。

 うんざり顔のシドだったけど、コロッと表情を明るくすると続けた。

「子どもが増えた分、シスターは大変になったけど、前に比べたら俺らの生活だってずっとマシになったんだぜ」

「シスターもちゃんと一人分の食事を食べてくれるようになったしね」

 シドとレミはそう言って、嬉しそうに色々と教えてくれた。


 死んじゃう子がいないか調べている人たちの目的は、僕らみたいな子どもみんなにプレゼントを配るためらしい。


 変なの。


 僕はそう思ったけど、シドたちはその人たちのすごさを熱く語った。

 シドたちが言うには、その人たちに賛成な人たちもたくさん集まってきて、孤児院への支援も前よりずっと増えたらしい。

「飯も我慢しなくていいくらいいっぱい食えるし、服も週に何度も着替えられるんだ」

「布団も一人一枚あるのよ」

 二人はウキウキしている。

 シスターも、前はもっと大変で痩せてたって聞いて、僕は今以上に痩せたシスターを想像できなくてゾッとした。

 僕だってその人たちに助けてもらえたからここにいられるし、僕たちのためにあくせく大変そうにしているシスターの手助けをしてくれているんなら、いい人たちなんだなと思って感謝の気持ちが沸いた。



 そして、僕が四歳になって、シドたちと一緒に、初めて噂のプレゼントをもらえることになった。

 実際にプレゼントをもらった僕は、感謝の気持ちもずっと強く、実感として感じることになった。



 プレゼントをもらえる日、その日はシスターの前に子どもみんなが列になって並んだ。

 シドとレミももちろん、いつもは走り回る小さな子も、大騒ぎする乱暴な子だって、並んで順番を待っている。

「おいそこ! 小さいやつ抜かすなバカ!」

 シドが前方を見て声を張る。

 待ちきれないのか、ズルしようとする子もいたけど、みんなに「バカだ」「バカー」って笑われて、「ばれたか」って笑ってた。

 みんながワイワイと、楽しい空気が満ちる。

「楽しみね」

「たのしみ」

 レミに話しかけられ、僕も答えた。

 四歳になってしばらく、そのころには、僕は少しずつだけどお話しできるようになっていた。


 僕に話し方のコツを教えてくれたシドとレミは、本当に慣れた様子で教えてくれた。

 本当に、僕みたいな子はそこそこいるらしい。

 それに僕はずいぶん気が楽になっていたし、僕が話せないことでシスターにいちいち手間をかけている自覚はあった。

 僕が話せたら、シスターやみんながきっと喜んでくれることも分かっていた。

 孤児院に来て一年近く。

 もはや僕には、僕の声にお母さんが悲しむかもしれないことよりも、ここにいるシスターやみんなが喜ぶことのほうがずっとずっと大事なことになっていた。

『シド、レミ、シスター』

 第一声を話した僕に、やっぱりみんなは予想通り、とっても嬉しそうにしてくれた。



 プレゼントの列。

 僕の順番がまわってきた。

 シスターが僕を見て、他の子と同じようにひとまとめになった荷物を渡してくれた。

「はい。これは全部ソラの物よ。ソラの好きに使っていいわ」

「ぼくの?」

「そう、ソラの物。ジャレット商会様から、みんな一人一人に宛てたプレゼント」

「ぼくの……」


 僕は少しだけずしっと重いそれを抱えて、シドとレミの元へ行く。

 三人で荷物を広げると、大きな布の中から服と鉛筆の束が転がり出てきた。

「紐がついてる! かっけー!」

 シドが服を一着ずつ広げては喜び、まとめて持つとさっそく、シドと背格好の近い子たちのところに走っていった。

 一緒に列に並んでる間も、交換したり、交互に着たりする約束をしてるんだって楽しそうだった。

 レミを見ると、レミは大きな布をたぐり寄せて、抱きしめている。

「ああ~~断然手触りが良くなってるうぅ~」

 すごく幸せそう。

「これ、ふとん?」

「そうよ! おニューのお布団よ!」

 いつも使ってる布団によく似ている気がして聞いてみると、僕が使っているやつも、卒業していった子の去年のプレゼントのお下がりらしい。

 僕が普段着替える服も、プレゼントのお下がりがほとんどらしい。

「ぼくのふとん……」

「そうね! 服もソラのだし、布団もソラの!」

 そう言ってレミは「これは私のお布団ちゃん~~!」ともう一度布団を抱きしめた。

 僕は、僕のプレゼントを見る。

 みんなと一緒に使うんじゃない、僕のプレゼント。

 それから、レミはプレゼントの中のもうひとつ、鉛筆の束を見て「今年は鉛筆もあるのね!」と嬉しそうに笑いかけてくれた。

 


 次の日、鉛筆が気になっていた僕は、鉛筆の束を持ってご本のある場所に来ていた。

 シドは服の見せあいっこに行ってるし、レミはシスターや大きな子に交じって、去年の布団全部をまとめて洗うのを手伝いに行ってる。

 新しい布団が来たから、前の布団は思いっきり洗って思いっきり干すんだって、レミは張り切っていた。


 そうしておけば、布団がダメになっても予備ができるからって。


 それを聞いて僕は一瞬、年に一度もらえるんだから、予備がなくても大丈夫なんじゃないかって思ってしまった。

 だけど、それは違うってすぐに気づく。

 今もらえているプレゼントは、去年と今年、たまたまもらえただけ。

 孤児院にずっといるシスターやレミたちみんなは、そんなこと当たり前に分かってるんだって気づく。

 それがない時が来るって、予備が必要になる時が来るって、知ってるんだ。

 そうなる可能性を常に考えてるんだ。


 僕は、鉛筆の束を握っている自分の手を見た。


 僕が、シスターやレミたちに、そんな不安を考えなくていいように、してあげられればいいのに。


 少しだけそんなことを思う。

 僕にできることなんて、まだ何も無いのに。

 僕が持っているのは、昨日もらった服と布団と鉛筆だけなのに。


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