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98.失うわけにはいかない男の思惑と切望

「これを終えれば殿下もまた一つ、王族の一人としての格を身につけられることでしょう」

「そうだな。軍部のトップである貴殿から提案を受けたときには内容を意外に思ったものだが、良い機会だったと思う。父上から此度の裁定は私に任せるとの許可もいただいたし、十分に学んできた自負もある。そろそろ実践というのも悪くないと教育係から太鼓判をもらったよ」

「ええ。そうでしょうとも。それに、こんな言い方は良くないですが、今回扱っていただくのは至極些細な事件です。殿下が初めて携わられる案件として、ちょうどいいのではないかと愚考いたしまして」

「ああ、ありがとう。今後も貴殿の視点で何か気が付いたことがあれば忌憚なく伝えてくれると嬉しい」

「はい。勿論でございます」


 私の(おだ)てに満足げに頷く少年王族を、私は内心冷えた視線で見る。

 神童だ天才だと周囲が持ち上げる彼も、まだやっと十歳になろうかというただの子どもに他ならない。


 集めさせた情報を元に餌にぶら下げてやればこのとおり、簡単に手の平の上で踊ってくれた。

 二人目の子どもに何か引け目があるのか、辣腕(らつわん)でなくともそれなりの采配を取る現王と王妃も彼に対しては対応が甘く、私の提案した件はあっさりと実現することとなった。


 事が上手く運べば、私の取りうる手段と選択肢は大きく広がることになるだろう。

 ────────()()の日は近い。


『…………』

「何か言いたげだな」


 会談を終えて上機嫌な王子を見送った私のそば、控える部下の一人もいないはずの部屋で不意に現れる気配があった。

 小さな獣の姿をしたそれが物言いたげにしているのが分かり、気分の良い私はその気持ちを汲んで声をかけてやる。


『……面白くはないと、それだけでおじゃる』

「ふん」


 私とは対照的に不機嫌に言った彼奴の本音は嫌というほど分かっている。

 これでも長い付き合いだ。


 私を引き止めたいと、その道を選ばせたくないと、そう彼が思っていることは知っていた。

 しかし、それに応えることは出来ない。


 かの獣が求める未来に“彼女”の姿が無い限り、私はそれを選び取りえないのだから。


『…………御前殿(おまえどの)。本当に戦を起こすつもりかえ』

「ああ」

『いい加減、引き返せのうなるぞ』

「ああ。分かっている」


 きっぱりと応え、拒絶を示した。

 道を違えるというのなら躊躇なくここで決別すると、そんな意志を込めた私の言葉に、彼ならば気が付く。


 彼がそうしないことも、私は知っていた。

 甘やかされているなと、内心自嘲する。

 彼はそうだ、昔から私に甘い。


 獣の反応を見ることもなく前を見て私が一歩を踏み出せば、私の意志が揺らぐことはないと分かったのだろう、もう彼の気配はどこかへと消えていた。

 あれ以上言わないということは、随従してくれるということなのだろう。本当に甘いことだ。


 少年王族と会談していた応接間の中、広い室内を横切って扉へと歩いていく。

 中から扉を数度叩けば、外で控えていた警備が大きく豪奢な扉を開いた。


 室内に比べ、嫌に冷えた廊下の空気が頬を撫でる。

 上級の士官や王族の出入りするこの場所は王城の中でも深い位置に存在する。


 頑丈な塀に守られたこの場所は日が入りにくく、どれだけ窓を大きく取ったところで日が傾く頃になれば空気がシンと冷えた。

 今のような温かい季節こそまだ良いが、これが寒い季節ともなれば暖炉以外の空調が存在しない王城勤めは体に堪えるのだと、我が身の老いを感じて気が滅入る。


 見上げるほどに高い天井も、豪奢な調度品も、通り過ぎるだけで(うやうや)しく頭を下げる警備や使用人たちにももう随分と昔に慣れてしまった。

 廊下を歩けばカツンカツンと靴音が鳴る。


 誰かとすれ違えば互いが互いを牽制するようなそんな世界だ。

 そんな場所にどっぷりと浸かり、息苦しく窮屈な登城服に身を包む己に嫌気が差した。


「帰りたい」


 ぽつりと言葉が零れ落ちる。

 帰りたい。あの頃へ。


 そんな願いが叶わないことはとうの昔に知っていた。

 それでも。


 願わずにはいられなかった。

 今日はもう屋敷へと帰ろう。


 一つ、良い知らせもあった。

 想定していたよりも早くに彼らが王都へ入ったらしい。


 聞き及ぶとおりに柔軟で迅速な対応のできる者たちなのだろう。

 これでまた計画が一歩前進する。

 させてみせる。


 私はまた失うわけにはいかない。

 それだけは許されない。

 何としても、それだけは。


「待っていてくれ」


 今度は意識して呟いた。

 必ず取り戻すと、そう改めて心に誓う。


 何としても。

 何をしても。


 そのためには、まずはかの侯爵家と、そしてかの大商家を手中に────────。


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