95.モブ少女は夢の中(レミ視点)
長らくお待たせいたしました。
お久しぶりついでに、投稿の時機を逸しがちなもう一人のモブ少女・レミのお話から更新を再開させていただきます。
このお話だけ書き溜めてあったので一万字くらいあります(◡ω◡)
◇ ◇ ◇
『…………ん、またこの場所ね。やった』
ゆっくりと瞼を開ければ、レミはまた、その場所に一人佇む事ができていた。
そこには何もなく、レミ以外の誰もいない。
見渡す限り真っ白で眩しいようなのに、どこにも光源は無く、終わりもなければ始まりもない、そんな場所。
レミの呼吸も、声も、身じろぎ一つ、レミの発する全ては何もない真っ白な空間に溶けて消えていく。
今のレミにとって、この場所はもう何度も来た、すっかり慣れた空間だった。
眠りにつくと度々訪れることのできるこの空間。
広く拠り所のないそこには、いつだってポツンとレミ一人だけが浮かんでいるのだ。
初めてステラと出会った日から度々訪れているこの場所で見たもののことを、起きている間のレミはほとんど覚えていられない。忘れてしまう。
けれど、ここにいる間のレミはここで起き見た全てのことを思い出し、それから少しずつ、少しずつ、前世女子高生だった時のこと、家族のこと、それから今、生きているゲームの世界のことや登場人物たちのことを起きた状態でも思い出せるようになってきていた。
自身の体の輪郭すら曖昧な光の空間に、レミは揺蕩うよう身を任せ漂いながらも、妙に冴えていく思考を自覚する。
ここでは体の年齢に引きずられないためか、感情も外の世界よりずっと穏やかだ。
俯瞰した視点で前世やゲーム世界を見るからだろうか、大切な兄のことを思い出した経験があるからだろうか、ここで映し出される全てのことを、今のレミは穏やかに受け入れることができていた。
ここはきっと自分が失くしていた前世の記憶や経験を取り戻せる、そんな場所なんだろうと、そう確信めいた思いもある。
起きればまたそのほとんどを忘れてしまうのだとしても、ゆっくりと完全な形を取り戻して行けばいいと、そう思えるのは、今生きているゲームによく似た世界で起きるかもしれなかった心配事が可愛い友人によって一つまた一つと解決されていっているからなのかもしれない。
レミはすっかり慣れた様子で体から力を抜くと、輪郭ごと曖昧になっていく自身をそのまま溶かすように空間に投げ出し、ぼんやりと白い空間を眺めた。
いつものように、この空間が前世やゲームの景色を見せてくれるのを待つ。
『今日見るとすれば………、そうね、アリスのお屋敷にいったばかりだし、アリスとの対決シーンとかかしら? うーんでも、アリスについては前にダニールートの夢を見たときにだいたい見たのよねえ。ああ、それかダニーのルートに関わる追加シーンっていうのもあるかも。うんうん、スティーブ絡みっていうもありよね。そうだ、せっかくなら、またゲームには無かったような攻略対象視点のシーンは見れないのかしら。ああいうシーンが見れると、転生した甲斐があったというか、オタク冥利に尽きるというか────』
今は音として存在しない声で、今はおぼろげな手で、指折り心当たりを上げては楽しい想像に耽る。
この空間自体がただの夢なのか、それとも夢を見るからこの空間へと来ることができるのかは分からない。
もしかしたら全部、前世から根っからの学ヒロオタクであるレミの脳みそが見せるただの妄想で、夢なのかもしれない。
けれど、ステラと会った日、それから数日おき、時には数週間を置いてやってくるこの空間で得られる情報は多く、レミにとって大きな楽しみになっているのは間違いなかった。
しばらくして空間に薄っすらと満ちていた光がその光度を増すと、もうその現象にも慣れっこのレミは、これから始まるそれを見逃すまいと顔を上げて前を向いた。
やがて、空間全体が色付き、広がり、大きなモニターのようになったそこに、レミが待ちに待った光景が映し出され始める。
◇ ◇ ◇
トン、トン、トン。
背の高い兄の頭頂部を見ながら一段ずつ階段を降りていくと、ダイニングからお母さんの声だけが飛んでくる。
「───もうっ、お兄ちゃんが迎えに行けば降りてくるんだからこの子は。どうせまたゲームしてたんでしょう? ねえ、いつもごめんねお兄ちゃん。二階まで迎えに行くの面倒でしょう?」
「あ! お母さんったら酷い! 面倒じゃないもんっ、ねー、お兄ちゃん?」
「はいはい、面倒じゃない面倒じゃない。それより早く食おうよ、腹減った」
「先に手を付けてていいわよ。ドレッシングは置いてあるから、自分たちで好きなのかけてね」
「は~い」
「ありがと母さん、あ、そうだチャンネル変えていい? 今日サッカー」
「どうぞ~。あらでもまだニュースの時間じゃないかしら?」
「すぐ始まるから」
ダイニングに入って正面、家族四人で使うにはほんの少し手狭になったダイニングテーブルを、私は端から端まで見渡した。
テーブルにはお母さんの手によって、晩ご飯のおかずたちが所狭しと並べられている。
テーブルを迂回して、テレビに背を向ける形になる位置にある私のいつもの席につけば、それとちょうどのタイミングで炊き立ての白いご飯が目の前に現れた。
女の子らしい小ぶりの茶碗には似つかわしくないほどの山盛りご飯だ。
「ありがとうお母さん」
「はいどうぞ」
「お、照り焼きうまそう」
「ねっ! 今日のごはんも、美味しそう~!」
「なかなか降りてこないくせに、まったくこの子ったら」
お兄ちゃんが私の向かいに座り、お母さんが配膳してくれるのに甘えながら、お互い料理について囃し立てる。
笑ったお母さんは、言葉とは裏腹に嬉しそうだった。
目の前には甘辛く焼かれたチキン、蒸かしたじゃがいも、きゅうりとトマトの乗った大盛りのサラダ、それから我が家では欠かせないお味噌汁と、家族の好みの分だけ置かれたドレッシングが何本か。
お母さんの気分次第で時々挑戦的な具が入っていることもある日替わりのお味噌汁だけど、手に取ってみてみれば、今日は王道にわかめと、サイコロ状に切られた豆腐が浮かんでいるのが分かった。
私は、お兄ちゃんの前のテーブルに乗り上げるように上体を伸ばすと、お母さんが並べてくれた中から柚子風味のドレッシングを手に取ってお兄ちゃんにも見えるよう持ち上げて見せる。
「お兄ちゃんもこれでしょ? 先もらいー」
ドレッシングのボトルをジャカジャカと振りながら言えば、隣でテレビを向いてしまっていたお兄ちゃんの視線がこっちを向いた。
リモコンを何やら操作していたらしく、難しそうに尖らせていた口が、私を見て「おう」と言って緩まる。
家で、お兄ちゃんが私に向けてくれるリラックスした表情が好きだ。
外出する時の、自社ブランドの服を着こなした格好いいお兄ちゃんも自慢で大好きだけれど、私はお兄ちゃんにはいつもこうして柔らかく笑っていて欲しかった。
「私ってば、お兄ちゃんのことほーんと分かってるんだからー」
「はは、すごいすごい」
私がわざと満面の笑みでそう言えば、お兄ちゃんは呆れたみたいに、大好きな笑顔で笑って、私からドレッシングを受け取りがてら、ポンと伸ばした手で頭を一度撫でてくれた。
お兄ちゃんの目当てのサッカー中継はすぐには始まらないようで、テレビでは夕方のニュースが流れている。
お母さんもテーブルにつくと、三人でいただきますをして晩ご飯を食べ始めた。
数秒、ニュースの音だけが流れていた。
「───この事件、明日でしょう? 裁判。随分前の事件だけど、物騒よねえ。嫌だわ」
「あー、あれだっけ? 殺人のやつ」
「そうそう、怖いわあ」
怖がりなお母さんは、ニュースを見てはすぐ心配事が増える。
改めてテレビを見てみれば、どうやら明日裁判が行われる殺人事件についての特集のようだった。
夕方のニュースを担当している男性のアナウンサーは平坦で堅い声をしており、彼が暗い話題を担当することが多いことも相まって、怖がりなところのある私は彼の読むニュースが少し苦手。
お母さんの話にお兄ちゃんが適当に相槌を打つのに耳を傾けながら、私はテレビから聞こえてくるニュースの音を右から左に聞き流していた。
うん、この照り焼きチキンも好きな味。
実は油揚げも入っていた味噌汁はあったかくって、安心する美味しさにホッとする。
モグモグ、ゴクン。
うん、お腹が満ちると、体がポカポカして幸せな気分になれる。
しばらくそうしてモグモグとしていると、お母さんと話していたお兄ちゃんが、そういえばと言って話を変えた。
殺人事件の話がやっと終わったかなと、何気無しにそちらを向いた私だったけど、思いがけずにお母さんとお兄ちゃんがこっちを見ていて驚いた。
「何?」
「────ニュースっていえば、お前も学校の行き帰りとか、ちゃんと気を付けてるか? 県内で不審火が続いてるらしいじゃん」
「えっ、あ」
「! そうそう!そうなの! お隣さんもね、親戚のお宅の近所で不審火があったんだって! でね、放火じゃないかって言うの、嫌だわ、怖いわ」
「え、えー? ……うーん、気を付けろって言われてもなあ……」
お兄ちゃんとお母さんが思い出したように交互にまくし立てるのを、私はびっくりして身をすくませながらも逡巡する。
そういえば、学校でも、朝礼で何か火事についての話をされたのを思い出した。
たしか、連続放火かもしれなくて、犯人がまだ捕まっていないから気を付けましょうって、そんな話だったはず。
火事があったのは県内ばかり、人気のない路地やら、公園やら、誰かの家やら……。
確か隣の学区でもボヤ騒ぎがあったって言っていたから、お母さんが言うお隣さんの親戚のってやつはその火事のことかもしれない。
先生もお兄ちゃんたちも『注意して』『気を付けて』って言うけど、どう気を付けろっていうのよ。
私がそんな風に思って、過保護気味なお母さんとお兄ちゃんからの言葉に曖昧に返事を繰り返していたのがいけなかった。
心配症なお母さんの顔色が、すっかり蒼白になっていた。
思えば、先ほどから食事の手も一切止まってしまっている。
これはヤバイやつだ。
私が気付いたのとほぼ同時だったのだろう、お兄ちゃんもまた、お母さんの顔色に気が付いて『やらかした』という顔をしてる。
私とお兄ちゃんの間を一瞬で緊張した空気が駆け抜け、長年生活を共にしたからこそ可能な兄妹の第六感じみた共感覚が発動した。
目で合図するような一瞬のロスすら必要とせず、今すぐ話をそらさねばと、お互いの気持ちが結託したのが理解る。
経験値不足のために咄嗟にフォローのための言葉が出なかった私に代わり、お兄ちゃんから先陣切って明るい第一声が放たれた。
「っなーんてな! 暗くなる前に帰って来てるんだろ? じゃあ大丈夫だよな! な! ほら、詩音は部活もやってないし、毎日門限守ってるもん、な! だから平気だな! 平気平気」
流石はお兄ちゃんだ。
私は内心で感嘆する。
わざとらしいくらいの明るい声、断定的に安全を保障するような言葉。
完璧な軌道修正である。
私もそれにすかさず乗っかった。お母さんに『でも』や『だって』を言わせる隙を見せてはならない。
「う、うん! そうそう! やっぱお家帰ってゲームしたいしさあ! 学校が終わったらすぐ帰ってきてるって! だから平気へいきっ」
「そうかしら……」
「そうそう!」
「シオン、お前それはそれでどうなの?」
私のフォローもうまくいって、お母さんの顔色も多少戻って万事オーケー丸く収まったはずが、何故か最後にお兄ちゃんから批難と憐憫の籠った一言が小声で返ってきた。
納得いかないんですけど。
むっと、こっそり膨れて見せると、お兄ちゃんは苦笑しながら『ゴメンって』と小声で謝ってくれた。
確かに、私が最近ゲームばっかりやってるのは本当だし、一般的にその趣味が不健康に見られがちなのは分かってるけど、好きなものは好きなんだからしょうがないんだよね。
高校になって多少増えたお小遣いを貯めて、さらにはお母さんの手伝いなんかもやってコツコツ貯めたお小遣いでやっと手に入れた念願の人気作なんだから。
と、そこまで思って、私は思い当たる。
「あ」
「どうした?」
日々の日課になっちゃってるから、当たり前すぎてうっかりしてたけど、そういえばまっすぐ帰って来る日ばっかりじゃないなと思い出した。
お母さんを騙すみたいになるばかりなのも気が引けるし、このくらいならお母さんも知っていることだしいくら心配症でも大丈夫だよねと思って様子を見ながら言葉を足す。
「ううんただ、お見舞いは行ってるけどねってだけ、学校帰りにさ。も、もちろん! 時間も決まってるし、暗くなる前には帰ってきてるよ! お母さんも知ってるでしょ?」
私の言葉に「ああ」と思い出したように頷いたのはお兄ちゃんだった。
「そっか。お前ずっとだもんな」
「うん」
合点がいったというようなお兄ちゃんは、そうだよなと、何度か口の中で繰り返して頷いてる。
頷く動きに続けて、目線はこちらに向けたまま、箸で持ち上げた鶏肉へと大きく開けた一口でかぶりついた。
モグモグ、ゴクンと、しっかりと鶏肉を味わってから、「長いよなあ……」と、しみじみと感慨にふけるように呟いた。
私もそれに頷きだけで返して、同じく鶏の照り焼きを一口食べる。
甘辛く味付けされた鶏肉は噛むと柔らかく肉汁が溢れ、次いでご飯を口に入れれば食べている最中だというのにお腹が空いてくる。
炊き立てのご飯がお腹に落ちていくのが温かかった。
お母さんはご飯を食べ進める私たちを見ながら、目を細めて優しく笑んでいた。
それは、私たち兄妹だけじゃなくて、他の誰かのことも慈しむような、思いやるような、そんな優しくて、ちょっとだけ切なくも見える表情だったのかもしれない。
『きりーつ、きをつけー、礼!』
『『『ありがとうございました!』』』
ホームルームを終えた教室、終業の合図からほとんど間を置かず、私は教室を出た。
すれ違う友達にもまた明日と挨拶をしながら、駆け抜けるように廊下を進み、校舎を出る。
放課後私が急いで行かなければいけない場所があるのは、友達ならもう誰でも知っていることだった。
会える時間の決まっている、一番の親友に会いに行くのだ。
私と親友との出会いは、私がお兄ちゃんと家族になるよりも前のこと、生まれたばかりの頃まで遡る。
小さな産院で隣のベッドに寝かされていた私たちは、目の開かないような頃から一緒だった、同い年の親友だ。
そんな彼女が難しい病気を持っていると分かったのはそれから二年と少し、私のお父さんが再婚して今のお母さんとお兄ちゃんが家族になってくれた頃のことで、私たちはまだ幼稚園にも入っていない頃のことだった。
当時まだ日本語の病名も付いていなかったくらいに珍しい彼女の病気は、私たちが高校生になった今もまだ治療法が見つかっていない。
成人するまで生きられば奇跡なのだと、そんなことを聞いたのはいつのことだっただろう。
私の親友、星空陽葵もまた、そんな病気を持って生まれた人たちの例に漏れず、小学校に上がる頃には入退院を繰り返すようになっていた。
だけど、私やヒナタにとって、それは特別なことじゃなかったんだ。
物心ついた頃にはそれは当たり前のことで、私が泣いたり笑ったりするくらいには、ヒナタが病気と闘うことも日常の一部だった。
高校生になった今ではほとんど病院から出ることの無くなったヒナタだけど、腕に点滴が付いている以外は、華奢で色白でちょっと小柄なだけの明るい普通の女の子だ。
笑顔のヒナタが出迎えてくれるヒナタ専用の病室は、家具や彼女の私物でコーディネートされていて私にとっては友達の部屋に遊びに行くのと一緒。
ヒナタの両親も仕事を早く終えてはヒナタのそばにいることも多くて、私は病院が面会を許可している日にはほとんど毎回友達の家に行く感覚でヒナタのところに遊びに行っていた。
最近ではヒナタの体調が悪くて面会できないって日もあるけれど、会って遊べた日にはヒナタはいつも変わらずお日様みたいに明るく笑ってくれて、私たちはその時間が何より大好きなのだ。
今日も無事に面会は叶い、面会終了になるまでの長いようで短い時間を、私がハマってるゲーム───乙女ゲームの『学ヒロ』───の話で盛り上がった。
本当はヒナタの分もゲームを用意して一緒にプレイできればいいんだけど、残念ながらヒナタの病室にはゲームもスマホも持ち込み禁止で、スマホのメッセージでやり取りするだけでも、ヒナタは誰かに頼むかベッドから出て部屋の外まで出てスマホを操作する必要がある。
ベッド周りにいくつも置かれた医療用の機器と、寝ながら見られるようにと高い天井に貼り付けるようにしてある薄っぺらいテレビだけが唯一、ヒナタの周りにあってもいい機械らしい。
体に障るからと、本や漫画も長時間は読めないヒナタは、私や家族がいない時間はほとんどをテレビを見て過ごしてるって言っていた。
だからかもしれない、私が訪ねて行くと、どんな小さなことでもヒナタはすごくワクワクした目をしてくれて、教えて教えてって聞いてくれる。
特に『学ヒロ』の話題になると食いつきが凄くて、前に私がヒナタも乙女ゲームが好きなの? って聞いたら、ゲームも面白そうで好きだけど、何より私の口から恋愛や友情のドキドキの話が聞けるのが楽しいんだって言われた。
そう言われればたしかに、私も逆の立場なら、ヒナタからゲームの話とはいえ恋の話なんかが聞けたらすごく面白そうだなって思う。
だから最近の私は毎日『学ヒロ』の攻略をせっせと進めては、ヒナタに会えるたびに誰のストーリーのどこまで進んだとかそんなことを報告して、推しのマルクスが格好可愛いかったとか、悪役の男がムカつくとか、全ルート共通の黒幕が腹黒すぎるとか、ヒロインがとにかく良い子だとか、逐一熱く語って聞かせるんだ。
……あーあ、ゲームさえ一緒にできれば、お小遣いの全部でも、バイトでも、お年玉の前借りでも何でもして、ヒナタの分の『学ヒロ』を用意するのに。
ヒナタはいつも、今のままで充分だよって笑う。
私が遊びに来て、両親が仕事以外の時間全部を注いでくれるから、愛されてて幸せなんだって、そんな風に曇りの無い笑顔で言う。
だけど、それでも私は、もしあの子の病気が治ったらって思っちゃう。
もう少しだけでも自由になればって思っちゃう。
色んなことをするヒナタ、色んな人と出会うヒナタ、色んな場所に行って、青空の下で笑うヒナタ。
あの子がお日さまみたいに明るく笑う子だから、余計にそう思う。
いつか広い広い空の下で、たくさんの友達に囲まれて、大はしゃぎしてケタケタ大きな声で笑うあの子が見れたらいいのに。
───────夕食の席で、遠く今日の記憶に想いを馳せていた私は、不思議そうに見てくるお兄ちゃんとお母さんの視線に気が付いてハッと意識を今に戻した。
「どした?」
「ううん、別に! あ、今日もねっ、ヒナタとゲームの話をしたり、学校の話とかしてきたんだよね。っそうそう! 今日あんまり話したことないクラスメイトが『アリス』のこと話してて、だから『学ヒロ』のこと知ってるんだって思って話しかけたこととかっ!」
「『アリス』?」
「あ、そうだよね、えっとね、アリスは私が好きな『学ヒロ』ってゲームに出てくるキャラなんだけど……」
「ふーん。で、やつ、って言うからには男子か」
「そうなの! 『学ヒロ』の男プレイヤーって珍しいからアリスのこと知ってるんだってすっごく嬉しかったんだから! それで興奮していきなり話しかけちゃった私も悪いんだけどさ、そいつってば、『アリス』は知ってても『学ヒロ』のことは知らないって言うのよ!? キャラだけ知ってるってどういうことよ、意味わかんない!」
「ふーん」
「だから、そいつに学ヒロもプレイしなさいよって言って、目一杯布教してやったわ!」
「ふっ、そうかよ」
はしゃいで話す私に対して、お兄ちゃんの返事はいつもどおりあっさりしたものだ。
いつもの食卓の、いつもの風景。
普段通りの兄妹の会話に安心したのか、お母さんもさっきまでの不安の影はすっかりなくなったみたいで可笑しそうにふふふって笑ってる。
「───なあ今日父さんは? 結局泊まりだって?」
あーんと鶏肉の最後の一口を口に入れながら、始まったサッカーを見ながらお母さんへと問いかけるお兄ちゃんはちょっとだけお行儀が悪い。
「んー……どうかしら、なるべく今日のうちに帰ってきたいって言っていたけど、もうこの時間よねえ。……そうね、連絡は来てないみたいだし、忙しいのね」
「えー!? そうなんだ! あーあ、どうせ今日も泊まりだね。 叔父さんってば、お父さんをこき使いすぎじゃない?」
「こらシオン、叔父さんを悪く言わないの」
今日はまだ、お父さんは仕事から帰って来ていない。
お父さんが夕食に間に合わないときは、大抵帰ってくるのが翌日になるから家族はもう慣れっこだ。
詳しくは知らないけど、お父さんの帰りが遅くなる日はたいてい叔父さんが継いだ実家の手伝いに行った日で、地元の祭りだ何だで人手不足のたびに呼び出されるお父さんは夜まで家を空けることが度々ある。
民俗学に詳しくて、普段は古い書物の翻訳や歴史書の校正なんかをお仕事にしているお父さんだけど、実家は地方の田舎の中でも山奥にある古い集落にあって、先祖代々神様を祭るお家の出身だって前に教えてもらった。
最初は長男のお父さんが実家の仕事を継いでいたらしいけど、今は弟の叔父さんがご当主になっているんだから、あまりお父さんを連れ回さないでほしいななんて思う私は薄情なんだろうか。
そういえば、私を産んだお母さんが亡くなるまでは、赤ちゃんだった私もお父さんと一緒にそんな田舎の山奥で暮らしてたんだとか。
その頃のことは赤ちゃん過ぎて覚えてないし、私を産んだお母さんのことはお父さんから聞かないままだから詳しいことは分からないけど、ヒナタの病気が分かって今住んでいる町にある大きな病院に移ったころに、私たち父娘も引っ越してきたんだと思う。
お父さんは今のお母さんと再婚したときに婿入りして『茶畑』姓になったけど、今でも叔父さんが継いだ実家の家業をこうして頻繁に手伝いに行っているってことは────きっとそういうことなんだと思う。
山奥の生まれ育った集落から海の近いこの町まで引っ越してきたのも、家督を弟さんに譲ったのも、お父さんの意志というより、私が幼馴染と一緒にいられるようにだったり、お母さんやお兄ちゃんという新しい家族との生活のためだったりしたんだろう。
鉄面皮で無口で分かりづらいお父さんだけど、誰より家族思いで責任感が強い人だというのを、私たち家族はよく知ってる。
神事だとか慰霊だとかお祭りだとか、田舎のほうではそういうのもまだまだ盛んに行われているらしく、お父さんが家を空ける日がこれからも続きそうだっていうのは、家族みんな薄々理解していることだった。
それでも、家族みんなが揃わない晩ご飯は寂しいけどね!
夕ご飯を終えれば、お兄ちゃんはすっかりテレビのサッカーに集中しきりになっちゃった。
お母さんは夕ご飯の片づけをしてくれていて、明日のお弁当は何がいいか聞いてくれる。
私は先に入っちゃってと勧めるお母さんに言われるまま、お風呂に入ることにした。
沸きたてのお風呂は、お母さんの好みでちょっと熱めで気持ちがいい。
まずは両脚、それからゆっくりと腿、腹、胸まで沈めていけば、あったかい湯舟に全身が溶けていくみたいで最高の気分。
肩までしっかりお湯に浸かった私はすっかり脱力した。
「お父さんも、夜くらい家でお風呂に浸かればいいのにね───…………」
気持ちよさにつむった瞼の裏に、お父さんのむすっとした顔が浮かぶ。
家族団らんってタイプでもないお父さんだけど、家族思いなのは間違いなくて、さらにお母さんに限っては輪をかけて甘い。気がする。
お母さんには特別優しいし、なんだかんだいつもラブラブに見えて、本当はもっとお母さんと一緒にいたいんじゃないかなって娘の私は勝手に思っているのだ。
私にはお兄ちゃんがいて、お母さんがいて、ヒナタがいて、それでも夕食にお父さんがいないと物足りない気持ちになるというのに、いつも忙しくしているお父さんはこんな夜中まで家族から離れて働いて、寂しくなったりしないのかな、なんて。
「ふあっ」
いかんこのままじゃ寝る、と、あくびを堪えながら、ささっと体を洗ってお風呂から上がる。
適当に髪を乾かしていると、今度こそ大きなあくびが出た。
寝る前にもうちょっとだけ、『学ヒロ』を進めておきたかったけど、ベッドに入ったらすぐに寝ちゃいそうだ。
今日ヒナタと話したアリスとの対決シーンをプレイしちゃいたかったんだけど、もう限界だった。
リビングにいるお兄ちゃんとお母さんにお風呂を上がったことを伝えておやすみなさいを言うと、自室のある二階に上がる。
部屋の電気を付けるのも億劫で、スマホを手探りで充電器に刺してベッドに飛び込んだ。
いよいよもう目が開かない。
さあ後は寝るだけだと目を閉じたところで、枕元で微かに聞き慣れた音が鳴っている気がした。
そういえば、夕食にお兄ちゃんが部屋まで呼びに来てくれたとき、プレイしていた『学ヒロ』を起動したままそのまま放置していた気がする。
最後にセーブしたのはいつだったか、充電切れしてまた長いストーリーパートをやるのは面倒くさい。
んんうぅ~~~~!
眠気に負けそうなところを、何とか最後の力を振り絞る。
私は枕に顔をうつ伏せたまま、手探りでやけくそにゲーム機を探し出すと、指の感触だけで電源ボタンを見つけた。
一度、指の腹で軽く押し込むと、ゲームは無事にスリープモードに切り替わったらしかった。
流れていたBGMが止み、これでひとまずは朝まで充電も持つだろう。
今日進めた分のセーブは起きてから改めてすればいい。
静かになった部屋で、お風呂で温まった体の温度がふかふかの布団からじんわりと返ってきて、我慢できないほどの睡魔に体と温度の境界が曖昧になっていく。
階下から、たまにテーブルの天板にカップを置く音がするのも、家族がいるという安心感が得られて心地がよかった。
ちょうどお兄ちゃんの見ていたサッカーが終わったのだろう、CMに変わり、再び幕間のニュースが始まるのが微かに響く音量の落とされたテレビの音だけで分かる。
『初公判の────』
『不審火の────』
日常どおりの音を聞きながら、強い眠気に逆らうことなく、深く深く沈んでいった。
意識が落ち切ろうとする間際、今日あった出来事が一つ一つ真っ暗な頭の中で瞬いて、高速道路のテールランプのように過ぎ去っていく。
『マルクス』
『ミシェル』
学ヒロのこと。
そうだ、攻略サイトにあった隠しキャラのルートも明日やってみよう。
眠りに落ちていく私は、波間に溶ける泡のように、深く、深く、落ちていく。
粒となって、波に飲まれ、弾け、ほどけて、散り散りになる。
消える意識の中で瞬くのは笑うあの子の顔。
『シオンちゃん』
笑うヒナタの、嬉しそうな顔。
いつもの笑顔の、可愛いあの子。
そうだ、次に会うまでに全キャラを攻略して驚かせてやろう。
あの子ってば、きっといつものお日さまみたいな笑顔になって、嬉しいって喜んでくれるだろうから────────…………。
そして世界は、黒と灼熱に染まった────────────。
◇ ◇ ◇
『──────そん、な………………………っ』
穏やかな、記憶のはずだった。
親友の存在も、父親の存在も、今初めて思い出せた。
前世の大切な存在を一人また一人と思い出せた喜びに満たされた。
期待しなかったわけがない、前世の記憶の続きを思い出すことができた。
しかし、そんな感傷は一転、突然襲いかかった理不尽によって無茶苦茶にされてしまった。
温かな日常、贅沢な願い、純粋な感情。
当たり前で尊いそれらを、それら一切を無視した巨大な悪意が塗りつぶしていく光景。
画面全てを赤の灼熱が覆い、黒く焼き尽くしていくのを、既にこちら側にいるレミはどうすることもできず、ただ茫然と見ていることしかできなかった。
次話からまたステラちゃんサイドに戻ります。





