ナイチンゲールの翼
もし、私が、無給で働けと言われたら、我儘な私は即座に拒否をするだろう。それは対価を求める私の基本的な欲求の為であり、勿論「無休で」働く場合にも、対価を利用する機会を求める貪欲な私の基本的欲求の為である。
かつて「クリミアの天使」と呼ばれたフローレンス・ナイチンゲールの事を知らないものは少ないだろう。彼女は献身的な看護によって称賛され、多くの人々の命を救ってみせた。
そう、自らの健康を犠牲にして、である。
しかし、彼女自身が健康を犠牲にしたように、彼女と共に仕事をした従軍医師や大臣もまた、過労の為に酷く苦しめられた事は現代まで伝わっているところである。彼女と共に働き過労死した人もあると言われ、彼女は実際に、「クリミアの天使」だったのかもしれない。
ナイチンゲールの偉大さを、彼女の献身に求める向きは、一見すると倫理的に正しいように思われる。しかし、私は時折、彼女をこのような理由で偉大であるという事に疑義を呈したくなるのだ。
もし仮に、彼女の献身こそが彼女の偉大さであったとするならば、彼女を昏倒させた世界さえ、正当化できてしまうだろう。私にとって、彼女の偉大さは全く別の所にある。
彼女は「看護師であり科学者であり、」「統計」によって自らの正しさを証明した人物である。自ら医療の現場において、「病院覚書」を作り、看護師を監視して仕事中の怠慢を許さず、多くの命を救って見せた「功利的」な偉人である。それを、献身と言う偉大さの為に大きく評価する事は、私にはどうしてもできない。その意味で、彼女は「クリミアの天使」とは呼べないのかもしれない。
翻って現代を見てみよう。今、私達は医療現場で、つまり前線で献身的に戦う素晴らしい人々の姿を間近で見ている。そのいずれの人物もが、もしかしたら私達の「被害者」であるのかもしれない。もし仮に、彼らの献身に価値を見出すとしたら、世界は自己犠牲に溢れる事が理想となるだろう。その先に待つ世界は、恐らく独裁社会になるのではないだろうか。前線で働く人々の献身を高く評価する事で、その人々に感謝できるならばよいが、そこに胡坐をかく私達がいるとすれば、そのような幸福は、彼らの首を絞める重りとなるのではないだろうか。彼らを絞首台に立たせているのは、一体、誰なのだろうか。




