人間の恐ろしさについて
人間が恐ろしいと言う事について、常々考えることがある。人間がより豊かに暮らす為に、人を騙したり、人を傷つけたりする事を正当化する事……。そうした事が人間の悪の本質であると考える事は少ない。私の中にある人間の悪辣たる所以は、自分達のあり方が正義に即したものだと確信した時に初めて現れる。
物語において主人公は多くの場合感情的に正しい所にあるように作られており、そうして作られた主人公達はなるほど確かに正義に即して見え、その対となるもの達は間違いを犯しているか、自分の利益にしか関心がない邪悪な人物としてしばしば描かれる。
しかし、現実は他者の評価によってある人のあり方が変わっていく。ある人が優しいと言う人物がある人にとって耐え難い事はしばしばあるし、善良な人物として描いたキャラクターも、ある人から見ればただ苛つかせる人物でしかない。
カントの言うように、人間はそれぞれに色眼鏡を持っており、関係が深まるごとにその人の本質が見えてくると言うのも事実ではない。
その人間にとっての評価だけが世界の全てであり、その人間の世界を形作るのは不特定多数の他者によって育まれ、幾重にも重ねられる色眼鏡である。
正義を確信した人間は彼らと異なる価値観を全て排除する強力な論理を手に入れ、正義に従って排斥する権利を手に入れる。自分の「信じる」ものだけが正しいので、彼らに反するものは全て悪であり、悪は裁かれるべきである。当然のことであろう。悪は排除しなければならないのだから。
少し重い話になってしまったので、仏教用語の話をしよう。信疑一如という言葉をご存知だろうか。信じていることと疑っていることは同じだ、という意味である。私たちは真実に対して「信じる」という言葉を用いない。何故なら、それは明らかなものだからであり、不確定な事象に対してしか、「信じる」事は出来ないのである。
だとすれば、神は「信じるもの」であり、正義は「貫く」ものであり、私達は神の存在を疑っているのかもしれない。正義は真理であるとすれば人間の真理は彼の中に内蔵する意識によってしか生じ得ない。では果たして、正義とは、真実なのであろうか。それこそが「虚構」なのではないだろうか。
私達が机に向かう時、例えば学ぶその時に、誰かの正義に従って称賛されたとして、それが社会にどう影響するだろうか?少なくとも、私は、これまで学んできた、或いは関心を持ち調べてきた物事が、実生活で役立ったことは無い。称賛されるべき学びさえ虚構であるとするならば、正義とは「信じるもの」に過ぎないのではないだろうか?そして、そうであるとするならば、正義は真実ではない。そして私が信じるこの思想もまた、真実ではない虚構である。
あらゆる現実が、信じる事によって構成されていく限り、世界の遍く正しさは、全て虚構であるのかもしれない。つまり、民主主義と君主制の間に、何らの正否も判断しえないのだろう。




