ナデシコ―『可憐な純情』
「ハンカチ、ありがとうございました」
「別にいい、それくらい」
何でもないように、私が持ってた邑先生のハンカチを受け取る。相変わらずの不愛想な言い方だったけど、ちょっとだけ、優しく聞こえた、ような気がする。
「私も返さなきゃな、……ありがとな、江川」
邑先生から渡された、私のハンカチ。しっとりと濡れたそれは、さっきのが、全部夢じゃないという事の証。邑先生の涙も、心に深く傷を入れた過去も、私のことを好きという感情も、恋人にはなれないという現実も。
「いえ、どういたしまして」
この恋は叶わないのに、私の中にあった黒いもやもやは薄らいでく。邑先生のことも、抱いてる気持ちも、その口から教えてもらえたから。
「じゃあ、私、行きますね……ありがとうございました、倉田先生」
さっきまで『邑先生』って呼んでたのを変えたのは、恥ずかしくなったとかじゃなくて、この心の距離に線を引くことの決意。
もう。ここから離れなきゃ。そのはず、だったのに。
「ちょっと、待ってくれないか……っ」
その決意のようなものは、あっけなく崩れる。邑先生が、服の袖を引っ張るから。その言葉には、何か切なそうな、でも決意のようなものが聞こえた気がする。
「何ですか?」
邑先生の顔、真っ赤になってる。そんな頭で、何を言おうとしてるんだろう。自然と高鳴る鼓動が、邑先生にも聞こえてしまいそう。
「あ、あのさ、江川……っ」
「はい?」
焦ってるような、悩んでるような声。初めて聞く声色に、私も、ドキドキしてしまう。
「私、まだ分からないんだ、恋とか愛とか……、でも、……信じさせて欲しい、その気持ち」
その言葉に、言葉を失う。その言葉の重さを、さっき聞いたばかりだから。信じられなかった気持ちを、信じたいってことは――。
「……だから、私と、付き合ってくれないか」
耳を疑って、太ももをつまむと確かな痛みがそこにあった、夢みたいな言葉は、紛れもない邑先生の本当の気持ち。
「……私で、いいんですか?」
「江川じゃないと、嫌だ」
邑先生が、こんな事で嘘をつくわけないことは分かってる。人の心の痛みを、一番分かってる人だから。
これが、邑先生の本物の気持ち。こんなに胸がときめくなんて初めて。
「もしかして、……嫌、だったか?」
「そんなことないですよ、邑先生……、お付き合い、しましょっか」
もう、私と邑先生の距離、離す必要なんてない。邑先生から、近づけてくれたから。
「……ありがとな」
その声はいつもよりも優しく聞こえて、頬が、赤く染まってる。
ぽんぽん、と頭を撫でてくれる邑先生。その手は、初めてあったときと同じで優しい。
「邑先生、顔真っ赤ですよ?」
「仕方ないだろ、……こういうの、初めてなんだから」
軽くからかうように言うと、いつもみたいな不愛想な言葉。でも、その声は、顔は、初めて見るくらい緩んだ微笑みで。
邑先生も、嬉しいんだ。邑先生に恋してから初めて胸に満ちる幸せに、私も満たされていく。
「ずっと、大好きです、邑先生」
「そんな事簡単に言うな、……ばか」
でも、頭を撫でてくれる手を、邑先生は止めないままでいて。
それだけで、『好き』って言われてるような気がした。
次で最終回。




