第140話『狂』
泰影さんから、「外の様子をみておいで。面白いよ」と言われた。
だから、僕は街へ出た。
行く当てもなく、ただフラフラと歩いた。
すれ違う人が、皆、笑っていた。
僕は、少し気持ち悪くなった。
――――――死んだ姉さんが、いた。
僕の目の前を、歩いていた。
多分、仕事終わりだったのだろう。
軽快な足取りで、家へと入っていた。
ただ当たり前であるかのように、そこに存在していた。
僕は、それを遠くから見ていた。
僕はまた、気持ち悪くなった。
この世界の「僕」も、見た。
友だちとくだらない話をしながら、学校から帰っていた。
そして、優しい姉さんの待つ家へと、入っていった。
姉さんと、『僕』は互いに声を交わし、笑顔を浮かべていた。
僕は、それも……遠くから眺めていた。
それを見て、何も思わなかった。
何も。
僕は。
心まで、変わってしまったのだろうか。
みんな、みんな。
笑っていた。
笑っていた。
笑っていた。
笑っていた。
僕は、吐いた。
胸に溜まった何かを、吐き出したくて。
僕は、何度も何度もそれを吐こうとした。
でも。
出てくるのは、酸っぱい液体ばかり。
どうして。
どうして。
みんな、笑っていられる?
みんな、何でそんなに笑顔で生きているんだろう。
――――――害虫が、いないから。
世界を歪ませる、クソどもがいないから。
悪霊、式神、清桜会、暁月。
旧型、新型、霊力、
十二天将、宮本新太、黛仁。
陰陽師――――――。
「なんだ」
胃の中のモノを吐ききって、口の中は血の味がした。
もう何も、出てこない。
「やっぱりそうじゃん」
吐いた胃液の中に、涙が一粒落ちた。
そして僕は、確信する。
「はは」
たった一つの揺るぎない、事実。
「はははっ……!」
両の目から、零れるモノ。
それを拭うことを、僕はもう、しない。
「ハハハハハハハっ!!!!!」
――――――やっぱり。
この世界を、正しい姿にしないと。
僕が。
この手で。
***
「服部……」
目の前の少年が呟いた言葉を聞いて、奏多の頭をよぎったのは自身のクラスの担任。
以前、年の離れた弟がいるとどこかで聞いたことがある。
そしてその弟が、今現在中学生であるとも。
頭髪の色は違えど、確かにどこか面影はある……、ような気がする。
「先生の……?」
眼前の少年を仮に先生の弟と仮定して。
どうして俺たちを?
なぜ天后を狙う?
というか、この少年は。
本当にこの世界の先生の弟なのか?
否。
この少年は、向こうの世界からの来訪者に他ならない。
天后を狙い、そして天后と同質の霊力を扱う。
その事実が、彼の所在証明。
「―――――!!」
転瞬。
少年から放たれる、禍々しい霊力の奔流。
霊力とは人の感情が作用する、と天后が言っていた。
少年の霊力に込められているのは、純粋なまでの負の感情。
その漆黒の瞳の奥に宿るのは―――――深淵。
天后という十二天将と接触し、霊力感知が可能になった今の奏多には分かった。
「……!」
息を呑む。
冷や汗が頬を伝う。
全身が警鐘を鳴らしている。
生存本能が「逃走」を促す。
この少年が、内に宿すモノ。
それは――――――。
『お前が身に纏っている、その霊力!!
それは柊の家のもの!』
「……」
額に玉のような汗を浮かべながら、声を荒げる天后。。
しかし。
目の前の白髪の少年は感情の機微のない表情で、ただ俺たちのことを静観している。
『『太陰』……、先の霊災で死んだ柊御琴の式神のはずじゃ!!
それを」
不意に。
天后の声が遮られる。
「「――――――!!」」
―――――いつの間に。
目の前にいた白髪が、俺らのすぐ傍に佇み、天后の口を塞いでいた。
「天后っ!!!」
「……」
『~~~~~~!!!』
ゆっくりと宙に浮かぶ天后の小さい体。
無理矢理持ち上げられ、苦し気に周囲に響く呻く声。
天后の涙で濡れた瞳が、―――――俺の姿を捉える。
交錯する視線。
それは、一瞬にも満たない刹那。
俺の中で、――――――何かが弾けた。
「……っ!!
お前っ、何してんだぁっ!!!!!」
気付けば。
俺は掌を固く握り、白髪へと拳を振りかぶっていた。
そして。
辺りに響き渡る鈍い音。
手に残る嫌な感触――――――。
「……!!」
「……」
初めて人を殴った。
手加減なんてとっくに忘れていた。
白髪の口の端からは血が滲み、酷く痛そうだった。
「何……で……?」
――――――無。
自身を殴ったはずの俺へと視線を向けることもなく。
まるで何事もなかったかのように。
俺なんて眼中にないというように。
ただ真っすぐに、空虚な瞳で天后を見ている。
「……っ、やめろっ!!!」
天后への狼藉を止めるべく、もう一度、拳を振り上げた時だった。
「――――――!!!!」
俺の全身を襲う衝撃。
それと同時に聞こえてくる、来栖の悲鳴――――――。
遅れて生じる鈍痛。
視界が、明滅していた。
何とか視界を固定し前方を見ると。
先ほどよりも、ずっと遠くに天后と白髪がいた。
吹き飛ばされたのか、俺。
固い感触。
……木?
そうか、後ろの拝殿に……。
全身が強打され、呼吸をするのも苦しい。
血の味がする口で食いしばり、動こうとするが……、俺の体はうんともすんとも言わない。
ドロリとしたものが頭から伝う。
それに伴い、紅く染まる視界―――――。
血。
多分……、俺の。
「……」
もうもうと砂煙が舞い、遠くに見える天后と白髪を隠す。
「~~~~~~!!!
~~~~~~!!」
来栖の声。
強い耳鳴りの中では、何を言っているかは分からないけど、こちらを向いて何か叫んでいる。
頼む、来栖。
逃げて。
ごめん、俺のせいで。
こんなことに巻き込んでしまって。
来栖は、こぶしを握り締め白髪の方を向いた。
――――――やめろ。
来栖。
やめてくれ。
ダメだ。
殺され――――――。
来栖の拳が白髪に到達する前に。
来栖の体は、消える。
そして。
地を揺らす衝撃の後に、再度その濃度を増す砂煙。
俺のすぐ隣。
崩壊した拝殿の柱が、俺と来栖を隔てていた。
霞む視界で、力なく項垂れている来栖を捉える。
その瞳は閉じられていて、全身から血の気が引き、生じた裂傷が来栖の綺麗な肌を紅く染める――――――。
どうして。
どうして。
こんなことが、できる?
白髪は未だに、天后を掴んだまま――――――。




