7.鍵を握るは眠りねずみ
指輪?後ろを見ようとした私の視界を、長官の手のひらが遮った。
振り返ると、銀灰色の瞳が私を見下ろしている――何かしら、見えない圧を感じる。
「ルルは俺とお話しような。」
《…はい》
「マティに不満はないか?」
頭を左右に振ってみた。
そうかそうかと笑うこの方は、マティアス殿下の親友とか、幼馴染というところだろうか。そしてアーレンツ王国では、動物に話しかけるのはあまり珍しい事ではないのかも。
背中を撫でる力は殿下より強くて、悪気はないのだろうけど、つい少しだけ避けてしまう。
「ん?俺では嫌か。そうか」
「ヒルベルト」
「おう」
殿下が右手を差し出して、長官がそれをガッと掴む。
握手でもなんでもない握り方、何をしているのかしら。私がそれを見上げていたのも数秒のこと、手はすぐに離れて、殿下の中指には銀色の指輪が見えた。あまり特別には思えない、質素な物。
「何も変わらないな。」
「俺がここに来た時点で、結果はわかってただろう。」
「ま、念のためだ。それくらい心配させてくれてもいいだろ、マティ。」
長官の言葉に、殿下はどうしてか少し眉を顰めた。
差し出された左手にてちてちと乗り込んで、私は元通りポケットに納まる。指輪に何の意味があったのかしら。何もないって事はないのでしょうけれど。
「どちらにせよ、ルルの事は良い出会いだったな。逃げられないよう気を付けろ」
「…わかってる。後でブラムにも顔合わせさせておく」
「それがいいな」
部屋に来た時、長官が言っていた名前だ。殿下の部下かしら?
ケイスみたいな変人だったらどうしましょうと思いながら、私は長官に乱された毛をくしくしと整えた。
「王女殿下の事はうちの部署でも見張ってる。何かあれば教えよう」
「頼んだ。クロイツェルに貸しを作る良い機会だからな」
あら。殿下はそんな事を考えていたのね。
確かに表敬訪問した王女が偽物と入れ替わっていて、それをクロイツェルが知らなかった、なんて。公にされたらとんでもない醜聞だわ。
ここぞとばかりにヴァルトルーデの悪評も出回るでしょうし、口止め料として何をお求めになるつもりなのやら……。
長官の部屋を出て、外に停めてある馬車へと戻った。
窓の額縁に乗って振り返ると、殿下は難しい顔で考え込んでいて。それが政治的なものとも違うように思えて、私はつい声をかけた。
《殿下……大丈夫ですか?マティアス殿下。》
「…気にしなくていい、ルル。あの人に会うと、どうしても思う所があってな。」
思う所とは?
こんなねずみに話す気にはならないかしら。話を聞く事だけならできるのに。
額縁の端へ寄って、距離を見た。殿下のところへ飛び移れるかしら?
「どうした。危ないぞ」
降りたがっているのがわかったのだろう、殿下が手を差し出してくれた。
ありがたく乗らせてもらって、殿下の膝へ、座席へとぴょんぴょん降りる。私を見下ろす殿下と目を合わせて、ゆっくり頷いてみせて。
《無理に聞きませんが――まぁ、聞きようもないけれど――…お傍におりますからね。》
チーチーと鳴いて、座席の上で丸まった。殿下の太腿に背をつけるようにして。
小さい頃、王女という肩書きが息苦しく思えて憂鬱だった私に、カルラが「お傍にいますから」と寄り添ってくれた事があった。
たとえ最終的に私を裏切ったとしても……あの頃の私は間違いなく、カルラに救われたのだ。
するりと、肌触りの良い布がかけられる。
私が昨夜寝床にしていたのと同じ、シルクのハンカチ。
背中の温かさを感じながら目を閉じた私は、殿下の香りに包まれていた。
◇
ルルと名付けたねずみは、無防備にすぅすぅと眠っている。
蛇竜の真眼を用いた指輪をつけたまま、俺はそれを見ていた。
単純にひどく賢い個体か、ハムスターは元からそうなのか。
かなり低い可能性としては「見せかけでなく実体ごと人間からハムスターに変化する魔法」だが、それは流石にないだろう。被害者にせよ自力にせよ、能天気が過ぎる。
指輪をつけて見てみろと言ったヒルベルトを思い出して、目を伏せた。
ヒルベルト・デルクス伯爵。
アーレンツ王国騎士団の情報統括局第一部長官。
『ま、念のためだ。それくらい心配させてくれてもいいだろ、マティ。』
……自分に都合の良い時ばかり、兄面をする。
俺には自分を兄と呼ぶなと言ったくせに。気の置けない臣下としてでも扱えと言うくせに。
父上の私生児、ヒルベルト・レフィ・アーレンツ。
言語理解に留まる俺の魔法など比べるまでもない、他を圧倒する強力な魔法の持ち主。人を使うのが上手く、頭も切れる。
自分が王太子である事に不満はないが、ヒルベルトでも良かっただろうとは思う。何年か前「俺にはこれくらいの役が丁度いい」などと笑っていた時には、まだ若かった俺は怒鳴りかけてしまったものだ。
それがヒルベルトの本心だったのか、嫡出子である俺への遠慮だったのかはわからない。
情報統括局に信頼できる身内がいるのも助かっている、わかっている。すべて、俺には都合が良い事だ。
だとしても、会った後には少しだけ、苦い心地が残る。それが常だった。
《無理に聞きませんが――まぁ、聞きようもないけれど――…お傍におりますからね。》
言葉が通じないと思っている時ほど、本音ばかりが出る。それは人も獣も変わらない。
だから俺は毎朝起きたら固有魔法を発動し、寝る前に解いている。
俺がわからないだろうと思って異国の言葉で罵る輩、諍いを起こさせるために敢えて誤った意味を伝える通訳。そういった愚かな人間をあぶり出すには使える魔法だ。
「ルル」
起こさないように小さく、名前を呼ぶ。
偽の王女の近くにいたという君は、これまでどう生きていたのか。
俺が書き留めた「自分の言葉を信用させる魔法」を見て、ヒルベルトは「大物だな」と意気込んでいたが……どうするか。
精神干渉系に共通する解除方法は、術者を気絶させる事だ。
仮にもアーレンツを訪れている他国の王女として、クロイツェル側の付き人達も本人と信じきっている状態。
認識を操作されている人間が指輪に触れても解除はできるが、何人が対象なのか。
見た目を偽ったこの指輪は俺にとっての命綱。今後を考えても、存在をよそに教えてやるのは危険すぎる。ゆえに逐一触れさせるような真似はできない。
「……思った以上に、君は鍵を握っているかもしれないな。」
言ってしまえば「たかがねずみ」、偽王女の魔法まで知っているとは思わなかった。昨夜色々と間抜けな姿を見たせいか、ルルの頭脳を侮っていたかもしれない。
どんな夢の中にいるのか、小さなねずみをじっと見下ろしてみる。
「ルル」
《…む……はい…》
「君は人間だったりするのか?」
《……そんな…立派な雇われハムスターになるって、言ったじゃないですかっ!》
「怒るな」
寝言が激しい性質なのか、あるいは俺が話しかけたせいなのか。
両足で細かく宙を蹴り出したルルに、ずり落ちたハンカチをそっとかぶせておいた。まさか、夢の中で蹴られているのは俺か?
「寝言で返事とは、器用だな。」
《……うい…》
また返事をした。
物は試しだ。情報の整合性は後で考えるとして、覚醒前の今、聞けるだけ聞いてみるか。
「君はクロイツェルのどこから来た?」
《…お城……五の塔》
「五の塔?」
《はじめて入った……あんまり、物がなくて…静かで……》
「そこから、どうやって王女の一団に紛れた?」
《……?ふつう、に》
ルルの返事はか細く、注意して聞いていなければ聞き逃してしまいそうだ。
少し身を傾け、耳を近付ける。
「なぜ、王女が偽物だと知ったんだ?」
《最初から、そうだったから……あの子は、カルラは影として…来た子だから》
カルラ。
偽物の名前か。俺はつい眉を顰めた。
そこまで知っているとなれば、ルルが人間なら消されている。ねずみだからこそ見逃された――いや。そもそもあちらはルルの存在を知らないとも言っていたな。
「本物のヴァルトルーデ王女はどうなったんだ。」
《……殿下が、知ってる》
「殿下?」
クロイツェルの王太子か?第一王女か、あるいは第二王子か。
遺体が処理されたという事か、幽閉されているのか。詳しく聞こうと改めて見下ろせば、ルルは口元をふにゃりと動かした。
《ふふっ…おかしなこと……王女だった頃より、幸せみたい》
何かと思えば、笑ったのか。
いやそれよりも、どういう事だ?まさか王女は内密に市井に下った?納得した上での成り代わりなら、王女自身は「今後は偽物の好きにすればいい」と思ったのかもしれないが。
そこまで考えて、偽物の魔法が「言葉を信じさせる」ものだと思い出す。
ルルは王女が幸せなようだと言ったが、洗脳系の魔法が関わっているなら実態は怪しい。幸福だと信じ込まされているのではないか。
アーレンツにとっては「偽の王女を寄越したかどうか」をクロイツェルに問うものであり、関知していないなら暴いてやった礼を得るだけのこと。
王女のその後についてはそこまで重要ではなく、もし見つかればさらに礼を要求できるかといった程度だが。
「ルル。本物のヴァルトルーデ王女は無事なのか?どこに行った。」
《…もちろん無事、で……うぅ…?》
もぞもぞ動いて、起き上がったルルはぶるりと体を震わせた。
流石に話しかけ過ぎて意識が覚醒したらしい。呑気にも全身で伸びをしている。
《ふうぅ。殿下、城まではもうしばしですか?》
「……起きたか。」
どうやら自分が喋っていた事は記憶にないらしい。
指先で頭から背中までなぞってやると、温かい生き物は心地よさそうに目を閉じた。
「ルル」
《ふぁい…》
「本物のヴァルトルーデ王女は、どこにいると思う?」
《ええぇ、何ですかいきなり……?》
まだ眠たそうに目を瞬き、ルルはか細く鳴いている。
肯定か否定で返せるように問うべきか。俺は質問を変えた。
「クロイツェルにいるか?」
《いいーえっ》
ルルが頭を横に振る。
特段、俺に対して秘密にする気はないらしいが…クロイツェルにいない?なぜ?
「…アーレンツにいるのか?」
《はいっ》
「どこに?」
《ね!さすがの殿下も想像つきませんよね。ふふ》
肯定か否定で返せるように思っていたはずが、目を見開いて咄嗟に聞き返してしまった。
ルル。お前はどこまで知っている?
「まさか、偽王女に監禁されているのか。共に花の離宮へ?」
《いえ、いえいえ!全然それは、関係ないところなので。》
否定だと。
もしや身の危険を感じ、信用できる者と一緒に逃げたのか?
さらに質問を重ねようとしたところで、馬車が止まった。




