6.ポケットの中の王女様
お腹も満たして支度を整え、私はマティアス殿下の胸ポケットからひょこりと顔を出してみる。
横からべっとりした視線を注いでくるケイスが、眼鏡を押さえて一歩よろめいた。
「くっ、私も胸ポケットのある服で来ていれば…!」
《嫌です》
「諦めろ」
ケイスは「やってみないとわからないでしょう」とか何とか言っているけれど、彼のポケットに入るのは御免だ。
上から聞こえる息遣いが荒くなっていきそうだし、匂いとか嗅いできそうだし、出た後で虫眼鏡か何かをつかって抜けた毛がないか確認していそう。……偏見かしら?
でもそれくらいの印象を抱いても仕方ないでしょう、目覚めてすぐのあれこれは、私にはちょっと衝撃的すぎたのだ。
マティアス殿下が姿見の前に立つ。
理知的で整ったお顔立ち、長い手足に、きっと鍛えているのでしょうお体は腰に提げた剣を振るにも問題ないように思える。……騎士がいるのに、剣を持ち歩くのね?魔物が多い国ならではかしら。
そして紺色の上着の胸ポケットには白いハンカチ…ではなく、白っぽい灰色のねずみがちょんと納まっている。私がいる事で、殿下の王族としての格をふにゃりと和らげてしまっている気がした。
《自分で言うのもなんですが、可愛らしい状態なのですけれど。よいのですか?》
殿下を見上げて聞いてみると、こちらを見た殿下は指先でちょいちょいと頭を撫でてくれた。撫でてとねだったわけではない。でも心地よいので、大人しく目を閉じて撫でられておきましょう。
「では行ってくる。」
「はい。行ってらっしゃいませ」
ケイスを残して部屋を出ると、扉の前を護衛していたらしい騎士が静かに礼をする。
殿下が当然のように歩いていく城の廊下を、私はポケットからきょろきょろと見渡していた。何かあった時のために、できるだけ道を覚えておかなくちゃ。
道行く人々は殿下に挨拶しながら、意外と気付かない人もいて。
気付いた人は目を丸くして瞬くものだから、ちょっと面白い。「殿下、そちらは…?」と聞ける人は少数派だ。驚いてる間に殿下は通り過ぎてしまう。
……改めて考えても変な状況ね、私がアーレンツの王太子殿下のポケットに入ってるなんて。
殿下だって、まさかポケットのねずみがクロイツェルの本物の第二王女だとは思ってもないでしょう。
どこへ行くのか、殿下はやがて馬車に乗った。
カタカタと動き出してようやく、私を出して窓の額縁に乗せてくれる。
「大丈夫だったか?」
《はい》
こっくりと頷いて答えれば、殿下が目を細めて笑う。「いい子だ」とくしくし頭を撫でられて、……癖になったらどうしましょう。私、いつかは人間としての生活を取り戻すつもりなのだけど。
「これから会うのは俺の身内だ。君を傷付ける事はないから安心するといい」
またこっくり頷いてみせる。
殿下が「今は鳴いても構わんぞ」と仰るので、意味はないのだけど、私は口を開いた。
《マティアス殿下。今日は私の初出勤ですけれど、何をしたらいいのでしょう?》
首を傾げて聞いてみたものの、殿下の返事はない。
頭から背中まで撫でられて、立っているのをやめた私はぺちゃりと額縁に伏せた。あああ…このまま溶けてしまいそう。
「…君に本格的に働いてもらうのは、訓練した後になるだろう。」
《訓練。確かに、そういったものが必要かもしれませんね。》
「来たばかりだ。今は場所を覚え、環境に慣れる事を優先しておけ」
《はい、殿下。》
私がある程度人語を理解するねずみだとわかっているからだろう、マティアス殿下はきちんと方針を話してくださるのね。場所を案内してくれる事も含め、それはとても助かる。
ケイスの口ぶりからしても、殿下は動物によく慣れているのでしょう。色々と読み取ってくださるのでかなり楽だ。うっとり大人しく撫でられていると、殿下が苦笑した。
「もう少し人を警戒した方がいいな。よほど、前の飼い主に良くされていたか?」
《いえ…殿下が初めての飼い主ですよ。》
働き手にあるまじきウトウト姿を雇い主に見せながら、私はか細い鳴き声で答える。
《貴方の手から、声から、信頼できる人だと伝わってくるから。だから、信じられます。》
十年以上一緒にいたカルラに嵌められてしまった私の感覚なんて、あまり当てにならないかもしれないけど。
マティアス殿下は捕まえた後は私に乱暴しなかったし、ご飯をくれて、寝床をくれて、仕事もくれた恩人である。今朝は変態からも助けてくれた。
「ルル」
《…はい……むにゃ…》
殿下の大きな手は、陽だまりみたいに温かくて。
十八歳にもなった大人なのに、私は小さな女の子みたいにへにゃりと笑って。
今は気を張らなくていい。王女じゃなくていい。
この大きな手のひらに、ただ寄り添っていればいい――なんて気楽で、穏やかな時間。仮初の居場所である事が惜しいくらい。
《私…立派な雇われハムスターとして、がんばりますからね…でんか……》
小さくなった私の長所と言えば、人間の頭脳と言語理解力を持ってあちこちに忍び込める事だろう。文字が読める事は伝えようもないし、もし伝えられたら流石に怪しいけど。
ご飯と寝床をくれて撫でてもくれるこの方のために、賢いねずみことハムスター王女な私、やれる事はやろうと思います。
「……人間が、君達くらい純粋な者ばかりなら良かったんだが。」
そうもいかないな、なんて、殿下が呟いたような気がして。
その意味を考えるより早く、私はとろんと眠りに落ちていた。
ガタンと馬車が揺れ、覚醒するより早く手を差し伸べられる。
あくびを堪えてその手に乗ると、ポケットにぽすりと落とされた。もうちょっと淑女として扱う事はできないでしょうか。くしゃくしゃになった髪――毛をちょいちょい直しながら、顔を出す。
馬車の扉が開いた。
「到着致しました。」
「ご苦労」
《ご苦労さまです》
殿下が足台を降りる揺れを感じながら、きょろりと見回してみる。
城壁と比べても堅牢な造り、軍部の建物かしら?馬車は門の内側まで入っていたようで、ほんの少し先が建物の入り口だ。玄関で待っていた騎士が扉を開けてくれる。
つやつやした石の床に、案内役と殿下の足音が響いた。
「デルクス長官。王太子殿下がお見えです」
「おう。どーぞ」
あら……身内と仰っていたけれど、それにしたって気安い返事だ。
どんな方が中にいらっしゃるのかしら。扉が開いて入室すると、案内役の方は一礼して去っていった。応接用のテーブルセットの向こう、執務机を前に男性が座っている。
ギイと背もたれを鳴らして、彼はにやりと口角を上げた。
「ブラムに頼まないで直接来るとは珍しいな。マティ」
「今回はその方が良いと思ったまでだ。」
三十歳までいかないでしょうけれど、殿下より年上なのは間違いない。
肩につく長さの金髪に銀灰色の瞳。デルクス長官と呼ばれた彼はすぐ私に気付いたようだ。
「随分とカワイイのを連れてるじゃないか。女受けが良さそうだ」
「ヒルベルト。冗談は抜きにして聞きたい、貴方はこの生物を知っているか?」
殿下が目の前に手を出したので、私はポケットの中でよじよじと足の爪を引っ掛けて体を持ち上げ、そこに乗り移った。
絨毯の上を進んだ殿下が、長官の机に私を置く。
《こんにちは。ルルです》
「少なくとも、アーレンツに棲んでるねずみじゃないな。うん……色と模様は違うが、西方の生物図鑑で見かけた気がする。ハムスターとか言ったな」
《それです!》
「…ちいこいの。人を指差すもんじゃないぜ?」
《あら、これは失礼を。》
「なんだこいつ。賢いな」
ヒルベルト・デルクス長官は片眉を上げて首を傾げた。
ええ私、賢いねずみとしてやらせて頂いております。
「ハムスターは魔物なのか?」
「魔物なわけないだろ。」
恐らくは脚を組みながら、長官は机に置かれていたコーヒーカップを手に取る。
ごくりと飲んで頬杖をついたあたり、そして王太子殿下を前に立ち上がる気配がまったくないあたり、本当にお二人は気の置けない仲らしい。長官がじろじろと私を眺めている。
「だが、魔力があるだけの生物って可能性はまぁ、あるんじゃないか。俺達人間だって、魔力はあるが魔物じゃないだろ。所詮はヒトが付けた勝手な呼称だしな。」
ずいと指を差し出されたので、私はひとまずポンと手で叩いてみた。
どうでしょうかと見上げてみると、長官はとうにこちらなど見ていない。
「新しいペットなんか飼ってないで、お前は早く嫁を決めてこい、嫁を。クロイツェルの王女を呼んだのも、元はその関係だろ?」
《えっ、そうなのですか?》
「陛下の方針がどうあれ、王女殿下は少なくとも対象外だ。」
「潔癖だもんな、お前。」
ただの表敬訪問と聞いていたけれど……お父様としては、マティアス殿下のお眼鏡に適えば何よりという考えがあったのかもしれない。
できるだけ秘匿されているとはいえ、城内の大勢に醜聞が知られている娘。アーレンツ王国との架け橋になって出て行ってくれるなら、それが一番だったのだろう。
……魅了系の魔法を疑うくらいだ、殿下は私の噂なんてとうに知っていそうだけれど。
「俺にあの方の噂を伝えたのは貴方だろうが。」
「伝えなくても面白そうだったが、万一お前が篭絡されたら国がやばいんでな。流石の俺もそこまでしないさ」
驚いた。情報源はこの長官だったらしい。
殿下が私を拾ったのは昨夜だと伝えると、長官は改めて私を見下ろした。
「なぁ、ハムハム。」
《はむはむ?》
「クロイツェルの王女について何か知らないか?」
《知ってはいますよ。言っても細かく伝わらないのが、もどかしいけれど。》
こくりと大きく頷いて見せれば、長官がぴくりと眉を上げる。
私が元の姿に戻る時には、この方達の協力を得られるかどうかが大きいかもしれない。
「何を知ってる?魅了の魔法を使うとか、毒を持っているとか。」
《あの子が使うのはたぶん、自分の言葉を信用させる魔法です。だから影武者でありながら、自分が本物だと周囲に信じ込ませる事ができた。》
「……チュイチュイとよく喋るな。ハムハムからチュチュに改名するか」
《ルルです》
顔を左右に振って答えてみた。拒否である。
「一応、ルルと名付けてある。」
「呼びやすいな。採用」
既に採用された名前なのだけど。
ようやっと立ち上がった長官は、高いところからずいと顔を近づけて私を指した。
「なぁ、ルル。何かしら答えてくれたようだが、お前はなぜ王女の事を知ってるんだ?」
《すぐ近くにいましたからね。向こうはこんなねずみなんて知らないけれど。》
礼儀として話しはするものの、私は困ってしまった。
どうせなら肯定か否定で答えられる質問にしてほしい。貴方達には伝わらないのだから。
助けを求めてマティアス殿下を振り返ってみたけど、長官のペンを借りて何か書き留めておられるようで、私を見ていない。
「広い城内でよくマティの部屋がわかったな。誰に聞いたんだ?」
《ワゴンで運ばれただけで、誰に聞いたわけでもないのですよ。幸運だったとは思いますが》
「…随分頑張ってチーチーと説明してくれるな。言葉が通じるわけでもあるまいに」
《通じたらよかったのですけどね。》
「まぁ、仮にこちらの言葉をはっきり理解できていたとして。やましい事はなさそうだな。」
《つつかないでくださいっ!》
「おお、怒った。」
横からチョンとされるのは苦手なのだ。
ヂヂィと抗議した私に、再び椅子に腰かけた長官は両手を軽く上げて降参の姿勢をとった。
「マティ、例の件はどうなったんだ?」
「今書き終えた。これだ」
殿下が差し出したメモを受け取り、長官はそれに目を通す。
瞳を丸くして、面白いものを見つけたかのように口角を上げた。
「へぇ……なるほどな。こりゃあ大物だ。指輪の件、ユリユリに早めに頼んどいて正解だったな。」
「それについては感謝する。」
「なあ、今つけてみてくれよ。持ってるだろ?」
※指輪を頼まれたユリユリの物語はこちらの連載:
「放置されたい私と何も知らない旦那様」




