5.何より大切で何より大事な、
物心ついた時にはもう、私はヴァルトルーデ様の影だった。
綺麗な銀髪で、きらきらした青い瞳はずっと見ていたいくらい。睫毛が長くて、澄ました顔も美人さんだけど、笑った顔が可愛くて。
明るくて、楽しくて、物知りで、ヴァルトルーデ様が大好きだった。
私のお仕事は真似っこ。
なんにも苦痛じゃなかった、だって私はヴァルトルーデ様みたいになりたい。
明るく笑って、楽しいように考えて、必死に勉強した。ヴァルトルーデ様がスッと覚える事を、私は三回も五回もやらなきゃ覚えられなかった。
できなかったら自分はどうなるんだろうと考えて、それはきっともう「ヴァルトルーデ様になれない」んだと思うと、怖くて、それだけは嫌で。
ヴァルトルーデ様が眠っている間も懸命に勉強を続けていた。
わざわざ言ったりしなかった、だって私は唯一無二の、貴女になれる女の子。
『私って、王女が向いてないんじゃないかしら。結構な能天気だもの』
『そうでしょうか?からっとしていて前向きで、素敵なお姫様だと思いますよ。』
『ふふ。私が明るくいられるのは、カルラが居てくれるからよ。一人では耐えられなかったかも』
『そんなこと、』
ない。
軽い気持ちで言おうとした「そんなことない」で、私は、そんなことないと思い知った。
考えた事もなかったけれど、そうだ。
私がいなくたってこの方は、明るく笑って生きていけるんだわ。
私は貴女という見本がなければ、どう息をすればいいかもわからないのに。
背筋を伸ばして堂々と立っていられるのも、当たり前のように心から笑顔を浮かべられるのも、貴女の存在があるからこそなのに。
ああ、なんて、
『不公平』
夜中に一人きりで呟いたその言葉が、私を呪った。
だって、私はヴァルトルーデ様になれるのに。
ヴァルトルーデ様と同じ事ができるのに、同じなのに、私はヴァルトルーデ様なのに、どうして。
どうして同じように私を想ってくれないの。
『ヴァルトルーデ様』
『どうしたの?カルラ』
私はヴァルトルーデ様であって、カルラじゃない。
友人を見る目で私を見ないで、私は貴女自身でなければいけないの。私達、鏡のようでなければ。互いをずっと見ているの、同じでないといけないから、ずっと。
私は貴女。
『そろそろ、ヴァルトルーデの相手も考えねばならないな。』
『陛下の仰る通りです。まずは候補を…』
おぞましい計画を知って、表情が抜け落ちた。いけない、ヴァルトルーデ様の微笑みを作らなきゃ。
でもどうしましょう、なぜわからないのかしら?
完璧なヴァルトルーデ様に結婚相手なんかいらないのに。
『えっ、お父様がそんな事を?』
『気が早いですよね、結婚相手だなんて。』
『……私はもう十六だもの。待ってくれた方だわ』
『えっ?』
ヴァルトルーデ様はお一人で立っていればそれでいい。
隣に男なんていらない。後ろに私がいるから、それだけでいいから。
それだけでいいでしょう?
『ヴァルトルーデ様は、結婚したいのですか?』
『いつかはね。王女に生まれた以上はそれも務めだわ』
私はどうなるの?
『カルラ。貴女がもし私の影をやめて、自分の人生を歩みたいなら――…』
聞きたくない。聞きたくない。
今更何を言うの?私はヴァルトルーデ様なのに、王城から放り出されたらどうやって生きていけと?お金の話なんかいらない、私はヴァルトルーデ様だから、「辞める」なんて無いでしょう?
『私はもちろん、ずっとお役に立ちますよ。』
『…いつもありがとう。カルラ』
違うの、私はヴァルトルーデ・アンネリーエ・クロイツェル。
カルラなんていない、私はヴァルトルーデ。
私は。
『王女殿下?』
気が付いたら、寝衣のまま夜の城を歩いていたらしい。
声を掛けられ振り向くと、騎士は目を丸くして私を凝視していた。喉仏がごくりと動くのが見える。男なんて、そんなものだろう。使用人から漏れ聞こえる下世話な噂話で、男が単純な事くらいわかっていた。
わかった気になっていた。
『どうして目をそらすのかしら。』
『い、いえ!その、なぜこちらに?ともかく、お体を冷やすといけないので――』
私が腕に触れると黙る。
顔を赤くした騎士が、十六歳の王女に何を思っているのか。無性に可笑しくなって、唇が弧を描く。からかってやろうと思ってしまった。
所詮、王女である私に無体を働けるはずもないから。
『眠れないの。少し相手をしてくれないかしら』
『お戯れを。殿下、自分は』
『ね……名前で呼んで』
身を寄せてうっとりと囁いた。
ヴァルトルーデ様がこうしたらきっと、世の男は皆陥落してしまうだろう。
美しくて綺麗で可愛くてお茶目で、全部を持ってる私のヴァルトルーデ様。
完璧な貴女になるために、色んな貴女が見たかった。
見られないから、「こんな感じかしら」と試したかった。
明かりもつけずに空いた客室へ忍びこんで、暗いまま。名前も知らない騎士の胸元にしなだれかかって。
なんて言うかしら、あのヴァルトルーデ様が、どんな言葉を吐いたら素敵かしら?
上着の下、手のひらにどくどくと心臓の鼓動が伝わってくる。人肌の温かさ。少女のようにヴァルトルーデ様と抱き合ったのは、どれくらい前の事だろう。
ため息をつきたい気持ちで指先を滑らせると、騎士の身体が震えた。
『っ……ヴァルトルーデ様、これ以上は…!』
その時、当たり前の事を理解した。
『ふふ』
私を「ヴァルトルーデ様」と呼んでくれるのは、ヴァルトルーデ様じゃない。
むしろ、ヴァルトルーデ様以外の人だけが、私をそう呼ぶのだと。
体の奥底をぞくりと快感が走った。
私はヴァルトルーデ。
私が。
私こそが、あのヴァルトルーデ・アンネリーエ・クロイツェル!
『――もっと呼んで?』
恍惚の表情で囁いて、後の事はろくに覚えていない。
私は「ヴァルトルーデ様」、それでいい。それだけがあればいい。
『今夜は一人で過ごしたいから、貴女が私のベッドを使うといいわ。』
『またですか?ちゃんと安全には気を付けてくださいね。』
『もちろんよ。必ず戻ってくるから。』
『はい、行ってらっしゃいませ。ヴァルトルーデ様』
貴女が一人で出かける夜、私は別の貴女になる。
私に見せてくれない貴女の顔を、声を想像して、名を呼ばれて、私こそが「ヴァルトルーデ様」なのだと実感する。
それは脳が痺れるような快楽だった。
ようやく、貴女よりも貴女になれた。そんな気がして。
心から楽しんでいるうちに、私は自分の魔法を見つけた。男達でそれを試したの。ぜんぶが上手くいった。当然の事だわ、私は王女なのだから。
これくらいの魔法は持っているのよ。
『私が男好きとか、愛人がどうとか……皆、一体何を言っているのかしら?』
首を傾げる貴女は本当に愛らしくて、ああ、私はまた一つ貴女の表情を知った。
これでもっと、貴女になれる。
『カルラ。お前にも事前に話を聞いておきたい。内密にだが』
『もちろんです、陛下。私に協力できる事でしたら、何でも。』
『ああ。十数年にわたってあの子を支えるお前だから信用できる』
『はい。ですから――【どうか、私の言葉を信じてね】』
父親に信じてもらえなかった時の、ヴァルトルーデ様のお顔。
可哀想で、胸が痛んで、愛らしくて、ああ、私が今貴女をその顔にしている。
『本当です!誰かに嵌められているのです、信じてください!』
『近衛騎士すら認めたんだ、あれはお前だった!お前の私物を譲られた者もいた!部屋に連れ込む姿を見た者も!』
『盗まれたんです、騙されないで、違う、違うんです。きっと誰かが魔法で』
『お前には失望した』
大好きなヴァルトルーデ様。
閉じ込められて泣き暮らすかと思ったら、困り果てた顔で首をひねっていて。こんな状態だからしばらく影を頼むこともないでしょうと、私に変装した上での休暇まで提案してきた。
『美味しいもの食べたり散歩したり、私の分まで遊んできて!』
笑顔だ。
いつもみたいな明るい笑顔――…ねぇ、ヴァルトルーデ様。
足りなかった?
それとも、貴女という存在に涙というものはないのかしら。
私は貴女が泣いたところを見た事がない。泣き方は知らないし、恐怖に引きつる顔だって見た事がない。意外にも命乞いをするのか、潔く殺されるのか、足掻こうとするのか、なにも、何も。
私が完璧なヴァルトルーデ様になるためには、まだ足りない。
『アーレンツ王国から招待状だ。……くれぐれも、羽目を外さないように。』
『……はい。お父様』
ヴァルトルーデ様は、陛下と会う時に笑わなくなった。
魔物が多いアーレンツ王国からの招待だなんて、昔はヴァルトルーデ様の耳に入れる前に断っていたのに。安全のために護衛を増やすと言われて、私は「ヴァルトルーデ様」に心酔する騎士達を推薦した。
『あの子が私の影武者。カルラ』
ヴァルトルーデ様、貴女が見たい。
貴女になりたいから、私だけが貴女になれるから、貴女になっていいのは貴女の全部を知ってるべきなのは誰より貴女に近しい存在なのは、私だから。
『【どうか、私の言葉を信じてね】』
唱えた瞬間これまでで一番ぞくぞくした、私に裏切られたと知った貴女の顔が見られる事に。
全部理解したヴァルトルーデ様が瞳をまんまるにして、ああ、貴女を頭からぺろりと食べてしまいたい。
そうしたら正真正銘、私だけの貴女になる。
貴女という完璧な見本はなくなって、私だけが唯一の「ヴァルトルーデ」になるの。
なんて素敵な空想。
でもヴァルトルーデ様は人を食べたりしないから、だから仕方がないこと。
『全部彼女がやっていたの、ひどいわ。もういなくなってほしい――この意味、わかるでしょう?』
絶望するかしら。泣きわめくかしら。
崩れ落ちるかしら。怒り狂うのかしら。
受け入れるかしら、私のお腹の底にある、貴女への……、え?
二人分の足音が遠ざかっていく。
『待て、このあばずれが!よくもヴァルトルーデ様の名誉を!!』
どうでもいい騎士の声が微かに聞こえた。
私は呆然と立ち尽くしている。
裏切りを知ったヴァルトルーデ様は、ただ自分の命を守るために駆け出した。逃げてしまった。
泣いてもくれないの?
怒ってもくれないの?
声をかけてもくれないの、あんなにずっと一緒だった私が裏切ったのに。
『……私』
『ヴァルトルーデ様!そんなところでどうしました?』
どろりと溢れ出しそうな何かを、飲み込んだ。
きれいな微笑みを浮かべて、振り返る。
だって私はヴァルトルーデだから。




