4.王女様、助けを求める
目が覚めた時、「ああ、転寝をしてしまったわ」と思った。
だって枕が無かったんだもの。
ふかふかだけど平坦なところで丸くなっていて、だから――…この香りは?覚えがあるような無いような、自分じゃない誰かの香り。
ひくひくと鼻を動かして、あら、おひげがくすぐったい。
私いつの間にハムスターの姿になったのかしら。くぁ、とあくびをしてからぐっと身体を伸ばした。
《うぅ~ん……ふぅ。》
「ハァッ…ハァ……!」
《うんしょっと…》
ころん、と転がって後ろ足で立つ。
ぱちぱちと瞬いて、自分がフカフカする見知らぬハンカチの上で寝ていた事に気付いて。首を傾げ、そこでようやく思い出した。
私カルラに殺されかけて、命からがら逃げたんだわ。
アーレンツ王国の王太子であるマティアス殿下の部屋に入り込んでしまって、働かないかと言われて。髪を手櫛で梳くように前足でちょこちょこと頭を撫でながら、大まかな経緯を思い出した。
《すると、このフカフカをこさえてくれたのは殿下なのかしら?》
綿か何かが入ったクッションの上に、寝落ちた私をハンカチごと置いてくださったみたい。
辺りを見回してみれば、私がいるのは細い檻で囲った大きな籠の中。端に下へ降りる梯子が見えているから、ここは上階らしい。床にはおがくずが敷き詰められている。
《この身体で梯子?初体験だわ》
「ハッ…ハァ……ハヒッ…」
《うん?》
後ろから何かの息遣いが聞こえる。
くるりと振り返った私は、口元を押さえた男性がこちらを凝視している事に気付いて固まった。
「アッ!こ、こっち見た…!は、初めまして~……!あぁ、起きてるところも可愛いねぇ~!」
眼鏡の奥で垂れ目をにんまりと細める彼は、一体何者なのか。
長い黒髪、緑色の瞳、まったく見覚えがないわ。誰?マティアス殿下の部下?それとも私、珍妙なねずみとして好事家に売られたのかしら。
「あああ~~~~ルルちゃま可愛い、かわちぃねぇっ!あ~こっち見てる……がわいッ…がわいい……ううっ、涙出てくる……ハァ~~~」
《………えっ……》
殿下とは全然違うタイプの話しかけ方だ。
可愛いとは言われたものの、なんだか怖気がして私はじりじりと後ずさった。
「尊い…もうそこに存在しているだけで尊い、生きててくれてありがとう、あと百年生きてくれ~……」
《む、無理です》
「今、チィって言った!今、チィって返事ちたの!?かわいいねぇ~~~!!」
《ひっ……だ、誰か…》
「キョロキョロして可愛い!アァッ!どちたの~?何か匂いする~?ふふっ、気になるねぇっ!」
《ひぃぃ…》
なんなのこの人は。
害意はなさそうだけど、私が人間だと知っていたらそんな声掛けはしないのでしょうけれど。
どうしたって私の正体が人間である事は変わりなく、幼児言葉で話しかけられても困る十八歳の花の乙女なのである。
スッと真顔になった謎の男性に、ついびくりと体を揺らす。
今度は何かしら。緑色の瞳が小屋をじろじろ見ている。
「……トイレはどこにしたんだろう。まだかな。」
《はっ!?な、何を言ってるのこの方は!?》
「フンもちっっっちゃいんだろうなぁー……ルルちゃまの健康のためにも、チェックしないと。」
《いやぁーっ!いくら私がねずみだからって最低最低最低!淑女のその、あれを見ようだなんて!!》
ぞわぞわと鳥肌が立つ思いでヂヂィと抗議したものの、巨大な手が伸びて来て小屋の戸をキィと開ける。まだどこにも用は足してないけれど、入ってこないで!
「ごめんねぇルルちゃま、ちょっとおうち見せてね…」
《嫌ですッ!!》
「いっった!!」
懸命にシュッと手を叩いたつもりが、赤い線がはしる。人間の時と比べて少しばかり爪が鋭いのだ。
手が引っ込んだ隙に戸を閉めようとしたら、脱走すると思ったのか男性の方から素早く戸を閉めてくれた。
《痛いでしょうけど、ごめんなさい!世話をされる身でもその、男性にあの……!》
「る、ルルちゃまがつけた傷…!なんてちっちゃくて儚い攻撃なんだ、愛おし過ぎる!ずっととっておきたいけど、治ってしまうよな……!」
《ひぃいい!》
身を隠したいけれど、クッションの裏くらいしか隠れる場所がないしそれでは心許ない。
何かないかと梯子をひぃひぃ降りてみて、そこにあったのはナッツが入った餌皿とお水が入った陶器の器だった。
「驚かせてごめんねぇ、ルルちゃま。そのご飯食べていいからね…アア~ちぃちゃくてかんわいっ……もう頬張りたくなってくる、口いっぱいに。」
《たすけて…たすけて……》
もはや視線が怖い。
梯子の裏におがくずをかき集めてなんとか隠れようと試みていると、遠くからバタンと扉の音がした。はっとして見上げると、謎の男性はこちらに背を向けていた。誰か部屋に来たみたい。
「様子はどうだ。」
《この声は!》
「はっ。今しがた目を覚ましました。」
《マティアス殿下!?》
おがくずを蹴散らし慌てて近くへ駆け寄ると、つかつか歩いてきたマティアス殿下と目が合った。
人差し指を伸ばしてくれて、泣きたい気持ちで檻越しに両手を添える。
《殿下ーっ!殿下、どちらへ行っていたのですか!私を傍においてください、お願いですっ!》
「どうした、ルル。何を騒いでる」
《あの人は変態です!いえ害意はないのですが、変人です!二人にしないでください!!小屋にも触らせないで!!》
「……ケイス、何があった?」
殿下の部下なのだろう男性は、どうやらケイスというらしい。
問いかけに対して姿勢を正し、「はっ」と短く応答する。
「目覚めた際に私が近くで見ていたため、驚かせてしまったようです。申し訳ありません」
《それだけではありません!この方は私の、そのッ……お手洗いの痕跡を見たいとか仰って!》
「なるほどな」
《とんでもない事です、この人に世話をされるのは――いえ、そのあたりに限って言えば、男性である限りその世話をされるのは嫌なのですが、ど、どうにかなりませんか?通じないのはわかっていますが、お願いです殿下!淑女の身の回りの繊細な事は、従僕ではなく侍女が行うものです!》
チィチィと必死に訴えかけるけれど、殿下は私の両手が乗った指を軽く上下に動かして――遊んでる?私で遊んでいるの?これは――「仕方あるまい」と呟いた。
「怖がっているようだ、お前はあまり近付かない方がいい。」
「え゛っ……わ、わかりました。それが…ルルち、ルル様の為になるなら……」
《ありがとうございます!懸命に叫んだ甲斐があったわ、よかった……私は素晴らしい飼い主、いえ雇い主に恵まれました。》
「あれは俺の補佐官でケイスという。君に危害を加える事はないはずだ」
「はずって事ないでしょう!加えませんよ危害なんて!」
《補佐官……会うのは仕方ないのでしょうけれど、あまり、二人にしないでくださいね。》
殿下の人差し指をてしてし念押しのように軽く叩いておく。
眉間に皺を寄せたケイスは不服そうに唇を噛んでいた。
「……殿下はもうそんなに慣れていて…相変わらず、動物に好かれやすいのですね。」
「さてな。」
そもそも、私はどれくらい寝ていたのだろう。
殿下に捕まったのがだいぶと夜遅くだったのはわかっているけれど。結構ぐっすり寝てしまった?小屋の中を駆けて別方向を眺めると、部屋のカーテンの向こうは明るいように見える。
殿下が用意してくれたぬるま湯にちゃぷんと浸かり、タオルでもみくちゃにされて。昨日からずっと一緒だった土の匂いとも、ようやくおさらばできた。
しっとりした私をハンカチでくるんでおいて、殿下は上着の胸ポケットをトンと示す。
「ここに大人しく入っている事はできるか?」
《体が乾いた後なら。》
そう言いながらこっくり頷いて見せると、殿下の少し後ろにいるケイスがニヨ…と唇を歪めたのが見えた。ヒッ…あの人また何か妙な事を考えてるわ、きっと。
「しかし、マティアス様。脱走したら危ないのでは?ルル様の大きさでは、誤って踏み潰されかねないと思います。」
「ルルは賢い。俺から離れる方が危険だと、わかっていそうなものだがな。」
《実感したばかりです、殿下。》
こっくりこっくりと頷いてみせた。
私を見た殿下が頷き返してくれて、なんだか嬉しくなる。
「では、これは大事なことだが」
《はいっ!》
「小屋で粗相を済ませておけよ。」
《……い、言われなくても殿下のお召し物を汚したりしません!わかっていますから、それであればこちらを見ないでくださいっ!ねずみとはいえ淑女ですから!》
「そう怒るな。」
ヂヂヂィと怒鳴る私にまったく動じた風もない。
さらりと返した殿下は、ケイスと話すためかあっさり小屋から離れていった。




