3.王太子殿下の些細な秘密
シルクのハンカチに乗せて撫でてやるうちに、ルルはすっかり寝入ったらしい。
丸まった小さな体は呼吸に合わせて表皮が上下していて、手のひらに収まる程の大きさでも命なのだなと改めて思わせる。
《その姫とやら、……気を付けた方がいいですよ。影が成り代わっていますもの。》
随分と聡いねずみだ。
俺を「殿下」と呼び、難しい単語でも使いこなしている。
普通のねずみは、せいぜい十歳程度の言葉しか喋らないものだが。
ルルはあれ程ぺらぺらと話し、俺の言葉もはっきり理解しているらしい。希少種ゆえの知能差か?魔物でないと本人は言ったが……。
短くも柔らかな毛並みに指先を滑らせながら、このねずみについて考える。
クロイツェルの一団に紛れて来たのは間違いないだろうが、あの毛繕いの下手さにしては身綺麗だ。大商人か、それなりの貴人のもとから脱走した個体か。
飼われていたにしては名乗らなかったから、商品だったか、種族名の「ハムスター」で呼ばれていたのかもしれない。
《マティアス、そこにいるだろう?》
閉じた扉の向こう、廊下から猫の鳴き声がする。
起きる様子のないルルを中心にフードカバーをかぶせ、「ああ」と返事した。騎士が彼に挨拶し、それに返す声が聞こえる。扉がノックされた。
「殿下。リートベルク卿がお見えです」
「通せ」
「はっ。どうぞ、お通り下さい。」
《すまないね、ありがとう。》
にゃあ、と機嫌よさそうに鳴いたブラム・リートベルクは猫型の魔物だ。裾に王家の紋章を刺繍した黒いマントを羽織っており、錆色の毛は長い。
尾が三本あるため三尾猫と名付けられた種族であり、生物のネコと違い、その尾は伸縮自在の立派な武器になっている。
扉が閉まると、ブラムは俺の方へ歩きながら尻尾を揺らした。
《知らない香りが一緒だね。新しい仲間かい?》
「そうしてみるつもりだ。先程出会ったばかりだが」
《おやおや》
相変わらず人間以外には警戒が緩いと言いたいのだろう、ブラムはおどけたような声色で言ってからテーブルに飛び乗った。
フードカバーの傍までやってきて、中で眠っているものをじっくりと眺めている。
「ルルと名付けた。」
《変わった魔物だね。見たことがない》
「…本人が言うには、人間からハムスターと呼ばれる種族らしいが。」
《ハムスター!西方のネズミか、聞いた事があるよ。見るのは初めてだが……いや、しかし。魔物ではないと聞いていたがね。》
首を傾げるブラムは興味津々といった様子だ。
ルルが起きていたら縮みあがっただろうか。驚いてひっくり返っていたかもしれない。
「魔物か?これは。」
《魔力を宿した生物だ、君や私と同じように。何か気になる事はなかったか?》
「ネズミにしては知能が高かった。ハムスターがそうなのか、こいつの特性かは不明だが。」
《飛兎のローストを頂いても?》
「構わん」
許可してやると、ブラムは喜んで《いただきます》と頭を下げた。
皿から肉を一つ取ってかじりながら俺を見上げる。
《時期が時期だが、この子はクロイツェルの間者ではない、そう思えたのかな。妙に賢いなら疑わなくてはね。》
「人が魔法で姿を変えているとは思えない。」
《なぜ?》
「被害者なら、正体を問われた時に言葉が通じずとも口にするものだ。それもなく落ち着いていた」
他人を強制的にねずみへ変える魔法の使い手がいたならば、被害者はパニックに陥りそうなものだ。
それなりに年月が経ってもう諦めているというなら、あの落ち着きようもわかりはするが……ねずみの生活に慣れているにしては、ルルは行動が迂闊過ぎる。
指先でこつりとフードカバーを叩いた。
「見た目や触感を誤魔化したところで人間がこれに納まるはずはないし、軽すぎる。見せかけでなく実体ごと変化したならわからんが……そんな希少魔法の持ち主が、狙って俺に近付いたのだとしたら。態度があまりに呑気でどんくさ過ぎるな。」
《どんくさい?》
「水を入れた皿をひっくり返したり、オレンジの汁が目に入ってのたうち回ったりだ。」
《可愛らしい事だと言いたいが、私も幼い頃に覚えがあるよ。あれは中々痛い》
「何十年前の話だ?」
《ともかく、確かに。間者が君を探りたいなら姿を現さずにいるか、見られてもその傷は作らないだろうね。》
ブラムが俺の手を見やって言う。
ルルが自ら望んでねずみになった人間である場合の話だ。
俺や城の内情を探るためなら、まず見つからない事が先決のはず。この姿での隠密行動も訓練されているべきだが、ルルはのこのこと俺の目の前を駆けて捕まり、悲鳴を上げて手を引っかいてきた。
城に紛れ込んだ獣など、駆除されても仕方がない。
飼われようとして出てきたなら最初から愛想を振りまくべきであり、逃げたいなら逃げる隙はあった。もちろん敢えて作った隙だが、ルルは逃げない事を選んだ。
正体が人間ならもっと警戒するか、媚びを売るかだ。
《君の能力については知ってるのかい?》
「伝えてはいない。」
俺の固有魔法は全ての言語を解する。
発声は聞こえた上で、元の文章は見えている上で理解するため、自分と同じ言語を使っていると誤解する事もない。
魔物だろうと動物だろうと他言語を使う人間だろうと、魔法さえ発動していれば理解する。
ただし、あくまでもこちらが意味を解するだけのこと。
俺がその言語に合わせて話すためには、この魔法は使えない――アーレンツの第一王子として生を受けた男が与えられるには、あまりに些細な魔法だ。単に人語なら、学べば良いだけの話だが。
《では、単によく喋る人間だと思っているかな。》
「言葉が通じているとは知らないだろうな。俺のもとで働かないかと言った時も困惑していた」
《ふふ、それはそうだろうね。私だって、魔法を使った君に初めて会った時は幾度も首を傾げたものだ。》
「ブラムには感謝している。あの時の俺には、秘密にすべきだという進言が必要だった」
生物だけならまだいい。
しかし俺は魔物の言葉すら理解できてしまう。誰彼構わず話してしまえば、魔物と通じているだの何だのと言い出す輩が出ただろう。俺がいれば魔物と分かり合えるのでは、などと考える浅はかな者もいたかもしれない。
ブラムは俺の祖父が拾い育て、亡くなる前にリートベルク卿として男爵位を与えた。
城の隅々まで散歩し尽くした彼は構造も人間関係もよく知っており、皆にとっては城で長年飼われている魔物でしかないのだろうが、俺にはありがたい知恵袋となっている。
「それで、クロイツェルの一団はどうだった?」
《ふむ。色々土産があるようだ、実にかぐわしい果実があったよ。明日のデザートを楽しみにするべきだね……それから、王女の様子も少し見てきた。噂の通り見た目の良い雄が好ましいようだから、マティアス。君の事も彼女は気に入るだろう。》
「これはルルが言っていた事だが」
《うん?》
「王女は影武者が成り代わっているらしい。」
《ほう!》
ブラムが目を見開き、ますます興味深いとばかりにルルを覗き込む。
クロイツェルで聞いた噂なのか、元の飼い主が話していたのか、そこはまだわからないが。
《マティアス、このカバーを取ってくれないかい?もちろんこの子を食べたりはしない。》
「信用しているが、ルルが起きた場合が怖いな。飛び跳ねて文句を言うぞ」
《少しだけだから。ここからでは土の匂いしかわからなくてね》
フードカバーの持ち手を掴み、ルルが寝ているハンカチの傍までずらして少しだけ傾けた。ブラムが鼻先を突っ込んで匂いを確かめ、少しして引っ込んだ。
《オレンジ、革、野草……やはり土の匂いが一番強いね。それと君の匂いだ。この子自身のものは弱い》
「水に飛び込んでいたからな。ある程度消えているかもしれん」
《ふむ……クロイツェルについて、色々聞いてみてはどうだろう。君が言葉を理解していると知らないうちが、一番喋るかもしれないよ。》
知らないからこそ話さない面もあるかもしれないが、一応そのつもりだ。ブラムの方へ手を伸ばし、顎の下を撫でてやる。
扉からノックの音がした。
「殿下。ケイス・ゼンデン参りました」
「入れ」
「失礼致します。」
騎士の仲介もなしに訪れた男は俺の補佐官だ。
低い位置で結んだ黒の長髪に垂れ目、眼鏡の奥にある瞳は緑色でよく微笑みを浮かべている。三つ年上の二十五歳、ゼンデン侯爵家の次男坊。
「ああ、リートベルク卿もご一緒でしたか。」
《やぁ、ケイス。》
「こんばんは。…殿下、食事を与え過ぎていないでしょうね?」
「ひとかけら程度だ。」
《そうだとも》
また食事制限を食らうのが嫌なのだろう。
どこか必死さの見えるブラムが《適量というやつさ》と言いながら擦り寄っているが、ケイスの視線はテーブルの上に釘付けだ。
「殿下。そのかわぃ、コホン。小さいのは……?」
「ルルと名付けた。種族という意味では、ハムスターだが。」
「はむすたー?なるほど、えぇと……どこから迷い込んだのでしょう。人慣れしているなら飼い主がいそうですが――ああ、いえ。先にご報告を。」
「そうしろ」
ケイスは小型の動物に目がない。
ブラムに対しても人のいない場所では猫撫で声で話しかけているそうだ。ルルを飼う事についてはまず反対しないだろう。
ちらちらとルルを見やりながら、ケイスは改まった様子で眼鏡を押し上げた。
「ヴァルトルーデ・アンネリーエ・クロイツェル殿下について、無事に花の離宮へ入られました。連れてきた人数は事前申請と合致しております」
王女ともなれば、連れてくる使用人も荷物も大所帯だ。
城内の客室では人の出入りを見張りきれないと判断し、招待客用に設けられた離宮を使用する事にしていた。周辺には警備と称して騎士が配置されている。
「忍ばせた者達からは……確かに、お付きの騎士のうち数人と距離感が近いように思えると、幾らか報告が上がっております。こちらの手の者に対しては、視線を向けていたので把握はしているでしょうが、今のところ接触はありません。」
「ふ……他国で、それも王族の相手を任されるような者達だ。それを様子も見ずに即日手を伸ばすようでは、節操がなさ過ぎるからな。流石にといったところか。」
「ええ、問題はこれからですね。」
視線をルルから引き剥がし、ケイスは懐からリングケースを取り出した。
蓋を開いて置かれたその中には、蔦模様が彫られたシルバーの指輪が鎮座している。
「届くのが遅かったので、デルクス伯から取り上……回収して参りました。」
「相変わらず見事だな。どう見てもただの指輪だ」
蔦模様に触れればがらりと見た目が変わった。
赤い宝石を蛇の装飾が守るような見た目の指輪だ。指を離せば宝石は消え、先程までと同じ蔦模様の指輪になる。これはとある騎士の固有魔法で見た目を変えているのだ。
蛇竜の真眼。
蛇竜の中でも希少種と言われる、鱗が白い個体から獲れるもの。眼とは言いつつ、その実態は体内でごく稀に生成される赤い宝石だ。
身に着けた者は幻術・催眠・洗脳・魅了といった、精神や知覚に干渉する魔法を一切受け付けない。
ゆえにこれの存在を知る者にとって、赤い宝石を着けて会う事は「貴方を信用していない」という無礼な意思表示だ。
「どうかお気をつけください、マティアス様。王女殿下が本当に精神干渉の使い手だとして、それで守られるのは貴方の認識だけです。」
「そうだな。周囲は違う…お前も含めて。」
「万が一貴方の邪魔になるようなら、この身は切り捨てて頂いて構いません。」
《なにも死ぬ事はないだろうに、大げさな子だね。》
「覚えておこう」
俺の返しに安堵した様子で頷き、瞬いたケイスは視線を再びルルへ向けた。
フードカバーの中で、ハンカチにくるまったねずみは変わらず眠りこけている。
「それの小屋を用意してくれるか。」
「喜んで」
飛兎:体長一メートル前後、背中に翼が生えた兎型の魔物。爪と牙が鋭く人間相手にも臆さない好戦的な性格。肉、毛皮、羽毛、骨と素材の使いどころに困らない。




