24.ハムスター王女、隣国王太子のペットになる
マティアス様の足音が遠ざかり、私はどきどきとうるさい胸に手をあてる。
急にどうしたのだろう。私を出て行かせるより、ご自身が出た方がいいという考えに至ったのか――それよりも。
「【これより先は広き世界】っ!」
我慢ならなくて、小声で叫んだ私は全力で走り出した。
四つの小さな手足で床を猛然と突き進む。人間の姿ではドレスも邪魔だし、広さに限りがあるし、はしたないし、到底できないけれど。
《わぁあーっ!なになになに、どっ、どうしたらいいの!殿下が、マティアス様がわたっ、私を!》
足がもつれてとんでもない転がり方を挟みながら、わぁわぁと叫び散らして突き進む。
どうしたらいいのでしょう、あんなに素敵な方が好いてくれて、私もあの方が好きだなんてそんな。王妃殿下が「読むがいい」と渡してくださった恋愛小説だって、そんな都合良く両想いになったりしないのに!
《でもロジーナ達が心配だし、事件へのお父様の反応だってまだわからないし、全部きちんと収まって落ち着くまではその、せめて結婚は待ってもらわな――け、結婚……!》
わけもわからず「きゃー」なんて悲鳴を上げてしまいそう。
一通りぐるりと走って戻ってきた私は、読書スペースの絨毯にへたり込んだ。
《はぁっ、はぁっ……だめ、顔が真っ赤になって戻らな…今は何も関係ないんだった……はぁっ…》
短い毛が生えそろった頭をくしくし撫でて、ふるふるっと身震いする。
全然まだ心の整理はつかない。ひとまず水分がとりたいけれど、ここに水をすくったレタスはないし、紅茶は高いテーブルの上だ。
マティアス様もそのうち帰ってくるでしょうし、人間の姿に戻りましょう。
《………、あら?》
人間の姿に――おかしい、戻らない。
《えいっ、とうっ、はぁっ!》
ぴょんと跳んだり両手を上に伸ばしたりしてみたけれど、何も起きない。ハムスター王女の姿のままである。なぜ?
「ヴァルトルーデ?」
《わぁっ!》
必死にぴょんぴょんしている間に、マティアス様が戻ってきてしまったらしい。
しまった、これではまるで人間の私が彼のいない隙に逃げたみたいでは。血の気が引く心地で振り返ると、彼は私の姿を認めて瞬き、ふっと微笑んだ。
「また、気まぐれな来訪だな?ルル」
《あ…えっと……》
「おいで」
《あんまり!優しい声を出さないでくださいっ!》
「ふっ、何を怒ってる?」
《怒ってないです、怒ってないのですが、色々と限界で……って、》
それどころじゃないわ!
差し出された手に反射的に乗り込んでいる場合ではなく。テーブルに下ろされ背中を撫でてもらってる場合でもない!
私は懸命に身をよじり、ころんと転がってマティアス様の手のひらから逃れる。
「うん?」
《撫でてくださるのは嬉しいのですが、それより……その、誰か足りないと思いませんか。》
「どうも、愛しの姫君は恥じらって隠れてしまったようでな。彼女が戻る頃まで、君が相手をしてくれると助かるんだが。…どうした、縮こまって。」
《恥じらっているのです》
「ふふ」
顔を手で覆って丸まる私を、マティアス様が優しく撫でている。ハムスター生活に慣れてしまった弊害なのかしら、戻れないのは。
あとハンカチもくださいなんて今心の中で思ってしまうくらい、贅沢で幸せな時間だった――けど、ハムスターのままで人間の貴方と結婚できるはずもなく。
よいしょと身を起こして、後ろ足だけで立って、マティアス様を見上げた。
《あの……伝えようがなく、どうしたらいいか…》
「…俺に話でもあるのか?」
こっくりと頷いて肯定を示す。
はいかいいえで答えられる質問を彼がしてくれても、きっと真実を届けるところまでいけないけれど。
《何と言いますか、その………どうしてかは、さっぱりわからないのですけど。》
「うん。それで?」
《……人間に、戻れなくなっちゃいました………。》
キュゥウ、という私のしょげた鳴き声を、マティアス様はどう思っただろうか。
お腹が空いたのかとナッツをくれるかもしれない。違うけれど。
寝床の心配かとハンカチをくれるかもしれない。もらうけれど。
「……ふっ。」
《え?》
「あっはははは!どういう事だ、それは。」
《ど、どうと言われましても》
「ああ失礼。笑いごとじゃないんだろうが、まったく、飽きない人だと思ってな。それでは婚約式も何もどうしたらいいのだか。」
《それについては現状、もう本当に申し訳なく………、え?》
婚約式と言った?
ぽかんと口を開ける私の手を指先で弄び、マティアス様は微笑んでいる。
「婚約段階なら、まぁそのままでも問題ないが……周りがどう見るかだな。君に逃げられて、俺の気が狂ったんじゃないかと言い出しそうだ。」
《…殿下?》
「名前で呼んでくれないのか?」
《……ま、マティアス様。》
「ああ、それでいい。」
嬉しそうに目を細めて撫でてくれて、それはそれで悲鳴を上げそうなくらいどきどきするけれど、いえ、いいえ!そんな事より!!
《……ぇ……え?あの、ええと……》
「うん?」
《マティアス様は、私の言葉がわかるのですか?》
「鳴き声だけでなく、人の声でも聞こえている。それが俺の魔法なんだ……ふふ。次期国王が持つにしては地味だろう?」
聞こえている。その言葉を脳内で反芻して、私は虚空をきょろ、きょろと見回した。
ハムスター王女である私の鳴き声が、人の声でも、聞こえる……という事は?だらだらと冷や汗が流れるような心地で、だけど、「ハムスターは汗をかかないのだ」。なんて、クロイツェルにいた頃に調べた資料の説明文が出てくる。そんなものを思い出している場合ではない。
「どうした、ルル。」
《……い、今まで、この姿で何を口走ったか……思い出せないかしらと、努力していました。》
「安心しろ、可愛い事しか言っていない。」
《安心できませんっ!まさか最初からずっと聞こえていたのですか!?》
こくりと頷かれて、きゃあ、と両頬を手で押さえる。
道理でマティアス様は、カルラについてもやたら知っているわけだ。私がぺらぺら話した事を――もしや、デルクス長官のところで渡していたメモは。私からケイスを遠ざけてくれたのは。代わって侍女が世話をしてくれたのは、まさか、まさか。
《ああっ!思い出のあれこれが今、理解できていく……!》
一体いつから私がヴァルトルーデだと――名乗った!私あの時、名乗ってしまったわ!?今思い返してみれば、私が名乗った直後にマティアス様は…そうよ、「何だと?」と聞き返していたじゃない!
どうして気付かなかったのだろう、私ときたら。
《そんな魔法があるなんて……!》
「黙っていてすまなかったが…婚約者ですらない相手に魔法について言えないのは勿論のこと、警戒するには獣相手でも教えない方が都合が良くてな。」
《ええ、そうでしょう…そうでしょうとも。だからこそ私も、人の姿で会ってからも貴方に言えなかったのです。》
マティアス様はきっと、私の魔法を「姿を隠す魔法」と思っているに違いない!なんて。
とっくにバレていたとも知らず、なんて間抜けな……恥ずかしい。思わずくるくると毛並みを整える私の頭を、マティアス様がちょいちょいと撫でてくれる。これは慰めですか。ありがとうございます。
「互いに固有魔法を知ったんだ。婚約の件は、基本的に解消も破棄もできないと思ってくれ。」
《私はそれでまったく構いませんけれど、マティアス様はいいのですか?私、ハムスターから戻れないのですが。》
「今、急にそうなったんだろう?ヒルベルトでも誰でも使って調べるさ。それに」
大きな手のひらを差し出されて、いつものようにそこへ乗る。
マティアス様はソファの背もたれに寄り掛かり、私を見てくすりと微笑んだ。
「君がもうしばらく《俺のルル》でいてくれるのも、悪くない。」
《だ……駄目です、そんな事言ったら。私まで悪くないなって思ってしまって、二度と戻れないかも。》
「それは流石に困るか。このままでは口付けの一つもできやしないしな」
《くっ!?こ、婚姻前ですマティアス様っ。そそ、そのような…》
「嫌か?」
《や、やではないのですが……ひとえに、恥ずかしく…》
口ごもる私をまた、指先で優しく撫でて。……撫でれば懐柔できるとか、思われてないわよね?決してそんな事はな――ああっ、心地良い…――私は決して、懐柔されたりなど!
目をぎゅっと閉じて耐えていると、すぐ傍でマティアス様の笑い声がした。
「可愛いな。ルル」
囁くのも禁止ですっ!と、叫ぼうとして。
撫でられていた背中に、指とは違う何かが触れた。さっき手の甲に触れたのと、同じ。とんでもない不意打ちに頭がくらくらしたと思ったら、どうしてか私は人の姿に戻っていた。
ソファの座面に膝をつき、マティアス様の方を見る形で彼の太腿に座ってしまっている――はしたないどころの騒ぎではない、かも。赤い瞳が少し丸くなっていて、それを可愛いと思ってしまうのはもう、「惚れた弱み」というものかしら。
どうしてこんな状況で人に戻ってしまったのか、いえそもそも、ここからどうすればいいの。
「……あ、あの。本当なんです。さっきまで本当に戻れなくて、」
するりと頬に触れられて、声が出なくなった。
このままでは口付けの一つもできないと、そう言われた事を思い出す。どうしたら、どうしたら。顔が近付いて、経験のない私でもこれからどうなるかわかってしまって、でもどうしたらいいかはわからない。
マティアス様と同じようにしよう。そう考えて、彼に倣って目を閉じた。
「……っ。」
一度触れた柔らかい感触に、どきどきして。
もう一度触れて、少し角度が変わって、もう一度。ただ唇を重ねるだけなのに、マティアス様にそうされているという事実が私の頭を痺れさせた。幸福感が心にも体中にも、いっぱい広がっていく――……あら?これって、そういえばいつ、呼吸を。
悩み始めた頃に、マティアス様は私の頬へ口付けた。
それが終わりの合図だったようで、ぱち、と目を開けると、私の頬を撫でながら満足そうに笑う姿が見える。格好良いとか、もう一度なんて、ぼーっとした頭で考えてしまう。
「マティアス様…」
「うん?」
いつの間に、こんなにも貴方に溺れていたのだろう。
優しく聞き返すその声が好き。私を撫でる手の温かさが好き。無意識にか、彼の手に自分の手を添えていて。頭がくらくらする。
「――好きで、すっ!?》
急に世界が広くなり、浮遊感を味わったかと思えば手のひらにぽすりと着地した。
ハムスターになった?意味がわからない。激しく瞬きながら、小さな手足を確認する。どうして、唱えてないのに、なぜ。
私をテーブルに下ろして、マティアス様は考え込みながら顎に手をあてる。
「……まさかとは思うが、俺が口付けると魔力が狂うのか?」
《そんな馬鹿な!どちらかと言えば、私の精神が羞恥によって限界に達した事による影響が》
「試してみるか」
《ままま待ってください、心臓がもちません!》
「ふ……っくく。慣らすならいつでも、何度でも付き合うぞ。ルル」
くすりと笑うマティアス様は楽しそうで、ちょっと意地悪にも思えるのに、私を見つめる眼差しがとても優しい。
恥ずかしくて限界だというのに、付き合ってもらうのも悪くないかもと思ってしまう私がいた。今すぐにはちょっと、無理だけれど。
《……もうしばらく、雇われハムスターでいてもいいでしょうか。》
「俺の婚約者と兼任なら。」
手続きは進めておくと言って、マティアス様は上機嫌に私を撫でている。こちらばかりどきどきしている気がして、与えられてばかりの気がして。
私は意を決してその指をはっしと両手で掴み、瞬いた彼が好きにさせてくれるのをいい事に、ちょんと口付けた。
《ありがとうございます、マティアス様。…どうか、末永くお傍に置いてくださいね。》
ハムスター王女、これにて完結です。
またいつか番外編など上げられたらよいなと思いつつ…
最後まで読んで頂きありがとうございました!




