23.大混乱な王女様
貴女は私から何も奪えていない――カルラにはそんな風に言ったけれど、私が失ったものは多い。
たとえば魔法の影響ではなく、噂を信じた人達からの信用。
魔法にかかった人達との関係性も以前のようにはいかないし、悩まされたり対処に使った時間は戻らない。様々な理由で離れていった友人達の、どこまでが本心だっただろう。
カルラの取り調べは始まったけど、私が彼女の罪の全容を知る日はまだ遠い。
「何せ、言葉で人を惑わしてきた相手だ。証言をとるにも逐一警戒が必要でな。」
「…難航するだろうとは思っていました。少なくとも二年以上ですから、カルラ自身記憶が薄い事もあるでしょうし。」
テーブルの向かいで、マティアス殿下は鷹揚に頷いた。
星の離宮にある図書室は今日も静かで、窓のカーテンから午後の柔らかな日差しが漏れている。
どうしてか退室してしまったアンベルが淹れた紅茶からは慣れた香り。クロイツェルから持ち込んだ果実を使ってくれたようだ。
「君は片が付いたらクロイツェルへ戻るという話だったが、今しばらくはそれも難しそうだな。」
「ええ。連れてきた者のほとんどがあのような状態では……」
私の…「ヴァルトルーデ」の世話をしてくれていた侍女、ロジーナ。
長く近衛として見守ってきてくれた騎士、ルーカス。そして彼の部下である騎士の皆様。
カルラが気絶した事で、信じ込まされていた物事については一応認識の切り替えができたらしい。
けれど私とカルラの見た目が似ているがゆえに、騎士の一部は私を見るとカルラを思い出して拒絶反応を起こすようになっていた。
ロジーナとルーカスは気付けなかった自分をひどく責めているし……今は全員、アーレンツ王国の医師に診て頂いている。少しずつでも落ち着くといいのだけど。
カルラの罪が明るみになったとして、噂を信じていた人の何割が「公表された内容が事実だ」と素直に受け止めるかしら。
まだ疑われている、そんな疑心を僅かにでも抱かずに過ごす事が、私にできるだろうか。小さな小さなトゲがずっと胸に刺さっているような、そんな日々がきっと、クロイツェルで待っている。
皆の回復を待つか、クロイツェルから新たに人を送ってもらうか。
どちらにせよ、当初の予定よりずっと長く滞在する事になる。取り急ぎお父様に事情を伝える手紙を、アーレンツの騎士の一人――恐らくデルクス長官の部下が、運んでくれたはずだけれど。
「本当に何もかもお世話になってしまって……貴国にはどう恩返しをすればいいのか。」
「君を知る時間がほしい俺としては、口実になって丁度良いとも言えるが。」
きっと、必要以上に気に病む事はないのだと仰っている。
わざと、軽口のように言ってくださっている。
それがわかっているのに、殿下の微笑みを受けた私は一気に顔が熱くなってしまって。咄嗟に目をそらすなんて、失礼な事をしてしまう。
「そろそろ返事を頂けるだろうか?」
「…それは……」
こんな気持ちになったのは初めてで、どうしたらよいものか目が泳ぐ。
けれど、きちんと言わなければ。なんだか恥ずかしくてたまらないとしても、私の素直な気持ちを。
こくりと唾を飲んで、どうにか殿下の方を見る。ああ、どこか別の方を見ていてくださらないかしら。胸元で自分の手を握って、小さく息を吸って。
「私も…貴方をもっと知りたいです、マティアス殿下。もし許されるなら……こちらこそ、貴方のお傍にいる時間をください。」
「………。」
「殿下?」
私の心の声が聞こえたわけではないでしょうけど、口元に拳をかざした殿下はふいと顔をそらしてしまった。あまり見ないでと思っていたのに、いざそうされるとどうしてか、彼の顔を覗き込みたくなる。
自分がされたら困ってしまうのにそうしたいなんて、意地悪かしら。
「……煽っておいてなんだが。実際に言われると、予想以上にくるものがあった。」
「くるもの…?」
「貴女が愛らしかったという事だ。」
それを。
ちらりと私を見て、そんな熱をはらんだ目で、言うのは……ずるいのでは、ないでしょうか。
心臓がどくどく言って、顔が熱くて、たぶん頬は真っ赤になっている。
それ以上殿下を見ていたら私が溶かされてしまいそうで、紅茶を理由に目を離す。私今、カップをきちんと持てているかしら。美味しいと思うのに味がよくわからない。ナッツでも齧ってごまかしたい――今の私じゃそんな事できないわ。
なんとか音を立てずにカップを戻して、手で顔を扇ぎたくなるのを堪えて口を開く。
「……あの、マティアス殿下。」
「《殿下》はつけなくていい。貴女さえ良ければだが」
簡単に仰るけれど、それを許される事で私がどんな勘違いをしてしまうか、わからない貴方ではないはずで。
女性を弄ぶような方ではなくて、私を知る時間がほしいと言ってくださって。
だから、勘違いじゃないのではないかと思ってしまう。それを嬉しいと感じてしまう。顔がにやけてはいないかしら、見ても大丈夫な顔をしているかしら?もうわからない。
「では…よろしければ、私の事は名だけで呼んでください。……マティアス様」
「…わかった。ヴァルトルーデ」
優しい声で名を呼ばれて、幸せだと感じてしまう――ロジーナ達が苦しんでいるのに。私だけこんな、許されない事だと思うのに。
ルルと呼んでほしい、そんな気持ちまで心にあって。なんて欲深い事だろうと思うのに、殿下の眼差しを、その微笑みを見ると、すべて許されているかのような錯覚に陥ってしまう。
「どうした?」
「っ……あまり、優しくされては。困ります」
「…なぜ?」
聞き返さないでほしい、そんな事は。
壁があったら隠れたい、穴があったら入りたい。おがくずがあれば飛び込んで――そんな事今はできない。膝の上に手を置いて、借り物のドレスを握り締めるわけにもいかなくて。
どうかそんなに見ないでほしい、貴方の手の温かさを思い出してしまう。
私を撫でてくれる手つきも、優しい眼差しも、落ち着いた声も、抱き寄せてくれた腕の力強さも。ハムスターの私に懸命に話しかける愛らしさも、全部。
「……好き、に…」
恥ずかしくて、困ってしまって、でもどこか、伝えたくて。隠れられなくて、つい口元に手をかざす。
本当に、どうしたらいいのでしょうか。
貴方という存在が、こんなにも胸を熱くするのです。それはつまり。
「…好きになって、しまい――」
ましたと、自白するつもりが。
横からマティアス様に抱きしめられてしまって、あれ、一体いつ席を立たれたのか。そんな事にも気付かず私は一人、ぺらぺらと?いえそんな事より抱きしめられて、ああ、懐かしいハンカチと同じ香り。
「ま、マティアス様?」
「…そちらこそ、あまり可愛い事をするな。」
「みっ、耳元で話すのは、待って。待ってください。」
「耳?偶然だが、嫌だったか?」
「嫌ではないです、ただどきどきして、死んでしまいそうで!」
とにかく逃げ出したくて少し身じろいだけれど、ますますぎゅうと抱きしめられてしまった。それも待って!言いたいけれど声が出なくて、抱きしめてもらえて喜ぶ自分もいて。
迷いながらも、おずおずとマティアス様の背中に手を添えてみる。彼はもう一度だけ力を込めてから、私の体を離した。
もしかして私、顔から火が出ていないかしら。心臓がばくばくして、このまま破裂してしまいそう。
こちらを見下ろすマティアス様は少し頬が赤くて、何か言おうと思っていたのに、私の唇は勝手に閉じてしまった。彼の瞳から目が離せない。
私の手を握って、彼は跪いた。
「もっと時間をかけるつもりだったが……この先、君以上に愛しく思える人が現れる気がしない。」
「それはこちらの台詞、で……」
今、なんと?
聞き違いでしょうか、白昼夢でしょうか。瞬く私の手の甲へ唇を触れさせて、マティアス様は熱のこもった瞳でこちらを見る。
「ヴァルトルーデ。俺と婚約してほしい」
「こっ……婚約、ですか!?」
「急だと思うかもしれないが…君の人格を認めているし、とうに惚れ込んでいる事を今、自覚させられたところだ。」
唇の感触が手に残っていてとんでもなく恥ずかしいやら、言われた事が衝撃的で嬉しくて信じ難くて混乱するやら、ほ、惚れ込んでいるとは。本当に?
「でも私は、そんな事を望める立場では。貴方にも貴国にも大恩があって――」
「何か返したいと思うなら、俺と共に国を支えてくれ。これ以上ない貢献だと思うが」
「た、確かに。……いえいえ、都合が良すぎます!私にとって。」
「…君にとってなのか。」
「カルラの企みを見抜けず、ロジーナ達が苦しんでいた事にも気付けなかった私です。は…初めて好きになった殿方と結婚して、その方と歩む事が恩返しになるなんて……幸せ過ぎて、よろしくないのではと、思っ」
赤くなった顔をまじまじ見られる羞恥に耐えながら、懸命に話していたというのに。
マティアス様は立ち上がってすぐ私を抱きしめて、焦っていたらいつの間にか横抱きの状態にされていた。ああっ、運ばれる!手乗りでもポケットでもなく!
「もう今から婚約式をするか。」
「お待ちください、殿下!殿下ーっ!」
「呼び方が戻っているぞ。」
「一回、一回だけお待ちください!頭を冷やしてまいりますからっ」
このまま一緒にいたらとろとろに甘やかされて、思考能力ゼロの物体になり果ててしまいそう。
心を強くもたないと!軽々と私を抱き上げるなんて逞しいとか、ぴったりくっつけて嬉しいとか、そんな事を思ってしまってる場合ではなくて!
足を止めてくれたマティアス様と目が合う……ち、近い。
「婚約を承諾したという事でいいな?でなければ下ろさないが」
「っ…喜んで、お受け致します……から、その。下ろして………貴方が好きすぎて、溶けてしまいそう」
かろうじて声を振り絞ると、マティアス様は黙って私を下ろしてくれた。
床にへたり込んでしまいそうなところを、ソファへすとんと座らせてくれる。だめ、優しくて好き……。
心の中で白旗を持ち、顔を上げようとして――どうしてか、目の前に手がかざされる。見えない。
「マティアス様?」
「……頭を冷やしてくる。」
「えっ」
それは私がやりたかったのですが。
なんて伝えるより早く、踵を返したマティアス様はすたすたと図書室を出ていってしまった。




