21.世界中の誰よりも、貴女を
王太子マティアス・フィン・アーレンツ殿下。
共に朝食をとっている間、彼は私を気に入ったのだろうと会話の端々から感じる事ができた。今もほら、目が合って微笑みを交わす。
「昨日はケイスが失礼致しました。切迫した用を思い出し、殿下に挨拶もなく去ってしまったと聞いています。」
「まぁ、そうでしたか。体調を崩されたのでなければよかった……今日は、いらっしゃらないのですか?」
「これ以上無礼のないよう、本日は他の仕事を任せています。」
「わかりました。明日にはまたお会いできる、そう信じておりますね。」
小首を傾げて言った私を見て目を細める、マティアス殿下。わかっています、貴方がもう夢中である事は。
仕方がないわ、当然だわ、ヴァルトルーデ様に惹かれてしまうのは。
城を守る騎士だって、廊下を歩く貴族だって、思わず手を止めた文官だって、責められやしない。老若男女関係なく、私が視界に入れば自然と目で追いかけて、じっと見つめて、感嘆のため息をつくの。
「この城には三尾猫が暮らしているのですが、お見かけになりましたか?」
「はい。見た時は驚きましたが、可愛らしい猫ちゃんですね。あの子は撫でたりできるのでしょうか?」
「乱暴にしなければ問題ありませんよ。賢いので、人にするように声をかけてやった方が理解します。」
「話しかけた方がいいのですね、わかりました。慣れない相手だからでしょうか、先日は逃げられてしまって。」
私のヴァルトルーデ様、誰もが貴女の虜になる。
私はヴァルトルーデ様、貴女を体現する事で、その存在を残し続けるわ。
私がヴァルトルーデ様、なんて素晴らしい夢の実現!
「我が国は比較的魔物が少ないものですから、知識が不足していてお恥ずかしい限りです。マティアス殿下は、人を襲うような魔物も見た事があるのですか?」
「実情を知らず城にこもっていては、わからない事がありますからね。討伐隊に参加し現場で指揮を執った事もあります。」
「…勇敢でいらっしゃるのですね。お怪我はありませんでしたか?」
「大した事は。優秀な騎士達がいましたから」
私でいいの、私がいいのよ、マティアス殿下だって私と結婚するの。
「ヴァルトルーデ」の夫に貴方を選びましょう、相応しいだけの存在価値があるから。
子供を産む事も国同士を繋ぐ事も私が担いましょう、それでいい。
そうすればずっと、永遠に、「貴女」は私だけのもの。
「ヴァルトルーデ王女」
その名前すらも私のもの。
ああ本当に、あの夜の私はなんて愚かだったのかしら。私の体が崖の下なんてありえない。よく眠れる薬を手に入れるべきだったの、美しく飾っておける方法だって、探せばあったかもしれないのに。
今となっては全てが遅い。
「貴女に大事な話がある。後で離宮を訪れてもいいだろうか」
「もちろんです。ふふ、何のお話かしら」
「それはまだ言えませんが、ぜひ楽しみにしていてください。」
「わかりました。いらっしゃるのを待っております、マティアス殿下。」
私を■■■と呼んだヴァルトルーデ様はもういない。
貴女がいなくて本当に悲しい、寂しい、辛くて苦しい。
だけど今はもう私こそがただ一人のヴァルトルーデだから、鏡を覗けばまた会える。何度でも。
花の離宮へ戻り、自室の鏡に手を触れた。
大丈夫。貴女はそこに居て、ちゃんと私を見ている。
だって目が合うもの。
鏡を見れば、私が貴女を見るのと同じように、貴女も私を見てくれる。私達はこれでいい、鏡合わせのようでなければ。
ヴァルトルーデ様はもういなくても、ヴァルトルーデ様が私を見ていてくれるから、頑張れる。
ずきりと、胸が痛んだ。
「……大丈夫」
口角を上げて、目を細めて、ああ、私の大好きな貴女の笑顔。
これでいい、これでいいの。私は何も間違ってない。きっと失ったものより手に入れたものの方が大きくて、ヴァルトルーデ様はもういないけど、ヴァルトルーデ様はもう全部私のものだから。
「…【どうか、私の言葉を信じてね】」
ヴァルトルーデ様はどうしてか、悲しそうに笑ってる。
どうして?貴女には幸せに包まれて安心して笑っていてほしいのに。
恐怖に泣き叫ぶ事があるなら、それを見てみたかったのに。
裏切られて眉を吊り上げるなら、目を見開いて絶望に青ざめるなら、それを見たかったのに。
私の事で、心を揺さぶられてほしかったのに。
「大丈夫。私は大丈夫。貴女は大丈夫よ、ヴァルトルーデ」
全部が上手くいく魔法。役立たずの魔法。
自分には自分の言葉が響かない。ロジーナもルーカスも皆皆、簡単に私の思うままだったのに。鏡の中のヴァルトルーデ様、貴女だけは。
ヴァルトルーデ様そっくりの女が、気に食わないと言わんばかりに顔を歪めている。ああ、違う。ヴァルトルーデ様はそんな顔じゃない。私はそんな顔じゃない。
「何もかも上手くいくの」
魔法の効果がない。何も心が変わらない。
でもきっと大丈夫なのよ、私はヴァルトルーデ。誰からも愛されて誰からも大切にされるべき人間なの。口角を上げて、ほら。
何も心配はいらない。
マティアス殿下と結ばれたら、誰も私の、ヴァルトルーデの噂なんて信じないでしょう。あれは崖に落ちた■■■がした事で、ああどうしてかしら、私にとってあの子は大事な――…。
「……大事な、」
友達。
ヴァルトルーデ様はそう言った。私はそれ以上がよかった、貴女自身がよかった。私と貴女はまったく同じ存在でありたかった。
その答えは違ったのよ、あの私は言葉の綾で「間違えて」いた、だから本当は、こう思うべきなの。
「あの子は、私そのものだったのに」
ヴァルトルーデ様。
貴女があの夜、私に言葉をかけてくれていたら。感情を見せてくれていたら。
裏切られた時の正しい対応が、表情が、声色が、仕草が、わかったはずなのに。
どうしていたらいいの、私がヴァルトルーデ、それはわかっているけれど。まだ少し手探りで、「これでいい」と、「これで合ってる」と安心したいのに、貴女はもういない。
「半身をちぎられたように痛いわ、苦しい。あの子だけが私をわかってくれたの、大事な大事な、私自身だったのよ」
きっと、そう思っていた。
ヴァルトルーデ様は私だから、私はヴァルトルーデだから。私ならこう思うと考えた事がきっと、全ての正解なのね。
「どうしてって思うけれど、もっと話す時間をもたなかった私がいけないかもしれない。もっといつも一緒にいれば。私達は同じなのだから――そう。あの子が望むなら、それは私の望みと同義で……貴女の好きなようにしていい。そう伝えないと…」
鏡の向こうで、ヴァルトルーデ様が私に微笑んでいる。
貴女の好きなようにしていい、と。語り掛けてくれている。私の幸せを願うみたいに、嬉しそうに微笑んでいる。ありがとう。
私達は頷き合った。
双子の姉妹みたいにすべてが同じで、分かり合えていて、心が満たされていく。
大丈夫。私は貴女になれている。
部屋の扉がノックされ、廊下側からロジーナの声がした。
「ヴァルトルーデ様、マティアス殿下が到着されました。」
「……今行くわ。」
鏡の中のヴァルトルーデ様に、「また後で」と手を振る。
ロジーナに「変なところはないわよね」と見てもらって、私は夫となる男性のもとへ向かった。
大事な話、もしかして婚約の申し込みかしら。心なしかロジーナがうきうきしている。
「信頼できる護衛や使用人も共に聞いてほしい、との事ですが。いかがされますか?」
「そうなの?ではロジーナ。貴女と、ルーカスと…」
もしかしたら、滞在を延ばしてほしいというお話かもしれない。
マティアス殿下はまだ王太子だもの、本人の気持ち一つでは押し通せない事もあるのでしょう。国王陛下の承認を得るまでに時間がほしいのかも。
「王太子殿下との面談に同席とは、本当によろしいのでしょうか。」
合流したルーカスは少し困り顔で、眉間に深い皺を刻んでしまってる。
昨日よりは顔色がいいかしら?よく眠れたならよかったわ。ルーカスには健康で長生きしてほしいもの。
「そう言うけれど、私と殿下はまだ二人きりが許されないでしょう?」
「ええ。ですが同室内で警護するのと同席とでは、意味が…」
「大事な話がどんな内容かはまだわからないもの。二人が傍にいてくれた方が安心だわ。ひょっとしたら、何か注意を受けてしまうかもしれないし。」
「ふふ、ヴァルトルーデ様に限ってそれはありませんよ。」
ロジーナが笑って、ルーカスも少しだけ肩の力を抜いてくれた。
小さい頃から私を見守ってくれていた二人だから、心から信頼できる。マティアス殿下との事も祝福してくれるとわかっていて、だから、ルーカスの部下が扉を開けてくれるのを大人しく待っていた。
広い応接室。
二人を伴って入室した私は、後ろで扉が閉まる音と同時に硬直する。
礼服に着替えたマティアス殿下もまた美しいと思ったけれど、それ以上に。私の視線は――いいえ、部屋にいた全員の視線が、その隣にいる女性に釘付けになっていた。
長く艶やかな銀髪は上品に結い上げ、金で縁どった淡い桃色の花飾りを差している。
宝石のように煌めく青い瞳、ドレスは光沢のある白銀色を基調として、差し色に青を使いながら華麗に仕上げられていた。
ヴァルトルーデ様だ。
わかる。この場の誰より知っている。
世界中の誰より私が、一番、貴女の美しさを知っている。
「……え?」
息も、時さえも止まっていたかもしれない。
私がぼうっと見惚れていたら、ロジーナの声がした。見るまでもないけれど、動揺している。ルーカスも。後ずさりするような、床の絨毯を踏みにじる音。
「ヴァルトルーデ様…いえ、カルラ?違いますね、だって――あ、あら?」
「どう…いう事、ですか。これは、一体……?」
ロジーナもルーカスも、一体誰に聞いているのかしら。
私が見ているのは一人だけ。青い瞳と目が合って、ああ、本当に貴女なのだと思い知る。
「本物のヴァルトルーデ王女をお連れした。」
マティアス殿下が何か言ったけれど、そんな事はどうでもいい。
ロジーナがよろめく衣擦れの音も、ルーカスが息を呑んだのも、全て遠い出来事のように感じられた。
だって、貴女が私を見ている。




