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【完結】ハムスター王女、隣国王太子のペットになる  作者: 鉤咲蓮


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20.鏡の中の王女様




 クロイツェルの第二王女には影がいる。


 一目でそれとは見抜けない、背丈も容姿も声質もよく似せた女がいる。

 誰あろう王女を守るため、影の存在はごく一部の限られた者しか知らなかった。




「おはようございます、ヴァルトルーデ様。」


 アーレンツの王城敷地内にある、花の離宮。

 それがクロイツェル王国第二王女に与えられた宿だ。大きなベッドの中で一人、長い銀髪の女性がころりと寝返りを打った。


「…うぅん……おはよう、ロジーナ。」

「うふふ。早く起きませんと、朝食を食べ損ねてしまいますよ。」

「それは困るわ……」

 白い手指を口元にかざし、ヴァルトルーデは欠伸を噛み殺して起き上がる。

 ロジーナと呼ばれた侍女が顔を洗うための湯桶とタオルを用意し、その間に他の侍女がてきぱきとカーテンを開けて部屋に光を取り込んでいた。


 洗顔を終えた王女の肌に化粧水をしみ込ませ、保湿クリームを適度に塗っていくのもロジーナの仕事だ。

 今年で四十歳になった彼女はヴァルトルーデが生まれる前から城に勤めており、赤子だった彼女が成人するまでずっと傍で見守ってきた。

 当然、影を勤めていた少女カルラの事も知っている。


 ――ヴァルトルーデ様……あれ以来涙は見せないけれど、カルラの裏切りがどれだけお辛かった事か。私が気付けていれば……!


「ふふ。どうしたの、ロジーナ。顔が怖くなっているわ」

「……!なんでもありませんよ。今日も美しく仕上げますからね!」

「ええ、よろしくね」

 くすくすと微笑むヴァルトルーデの笑顔に、無理をしているような様子はない。

 隠すのが上手なだけでなければいいけれどと、ロジーナは心配に思いながらも化粧道具を手に取った。


 影の仕事がない間のカルラは、ロジーナの補佐をする寡黙な侍女。

 ヴァルトルーデに似た髪色はウィッグで覆い隠し、肌色を暗くして、化粧によって目元の印象も変えて。


 カルラはヴァルトルーデが大好きで、尊敬していて、いつも笑顔で主人を褒め称えていて。

 だから気付けなかった、想像だにしなかった。

 彼女がヴァルトルーデの姿で男漁りをして、挙句、本物を殺そうとするなんて。


 ――ああ、でも、きちんとカルラが討たれて、良かった。


 そこまで考えて、ロジーナははたと手を止める。

 鏡台の前で、目を閉じたヴァルトルーデは大人しく座っていた。見慣れた光景のはずなのに、透明な薄い膜を張った向こうを見ているように何か、違う。


 ――何が「良かった」の。私が面倒を見ていた子が主人を裏切ったというのに。「きちんと討たれた」って、何がかしら。……お優しいヴァルトルーデ様が、カルラを殺すよう命じたというの。公正な裁きもなく……あら?あれ、おかしい。そうだわ誰か、ああいえ違うの、助けて――……何、が?


「い、痛っ…」

「ロジーナ?」

「いえ……何でもありません。少し頭痛がして。」

 ずきりと痛んだ頭を軽く押さえ、ロジーナはどうにか微笑んだ。

 歳のせいだろうか、ここ一、二年ほどは頻回に頭痛がするようになってしまったのだ。医者から薬も貰っているけれど、中々よくならない。

 ヴァルトルーデは心配そうに眉尻を下げていたが、にこりと笑って立ち上がった。


「ちょっとだけ座っているといいわ。」

「いいえ、とんでもない!」

「私が頼んでいるのよ、お願い。貴女が心配だもの」

「…ありがとうございます。」

「大丈夫よロジーナ、安心して。【どうか、私の言葉を信じてね】」

 自分が座っていた椅子にロジーナを座らせて、ヴァルトルーデは慈愛の微笑みを浮かべている。

 その一言は、いつからかヴァルトルーデがよく言うようになったものだ。事ある毎に「信じて」と伝えたくなるのも無理はない、カルラのせいで広まった噂はひどいものだった。


「何も心配いらないわ。カルラは報いを受けて、これから先は間違えようもないでしょう?私だけがヴァルトルーデ。それを皆が知ってくれている。何も問題ないわ」

「はい…魔法なしでは、あの子ほど貴女様に似せられる者はいないでしょう。」

「そうね。だから安心していいの。ね?」

「……はい。」

 重く感じていた頭がすっと楽になり、「安心していい」と理解したロジーナはゆっくりと頷いた。

 嬉しそうにはにかむヴァルトルーデは愛らしく、その声には、言葉には、人を落ち着かせる力があるのかもしれないと思えてくる。

 滲む視界の向こう、青い瞳が不思議そうに瞬いた。


「…泣いているの?」

「え……あれ、本当ですね。嫌だわ、どうしてかしら……」

 頬に一滴流れた涙に、違和感を抱いたのは他ならぬロジーナ自身だ。

 ヴァルトルーデのお陰で安堵したはずなのに、胸の奥に何かある。


 自分の心が何かを叫んでいる気がして、それが何なのかがわからずに、困り果てたロジーナは苦笑した。「何も心配しなくていい」というのに、四十歳にもなって理由もなく涙を流しているなんて。情けなくて恥ずかしくなってくる。

 慈しむように微笑んで、ヴァルトルーデは自分のハンカチをロジーナの頬にあててくれた。


「ありがとうございます。なんてお優しい…」

「ずっと傍にいてくれる大事な貴女だもの。涙を見たらこうするのは当然の事だわ」

「…うふふ」

 ロジーナは意識して口角を上げる。主人に励まされてばかりでは侍女失格だ。

 気を取り直して、「何も問題ない」のだから、誇りをもって仕事をこなさなければ。


「もう大丈夫です。お化粧の仕上げをしてしまいましょう。」

「ふふ、無理はしないでね?」

「もちろんです。さぁさぁ、座ってください」

 この国に滞在する間は特に、ロジーナの大事な姫君を美しく見せる必要があった。

 ヴァルトルーデ本人には表敬訪問だと伝えられているが、実際のところ今回はお見合いなのだ。


 アーレンツ王国の王太子、マティアス・フィン・アーレンツ。

 ヴァルトルーデの四つ年上で二十二歳、文武ともに優れた美丈夫だが婚約はしていない。そういう男は何かしらあるものだと、ロジーナは今回の訪問を少し警戒していた。

 特殊な癖があるとか、女性に対してかなり横暴だとか、一人に縛られたくないとか、《問題》があるのではないかと。


 しかし今のところマティアスの対応は紳士的だし、ヴァルトルーデも満更ではない様子だった。

 内々に流れていたカルラによる悪評が知られていたらどうしようか、そんな不安もあったものの、どうやらアーレンツ王国側は噂を知らないらしい。

 手伝いも呼んでドレスの着付けも化粧もヘアメイクも完璧に仕上げ、ロジーナは満足気に頷いた。


「王太子殿下とのこと、応援しておりますからね。ヴァルトルーデ様」

「マティアス殿下……ええ、そうねロジーナ。恥ずかしいけれど、頑張ってみる」

 頬を桃色に染めたヴァルトルーデの愛らしさについ、「若いっていいわねぇ」と心の中で呟いた。

 王女は長い睫毛を重ね合わせ、開かれた中の青い瞳と鏡越しに目が合う。夢見る少女のような眼差しを、無理もない事だと思った。ヴァルトルーデはきっと、恋をしているのだから。


「あの方なら、相応しいもの。」

「……ええ、ヴァルトルーデ様」


 貴女はこんな目をしていたかしらと、どこか遠くで思いながら。

 それでも今は何も心配する必要はなく、何も問題はないのだ。ほんの微かな息苦しさを気のせいねとすぐに忘れて、ロジーナは鏡の中のヴァルトルーデへ微笑み返した。


「ルーカス達は準備できていて?」

「はい、もちろん。」

「では行きましょうか。」

 二人が廊下へ出るとすぐ、扉の近くで待機していた若い騎士が頭を下げる。

 笑顔で彼らに挨拶したヴァルトルーデは一階へ降り、扉が開いた先の馬車近くにルーカスがいた。


「おはよう、ルーカス。」

「…おはようございます。殿下」

 白髪交じりの灰色の短髪に整えた髭、ルーカスは五十三歳ながら未だ現役の近衛騎士である。

 吊り上がった太い眉はいかにも厳格そうだが、ヴァルトルーデにとっては、小さい頃から遊んでくれた優しくも厳しい祖父のような存在だ。

 彼の目の下に隈ができているのを見て、ヴァルトルーデは悲しげに目を伏せる。


「また眠れなかったの?約束したでしょう、きちんと休むって。」

「……申し訳ありません。何か、胸騒ぎがしましてな。」

「いざという時動けなければ困るだろう、なんて皆さんを叱る立場でしょう?貴方は。」

「面目ございません。何も案ずる事はない――…頭では、それをわかっているのですが。」

 心なしか頬がこけているとヴァルトルーデが指摘すると、ルーカスは苦い顔で頭を掻いた。

 眠っている間にハッと目が覚めてしばらく動悸が治まらない、何か疑問に思うような落ち着かない心地がしてそもそも寝付けない、そんな症状が続いているのだ。


 ――言えば殿下を余計に心配させてしまう。……私も、もう引退の歳か。


「ルーカス殿。ヴァルトルーデ様をあまり困らせるなら、睡眠薬を手配してでも休んで頂きますからね。」

「む……」

 眉を顰めたルーカスはロジーナに「それはないだろう」と言いたくなったが、場合によってはそうしてでも眠るべきかと迷った。

 いざという時に寝不足で動けないようでは騎士の恥だ。


 ――だが、そんな場合ではない。何がだ?私は一体、何が気になって焦っているんだ。わからない。殿下の傍へ置く騎士の配置も、夜を見張らせる数も、全てがおかしいのではないかとさえ思えてくる。


『ルーカス。お願いがあります』


 ――殿下。あれが全てカルラのせいだったなら、なぜ私は。


『もう悪戯や悪意の域ではない……私の部屋を見張っていて。噂の正体を突き止めましょう』


 ――どうして私は出し抜かれ、貴女の誇りを守れなかったのか。


「『ルーカス?」』


「……はい。」

 ほんの一瞬、若い騎士と腕を絡めた寝衣のヴァルトルーデが見えた気がして、ルーカスは目元を腕で擦った。そんな姿を見た事はない。

 どっと疲れたように思えて、意識的に背筋を伸ばす。どうして額に汗が滲むのか。頭が重く感じるのか。


「体調が悪いの?本当にお願いよ、無理をしないでね。」

「問題ありません、殿下。まだまだ若い者には負けませんので」

「……そう。問題ないなら、いいのだけれど。」

 裏切者のカルラは、騎士の一人が討ったという。

 普段の自分ならそれを叱責したはずだ、自ら赴いて現場を確かめたはずだ、なぜそうしなかったのか、明確な理由はよく思い出せない。「それでいい」と、「問題ない」と思ったのだ。どうしてか。


 ――敵が討たれ、殿下は無事である。それ以上に何を望むというのだ。


「やっぱり心配だわ。貴方も馬車の中へ」

「何を仰います。騎士たるもの、外で警戒をせねば…」

「外と言っても、お城の中じゃない。アーレンツの城内で誰が私を襲うのよ。」

「しかし」

 渋るルーカスの腕に手を添えて、ヴァルトルーデは安心させるように微笑んだ。


「大丈夫。少し()()しましょう?」




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