17.仮初の幸福を得た先に
「あの偽王女、早いとこ締めた方がいいな。」
ケイスと共に情報統括局を訪れると、ヒルベルトは欠伸をかみ殺しながらそう言った。
恐らく昨夜あまり寝ていないのだろう。目の下にはうっすら隈ができているし、瞬きの回数が多い。ケイスが小さく息を呑み、口を開く。
「…昨夜は一方的にレイケルをこちらへ寄越してしまいましたが、いかがでしたか。」
「まだここに居てもらってる。本人はサッパリ事情をわかっちゃいないが、他にも暗示がかかってたら困るんでな。」
ロブレヒト・レイケルは実直な騎士だが、昨夜は俺の部屋に侵入しルルを殺そうとした。
ケイスの判断でヒルベルトのもとへ向かわせ、結果として軟禁されているのだろう。偽のヴァルトルーデ王女……カルラという女の魔法を受けたために。
「そっち掛けてくれ、多少長くなる。」
ヒルベルトが軽く手振りし、俺とケイスは応接用のソファに腰掛けた。
ローテーブルを挟んだ向かいにヒルベルトが座り、人物名が羅列されたリストを置く。何人か打消し線が引かれていた。
「俺があの王女の周りに配置した部下だ。身を隠さず偽の役職で近付けた奴らは大体やられた」
「どういう状態だ?」
「吹き込まれたのは恐らく『あの王女は本物であり、王太子の嫁に相応しい』こと、そして『王女とは何も会話していない』あたりだな。動向を探る仕事はまともにやってるが、報告書に不要な誉め言葉だの、偽物じゃないと思うだのを添えてきてる。」
「レイケルと同じように、それが正しいと信じ込んでいるのですね。」
本当に厄介な魔法だ。
そんな人間に囲まれていただろう本物のヴァルトルーデ王女は……彼女は、わけもわからないまま二年も過ごしていたのか。
『当時私は何が起きているか側近に調べさせておりましたが、何も掴む事はできず。』
わからないのは当然だろう、調査を任された側近かその部下か、調査対象か、あるいは全員が魔法にかかっていたかもしれない。
真実など掴めるはずがなかった。
「マティ、そっちはどうだった。朝飯も一緒だったんだろ」
「…ルルがいなくなったと伝えたら、悲しそうな顔をしてみせていたな。見つかる事を祈っていると」
「ふはっ!自分で殺せと命じたくせに、よく言ったもんだ。」
「…私は見ていて恐ろしかったですよ。あの女……王女殿下の顔を使って、本当に心底悲しそうな表情をしていたので。」
苦い顔で言いながら、ケイスは悪寒がしたかのように二の腕を擦る。
俺もあれは内心吐き気がした。王族の影として身に付けた技術なのだろうが、真実を知っていればこそ悍ましい。
長い脚を組み、ヒルベルトが背もたれに寄り掛かって笑う。
「確かに末恐ろしい女だよ。俺にも会おうとしてきた」
「何だと?」
「もし自分を警戒している者がいるなら、誤解を解くために直接話したいと言ったようでな。部下が『その場では知らないと言いましたが、長官。ぜひご自分の目でもお確かめください』だと。」
「警戒という事は……偽物と知られた心配というよりも、王太子妃になるための布石でしょうか。」
「だろうな。」
あの女はそうやって、自分を怪しむ者に直接会っては魔法をかけていったのか。
影武者の存在はごく僅かな人間しか知らないのが常だ。そこを懐柔した先は、相手が「本物の王女」と勘違いしている状態。言葉を聞かせるのは楽だっただろう。
「ヴァルトルーデ王女は可哀想だが、あの女の目的が『王女になって男を選り好みする』くらいでまだよかったかもな。いくらでも悪用できる魔法だ。」
「しかし捕まえるにしても、これほど精神干渉を使われては……指輪の守りがある殿下はともかく、他はどう対処すればいいのか。」
ケイスが苦い顔で落ち着きなく眼鏡を押し上げた。俺一人無事だったとして、こちらの騎士を幾人も懐柔されては困るのは確かだ。さすがに過半数がやられるという事はないだろうが。
ヒルベルトが任せたとばかり俺を見やるので、口を開く。
「…己の言葉を信じさせる魔法であるなら、最悪、相手が魔法を発動した時点でこちらは耳を塞ぐ。」
「ああ…そこから先の言葉を全て聞かなければいいと。確かに」
「まぁそれやると、固有魔法を把握してるって事はバレるけどな。発動だって、魔力を感知できる奴じゃないと気付けない。」
耳栓でも持ち歩かなければ手が使えなくなってしまうし、完全に塞がないと意味がない。
おまけに相手が多勢を従えていた場合、聴覚を捨てるのはかなり厳しい選択になるだろう。ヒルベルトの指がテーブルを叩く。
「精神干渉系は確かに強いが、本人の認識と乖離した内容を擦り込んだり、頻回に使用すればするほど、何かしら負荷がかかるもんだ。持続性か、かかりにくさか、術者自身にか…それは個々によるだろうが。王女の噂が出たのは二年前と聞く……一体何人に使ったかね。この様子じゃ使用間隔を空けてもないだろうし、案外、とうに本人の精神も崩れているかもな。」
「ありえますね。成り代わりたいと思っている相手の評判を自ら下げたこと。他国の城内で好き勝手に魔法を使っていること……仮にも王女の影を任されるような人間が、よくそのような愚行に走ったものです。」
「マティ。本物は今どうしてる?」
「アンベルに見させている。目を覚ましていれば、今頃は星の離宮にいるはずだ」
「星だぁ~?」
ヒルベルトは片眉を吊り上げ、勢いづけて立ち上がった。
何をするかと思えば、気だるげに頭を掻きながら机に向かっていく。卓上に積まれた書類から一束抜き出したようだ。ページをめくりながらため息をついている。
「そこは月にしておけよ。お前の離宮だろ」
「普段出入りがないのにか?目立つし、相手の魔法を考えればこそ、護衛を多く入れるわけにもいかない。かえって危険だ」
「星の守りが堅いのはわかるが、ヘルトラウダ様が大人しくしてるかな。」
「王妃殿下でしたら、日中は会合が二件入っているはずです。」
ケイスの答えに、ヒルベルトがページをめくる手が止まった。
眉間に皺が寄ったところを見るに、当日に断っても許される相手だったか?
「ブラウエル侯とファルハーレンじゃないか。こんなの後回しだろ、愛息子の嫁候補がいるって時に。」
母上の親族と傘下の商会だ。急用ができたと断っても何ら問題ない。
確かに相手までは確認していなかったな。……というか、この男はどこまで把握しているんだ。ヒルベルトが音を立てて書類を机に放る。
「今すぐ行ってやった方がいいんじゃないか?あの方を恐れない娘は珍しいぞ。」
「…ひとまず見てくる。」
「もし珍しい方の娘だったら嫁にしてこい、マティ。貴重な人材だ」
「あの、デルクス伯。今そこ繊細なので、あまり殿下を追い詰めな――」
「行くぞ、ケイス。」
「はい!」
何やらこそこそ話していたケイスを急かし、笑って手を振るヒルベルトに背を向けて退室した。
正面玄関へ急ぎながら、朝食の席で微笑んでいた女の姿を思い出す。後ろに控えていたクロイツェルの使用人や護衛達の、彼女に仕える事が喜びだとでも言いたげな表情も。
全ては魔法で作られた虚構か。
時間をかければかけるだけ、あの女は周りの人間を惑わし手中に収めていく。
仮に《アーレンツの王太子妃》の立場を狙っているとして、俺の事は外見と演技で篭絡できると思っているのか、それとも魔法を使うつもりなのか。
自分に都合の良い言動をする人間達を集めて、ああして笑っている。
俺には何も共感できない。
「他人を演じて仮初の信頼や好意を得て、何が楽しいのだろうな。」
馬車に乗り込んでから、ついそう言った。
あまりに無価値なものだと思えたからだ。ケイスが苦笑する。
「それはきっと、私や貴方にはわからないものです。演じるまでもなく、信頼も好意も得てきた人間ですから。」
「あのカルラとかいう女とて、それは得ていたはずだ。」
「いえ、どうでしょう…」
「他ならぬヴァルトルーデ王女から。」
「……そうですね。」
友人だと思っていた、ルルはそう言った。
「あの子に殺されかけたなんて、まだ実感がない」とも。
星の離宮へ進む馬車の中、「王女だった頃より幸せ」と言ったルルを思い出していた。
彼女にとって、クロイツェルの王女として生きるのはどんな事なのか。
俺に言葉が通じないと思っていた頃の君は、あんなにぺらぺらと話し、少々抜けている姿を見せる事も間々あったというのに。
人間の姿をとってからは表情も固く、王女として丁寧に適切に距離を取っている。
それは正しい。
正しいが……素を知っている身としてはどうしても、無理をしているように見えてしまう。
「……ルル」
いつも騒がしいのにどうしたと、撫でてやる事ができない。
立派な雇われハムスターになると蹴りを繰り出していた寝顔は、人の姿ならどんな表情だったのか。
『二年に亘る噂の元凶がわかった今、犯人に成り代わりを許してよいはずがありません。』
『その誇りも重んじよう。アーレンツとしては、本物である貴女の保護を申し出たい。』
『…ありがたい事です。王太子殿下』
ケイスに怯えて必死に俺の指を掴んでいたルルが、淑女になんて事をと叫んでいたルルが。
泣きそうに縋る事も怒る事もなく、淡々とただ、俺を見据えていた。
クロイツェルの王女として。
『かの者の罪を暴き地位を取り戻した暁には、私にご用意できるものであればお渡ししましょう。ご協力くださった殿下へ――最大の感謝を込めて。』
国同士、優位に立てるに越した事はない。
だが決して、クロイツェルが憎いわけでもない。取れる札があるなら取ろう、それだけだった。二国間の取り決めを少しばかりこちらに有利にするとか、期間限定で商流か何かを優遇させるとか、そういった事を考えていただけだ。
クロイツェルから何を奪いたかったわけでもない。破滅してほしいわけでもない。
だが今、ひとつ望むとしたら――…。
ずびっと汚い音がして、思考から現実へ一気に引き戻された。
斜向かいに目をやるとケイスが眼鏡を上げ、ハンカチを目元にあてている。
「わかります……殿下、やはりご無理されていたんですね。」
「何がだ。」
「もちろん、当然、ルル様が心配なのですよね……!やっぱり捜索隊を派遣しましょう。城の敷地内も外も街も、果ては辺境ゼイルまででも――」
「お前に居場所は言わないが、ルルの安全は確認している。」
「はい!?それは本当に良かったし世界に今光が差したという心地ですが、まったくもって聞き捨てなりませんし納得できませんが!?」




