16.たった二人の静かなお茶会
長い廊下はこのためだったのね。
広々と奥行きのある図書室は、一角が数人用の読書スペースになっている。
テーブルセットだけでなく、ローテーブルもあれば寝転べそうなソファもあり、ふかふかしているだろうクッションや毛布、恐ろしい事に簡易キッチンまで付いていた。
「好きなところに座るがいい。茶を淹れてやろう」
「あ、ありがとうございます。」
本当にここでゆっくりしていいのかしら。
国を出てから驚く事ばかりで、まるで別世界に来たかのよう――別世界というか、別の国ね。
「…ヘリ―さんは、ずっとここにお住まいなのですか?」
「毎日泊まり込むわけではないが、好き好んでよく来ている。夫には行き過ぎではないかと言われるが」
「愛されておられるのですね。」
「さてな。」
簡易キッチンの方からガコンとポンプを押す音、水の音。……設備が整い過ぎている。
マッチを擦る音や食器の音がした後で、ヘリーさんは一度こちらに戻ってきた。テーブルを挟んで向かいに座りながら、私にクッションを放り投げる。慌てて掴み取った。
「ヴァルトルーデ王女。そなたはなぜマティアスを頼った?――ああ、責めているわけではない。なぜ他国の人間を信じようと思えたかだ。」
「…姿を現す前に、しばし様子を見させて頂いたのです。殿下はデルクス長官と共に、元からカルラの罪を調べるつもりだった……それは成り代わりではなく固有魔法についてでしたが、彼女と対立する位置にいるのは同じこと。」
「なるほど。マティアスもヒルベルトも、娘一人の尾行に気付けなんだか。」
「…この身で潜んだわけではありませんので、致し方ないかと。」
なにせ、ハムスターである。
鷲掴みにして捕えたねずみが隣国の王女だなんて、マティアス殿下は想像だにしていないだろう。デルクス長官も、殿下の胸ポケットに納まっていたねずみが王女だとは思わないはずだ。
「そういう事にしておこう。ブラムもそなたの言う事を聞いたらしいな。」
「はい。リートベルク卿には助けて頂きました。…魔物とは恐ろしいものばかりだと思っていましたが、人に懐くものもいるのですね。」
「貴国は我が国よりも遥かに魔物が少ない。驚くのも無理はないな」
一つ頷いて、ヘリーさんは簡単にアーレンツ王国の魔物について話してくれた。
辺境には魔物が大量に棲みついた広大な森があり、騎士団の中でも魔物戦闘を主とする基地を置いて防衛線にしているとか。遥か昔にその森から生まれたものがあちこちへ散り、やがて各地に居着いたと言われているとか。
「アーレンツの王族は、常に魔物の問題と向き合わなければならない。……もっとも、長い歴史の中で魔物は貴重な資源ともなっている。今となっては、古くに言われていた『魔物撲滅』など掲げたら貴族も商人も大反対だろう。」
生態系のバランスを見つつ、人的被害のないよう上手くやっていくしかないという事だ。
アーレンツ王国の魔物図鑑はきっと、クロイツェルのそれよりずっと分厚い。種類が多ければそれだけ対処方法も異なり、現場で求められる能力も高くなる。
「前線の基地に勤める騎士の皆様は、大変なお仕事なのでしょうね…」
「死地ではないがな。なにせ魔物素材が豊富に獲れる上、代々知識を重ねる事で騎士の殉職率も大幅に減らせている。……だがそなたの言う通り、過酷な現場となる時もまだあるようだ。――この王都ラグアルドでは、まるで遠い異国のように思われているがな。」
アーレンツ王国はクロイツェル王国より領土が広大だし、人の集まる王都と魔物の森が傍にある辺境の地ではだいぶ異なるのだろう。
物理的な距離があればあるだけ、まさに「遠い」出来事になる。当然のことではあるけれど、同じ国に生きているのにと、思わないでもない。
くつくつと小さな音が聞こえてきて、ヘリーさんが静かに立ち上がった。
彼女が入っていったキッチンから茶葉が落とされる音や、お湯が注がれる音がする。賑やかな日常の中では掻き消されてしまいそうなものでも、この静かな図書室においてはよく聞こえていた。
自然と、口が開く。
「……その基地がなければ。貴国が防衛線を保っていなければ、我が国も危機に陥るのでしょうね。お恥ずかしながら、そこまでの詳細は存じませんでした。」
「人は順応する生き物であり、基地がなければないで、別の在り方もあっただろう。今はそれが確立されているというだけだ。わたくしがクロイツェルの辺境の地を知らぬように、そなたもまた遠過ぎて知らなかっただけのこと。恥じる事もあるまい」
漂ってきたのは甘い果物の香り。
ヘリーさんが運んできたトレイにはポットが一つと、温められたカップが二つ。軽く頭を下げてお礼を言えば、「もう二分は待て」とのこと。
返事と共に頷いて、改めて図書室を見回した。薄いカーテンの向こうには草木の緑が見え、青く晴れた空から柔らかな陽光が差している。
「…ここは随分と静かですね。時折外から鳥の声が聞こえて、穏やかで……時を忘れてしまいそうです。」
「休日には大抵、ここへ一人でこもっている。下の者には連れ戻すのが大変だと言われるが、やはり心地良くてな。」
「お一人で……城の敷地内とはいえ、皆様ご心配されるのでは?」
「無用だ。今もここにはわたくしとそなたしかおらんが、安全は保障しよう。」
ヘリーさんは随分きっぱりと言い切った。
もしかすると、この場所自体に誰かの魔法が使われているのかもしれない。
「それで……花の離宮に居る不届き者を捕えたら、その後そなたはどうするつもりだ。」
「一度、クロイツェルに戻ろうと思っています。」
「一度。」
「確認が必要なのです。彼女の罪を暴いたとて…本当にその全てが彼女のものだったのか、影に罪を着せただけなのではないか……噂を知る者には、必ず疑念が残るでしょう。それはきっと父も同じこと。」
カルラの魔法が、果たしてどこまで影響を与えていたのかもわからない。
魔法を使われる前から「疑わしい」と思っていたのか、元々信じてくれていたのか。
あの子が捕われ魔法が解けた時、お父様は何を思うのかしら。
「結果としてどこまで失い、何が戻ってきて、私の自由が利く範囲に何が残るのか。それをきちんと把握してからでなくては……保護してくださった王太子殿下へのお礼もですが、国としてどう対応するのか。その協議には、当事者である私もいなくてはなりません。」
「無論、そうであろうな。」
「ですから一度戻り、改めて正式なお礼に伺いたいのです。この身だけでは渡せるものがなく、できる事も限られるので」
賢いハムスターとしてならお役に立てるかもしれないけれど、ルルは私だと明かすわけにもいかないし。
少し沈黙が流れて、ヘリーさんはポットに手を伸ばした。腰を上げかけた私を手ぶりで制し、先に私のカップへ紅茶を注いでくれる。
「そなた、故郷に意中の男はいるのか?」
唐突な質問につい、目を丸くする。
どうにか「えっ」などと素っ頓狂な声を上げずに済んだけれど、なぜそんな話になったのかしら。「いいえ」と答えても、ヘリーさんの冷静な表情に変わりはない。読めないお方だ。
「ではマティアスをどう思う。」
「…そのご質問は、」
「どう答えたとしても、誰かに言う気はない。ただわたくしはわたくしで、仕事ばかりの甥御を心配していてね。そなたのように話のできる娘が隣に居てくれれば、安心できるのだが。」
私は小さく首を横に振る。
心が浮き立つ事はなかった。それほど畏れ多い話だったから。
「ヘリーさん。もちろんご承知の上とは思いますが……殿下は、貴国を背負い立たれるお方です。私は生まれこそ王族ですが、影に己が地位を奪われ、身を縮めて逃げ回ったような無力な娘……並び立つには不足がございます。」
殿下と同じ赤い瞳が、私を見ている。
ちらりと一度視線を外して、ヘリーさんは紅茶を飲むよう手振りで勧めた。私は「頂きます」と言ってからカップを持って、一口……あ、おいしい。
こくりと飲み込めば、体の中心から温かさが染み渡る。もう一口飲んでからカップを下ろすと、それでいいとばかり頷かれた。
「ヴァルトルーデ王女。わたくしは立場を踏まえた上での見解ではなく、そなた自身の感情を聞きたいのだ。マティアスはつまらないか?」
「まさか。つまらないなどという事は……」
むしろ面白いお方だと思う。
わかりもしないのにねずみの話を真剣に聞いてくださったり、差し上げたピーナッツをきちんと受け取って食べてくださったり。
撫でてくださる手の優しさや温度を思い出してしまって、視線が勝手に泳いだ。
どう答えたものかと迷い、膝の上で軽く手を組む。
「…助けて頂いた身である私を、同志のようなものだと言ってくださって。カルラの処遇についても、私に覚悟があるのか気にかけてくださいました。優しいお方だと思っています」
「優しい、か。あの子がな……」
「こういうところが人に愛される所以なのだろうと思う時もございました。お会いしたばかりの私より、臣下の皆様の方が殿下の魅力をご存じだとは思いますが。」
小さな私を見下ろしていたマティアス殿下を思い浮かべ、その真剣な表情につい口元が微笑んでしまう。男性に対して「愛らしい」と感じたのは、あれが初めてではないかしら。
ヘリーさんがカップを傾け、立ち昇った湯気が部屋の空気に溶けていく。
「……ふむ。なるほどな」
「クロイツェルに戻った後も……もし私が個人的にお役に立てる事があるならば、お声がけを頂けたら光栄に存じます。」
あくまで個人的にだ。
国としての御礼と謝罪はそれより先に終え、後には引きずらないべきである。果たして、私個人の力でマティアス殿下のお役に立てる事があるのかは疑問だけど……。
時折手紙を交わしたりして頂けたなら、また何かの折に訪れた時にでも、ルルとして一度くらいご挨拶ができるかもしれない。
廊下を誰かが歩いて来る靴音がして、扉を見やる。
ヘリーさんが「早かったな」と呟いた。勢いよく開かれた扉から入ってきたのはマティアス殿下だ。赤い瞳が私を見据え、ヘリーさんに移って苦い顔になる。
つかつかと私達がいるテーブルの近くへ来たマティアス殿下は、眉間に皺を寄せてヘリーさんを見下ろした。
「何をしているのですか。母上」
「わたくしはここの管理人だ。寛いでいて何が悪い?」
ぱちりと、瞬く。
マティアス殿下の母とはつまり、王妃殿下その人という事である。私が目を丸くしたせいだろう、マティアス殿下が片眉を僅かに上げる。
「彼女に何と言ったのです。」
「王妃の妹だと言っていたのに、気の利かないそなたが喋ってしまったところだ。」
「俺のせいにしないでください。…ヴァルトルーデ王女、失礼を。こちらは俺の母、王妃ヘルトラウダです」
「うむ」
「――とんだご無礼を、」
「よい。わたくしが偽ったのだからな」
立ち上がりかけた私を制し、ヘリーさん、いえ、王妃殿下が言う。
座り直すよう手振りされ、一瞬悩んだけれど腰を下ろした。この場における最上位は王妃殿下なのだ。
「ヴァルトルーデ王女、明日にはそなたに合うドレスができているはずだ。愚息のエスコートに不安があるかもしれないが、事の成り行きはわたくしの手の者も見守っている。落ち着いて臨むがいい」
「不安だなんて……ですが、ありがとうございます。とても勇気づけられます」
王妃殿下は鷹揚に頷いて、マティアス殿下と目を合わせる。
親子の目配せにどんな意味があったかはわからないけれど、マティアス殿下だけでなく王妃殿下もまた、協力の意思を自ら見せてくださった。
……何を返したら、この恩に釣り合うのかしら。




