15.星の離宮の管理人
かち、かち、時計の秒針が鳴っている。
いやに響いて聞こえるのは、ここが普段使われていない、がらんとして物が少ない部屋だからだろう。
柔らかいベッドに身を沈めたまま、私は少しだけ身じろいだ。人間の体できちんと湯を浴び、汗を流して洗い、すっかり磨き上げられた後のこと。
『ルルの事は……心配していない。賢いねずみだからな。戻ってきたければ、またいつか顔を見せるだろう。俺はそれでいい』
マティアス殿下はそう言って、私を捜そうとするケイスをやめさせた。
そうですね、貴方の言う通り私は賢いねずみ。だからこそ今夜ご挨拶に行きたかったけれど……「またいつか」ルルとして会いに行っていいのなら、無茶はやめておきましょう。
『私はもちろん、ずっとお役に立ちますよ。』
『…いつもありがとう。カルラ』
暗闇を見つめて、浮かぶのはあの子の笑顔。
今どうしているかしら。
私がいなくて嬉しいだろうか、あるいは「カルラが裏切っていたなんて」と泣くふりを?それか、殿下と結ばれる事を夢見ているのかもしれない。
私に成り代わりたかったあの子が、一体何を望んでそうしたのだか……私にはわからない。私が持っている何が欲しかったのだろう。地位?お金?宝石?そんなものを欲しがる子だったかしら。わからない。
柔らかくて温かい布団に包まれて、うっとりと眠気が覆いかぶさってくる。
不思議に思っても、不可解に思っても、残念に思っても。
私は彼女を、憎らしいとまでは思えなかった。
「おはようございます、ヴァルトルーデ殿下。朝ですよ」
「……うぅん…」
聞き慣れないけれど聞き覚えのある、女性の声。
小さく呻いた私はゆっくり布団の中で伸びをして、ふうと息を吐いた。今日は何をする予定の日だったかしら――…、そうだわ。
マティアス殿下の顔が浮かんで、ぱちっと目を開ける。
ハムスター王女こと私は、人間の姿で殿下に会って保護して頂いたんだ。
そっと身を起こしてみると、サイドテーブルには火の入ったランプ。昨日世話をしてくれた侍女のアンベルがいて、閉め切られたカーテンの隙間からは朝日が漏れていた。
「…おはよう、アンベル」
「よく眠れましたか?」
「ええ。とっても」
アンベルは優しい顔立ちをしていて私より少しだけ背が低く、栗色の髪を後ろで一つにまとめている。昨夜は交替ですぐ隣の待機室に詰めてくれていたはずだけど、疲れた様子は微塵も見せない。
亡くなったお母様と年代が近いからか、穏やかな声で話しかけられると緊張がほぐれていく。
閉め切っていたカーテンは部屋の隅の方だけ開けられ、奥にあるレースカーテン越しの光が差し込んできた。部屋が明るくなる。
「少ししか開けられずに申し訳ありません。殿下のお姿を外から見られないためです。」
「わかってるわ、大丈夫。ありがとう」
「昨夜は採寸までお疲れ様でした。明日にはサイズを合わせた物をお持ちいたします」
「明日…そんなに早いの?」
「ええ、昨日来ていた彼女にお任せを。」
本物としてカルラの前へ出るにあたり、ドレスはマティアス殿下の母君…王妃殿下が以前着ていた物を調整して貸し出して頂ける事になっている。
あまりに畏れ多いけれど、今の私は自分のお金を出す事もできない状態。衣服も宝飾品も借りるしかないのだ。後でいくら用意するか、あるいは何をお渡しするか。
アンベルが用意してくれた温かいお湯で顔を洗い、柔らかいタオルで軽く押さえるようにして拭く。
クロイツェルで幽閉された一ヶ月の間は、自分の資産表すら見せてもらえない状態だった。どこまで取り上げられているか、カルラの罪を暴いた後でどれだけ戻ってくるかしら。
偽物が本物として挨拶してしまったなんて国としての失態だから、どの道払うのは私だけでは済まないでしょうけれど。……全て終えてからの、マティアス殿下との協議次第ね。
「こちらの椅子へどうぞ」
鏡台の前に置かれた椅子へ座り、正面を向く。
鏡に映っているのは白っぽくて目の黒いハムスターではなく、長い銀色の髪と青い瞳の、人間の女性だ。
今日は念のために侍女の格好をするので、髪はまとめ上げて茶色のウィッグをかぶり、シニヨンに整えてもらった。それが終われば「お顔に触れますね」と声をかけられる。
「隠すのは本当に勿体ないお美しさですが……ご容赦ください。」
「気にしないで。私は別人に見えるお化粧を必要としているのだから。こちらがお願いする立場だわ」
それよりも、状況が状況とはいえ……この部屋を使わせて頂いてよかったのかしら。
傍目からは私とカルラの区別はつかないし、私が暗殺されれば殿下が求める「カルラが偽物である証明」がずっとややこしくなる。
万一のためにも傍に置くべきという意図はわかっている。見張りの意味でも、すぐ対処できる点にしても。……心配もしてくださっているかもしれない、とはいえ。
本来マティアス殿下の妻となる女性が入るところなのだ、ここは。
まだ婚約者がいらっしゃらないようだし、もちろん今後お相手が決まったとて、「実はここにクロイツェルの王女を泊めた事がある」なんて、お伝えする事は絶対にないと思うけれど。
単に私が申し訳ない。でも緊急事態な上にこちらに選択権はないので……どうかお許しください、マティアス殿下の未来のお妃様。
「できましたよ、殿下。後は着替えましょう」
「ありがとう」
瞳の色は誤魔化しようがないけれど、眉はウィッグに合わせた茶色に。肌の色を暗くしてそばかすを描き加え、紅を塗った唇の傍にはほくろを添えてある。お化粧前とはだいぶ印象が変わった。
お仕着せに着替え、シニヨンキャップをつけた状態で部屋の中を軽く歩いてみる。
「どうかしら、立派な侍女に見える?」
「はい!後は歩き方を変えて頂いて。」
「歩き方」
「品格があり過ぎます。」
変装って難しい。ハムスターになれば一発で別の生物だというのに。
移動の間だけそうしておけばよく、目的地に着いたら自然体でいいと言われていくらかほっとした。
「では朝食にしましょう。」
「ここで食べていいの?」
「もちろんです。他の侍女達と卓を囲んで頂くわけにもいきませんから」
それはそれで楽しそうだけど、大人しく「そうね」とだけ返しておく。
クロイツェルではほんの時折、他の使用人の目がない時にだけ、カルラと二人で食べたものだ。影の存在を知っているのは、使用人の中でもほんの一握りだったから。
ワゴンで運ばれてきた食事をありがたく頂いた。
マティアス殿下は公務でお忙しいようで、ケイスと共にとっくに出ているらしい。私だけ遅くまで寝ていた事になるけれど、そうするように殿下が指示してくださったそうだ。
つい「お優しい方ですね」としみじみ言ってしまって、アンベルが微笑ましい顔をする。何だかいたたまれなくて、話題を変えた。
「そういえば、目的地というのは?」
「星の離宮に避難するのです。殿下の影の動きは把握しておりますから、もちろん彼女とは決して会わない道を通ります。」
アーレンツ王国の城には幾つか離宮があり、カルラが使っているのは花の離宮。
国王陛下が所有するのは太陽の離宮、他に月の離宮なども存在すると聞いた事がある。避難するなら昨夜もそうすればよかったのではと一瞬考えたけれど、やはりそれは難しい。夜に離宮へ向けて移動すれば目立つし、お付きが侍女数人だけでは狙ってくれと言っているようなものだ。
すっかり食べ終えてから贅沢にも食休みを挟み、出発する。
アンベルが言うには、星の離宮には管理人の女性がいるらしい。
「彼女は少し冷たく見えるかもしれませんが、とても気の良いお方です。どうかご安心くださいね。」
「わかったわ。それでは案内よろしくね。アンベル」
「お任せください。これより後、私は一時的に指導係として振舞わせて頂きます。殿下は私の後に続き、途中私が礼をするような事があれば、恐縮ですが倣ってください。」
それくらいこなしましょう、上位貴族が通るのに城の侍女が頭を下げなかったら問題だ。
見咎められてアンベルに迷惑をかけたり、顔を確認される方がずっとよくない。
きちんと侍女らしく振舞おうと気を引き締めたものの、アンベルの後ろに続くだけの私にわざわざ目を留める人もそうはおらず。
結局、何事もなく星の離宮に辿り着く事ができた。
装飾が美しいアーチを潜り抜け、玄関ホールに入る。二階まで吹き抜けになっていて、青色ガラスのシャンデリアには既に火が灯っていた。
変装はここまでで充分と、一階の部屋で化粧を落とす。銀髪を隠してくれたウィッグともおさらばし、アンベルが改めて化粧を施してくれた。楽しいのだろうか、心なしかアンベルの目が輝いている。
服はお仕着せのままだけれど、鏡の中には見慣れた自分の顔があった。
玄関ホールへ戻り、アンベルが息を吸い込む。
「ヘリ―、いるのでしょう?ヴァルトルーデ殿下をお連れしたわ。」
一階の奥からこつりこつりと足音がして、現れたのはアンベルと同年代だろう女性だった。
腰まで伸びた水色の髪をハーフアップにしてバレッタで留め、背の高い彼女が歩く姿は随分堂々としていて。じろりと私を見下ろす瞳は赤く、怜悧に整った顔立ちはどこか殿下を思い出させる。
私と同じように侍女のお仕着せを纏っている彼女を見て、アンベルは首を横に振った。
「貴女はまた、そんな恰好をして。」
「これが楽なのだ、許せアンベル。ご苦労だった、後はわたくしが預かろう」
「ええ、よろしくお願いします。」
「ヴァルトルーデ王女。こちらへ」
「は、はい。」
どうやらもうアンベルとはお別れらしい。
歩き出したヘリ―という女性の後に続きながら振り返ると、アンベルは苦笑して一礼した。
あちこちに火を入れずとも、窓から差し込む陽光が廊下を照らしている。
こつ、こつと靴音が響いていた。
「わたくしは王妃の妹だ。」
「――王妃殿下の?」
唐突な告白に驚いたが、彼女がこちらを見やる素振りをしたので慌てて横に並ぶ。それでよかったらしく彼女は鷹揚に頷いたけれど、私は少し扱いに困ってしまう。
「貴女を、なんとお呼びしたらいいでしょうか。」
「ふん?確かにな。気安く『ヘリ―さん』とでも呼んでくれ」
「わかりました。……アンベルとは長い付き合いなのですか?」
「古い馴染みでな。あれに敬語を使われるのはこそばゆくて適わんから、やめさせている。」
「そうでしたか…」
星の離宮は綺麗に掃除されているけれど、静かだった。
他に誰もいないのではと思うほどに物音がしない。マティアス殿下としては、今の私を護衛のない状態に置きたくはないと思うけれど……それに、王妃殿下の妹君がここの管理人?どういう事なのかしら。
「王女、書物は好きか?」
「歴史書でしたら一通り。戦記や図鑑なども…」
「娯楽小説は。」
「……それは読んだ事がないかもしれません。」
「知り合いが書いていてな。わたくしは共感できなかったが、年頃の娘は好むらしい。」
大扉の前に着いて、ヘリ―さんが慣れた手つきで開く。
そこは広々とした図書室だった。
「わたくしの秘密基地だ。ゆっくりしていけ」




